桜桃花

ルキノは試合が終わったその足で、自室へと急いでいた。ある程度身嗜みは整えたが、少しばかり綻びがあるかもしれない。しかし、そのような事は今のルキノにとっては些事だ。今日は前々から大切な彼女との約束があった。待たせているナマエのために少しでも早くにと、足早に向かう。
特に邪魔もなく自室の前へ辿り着いたルキノは、一つ息を吐くとドアへと手を掛ける。ドアを開けると、仄かに甘い香りが漂ってきた。普段なら気付かないような微かなものであったが、試合後で神経が過敏になっているルキノは、その僅かな香りに気が付いた。
香りに誘われるようにルキノは歩いていくと、そこにはナマエがいた。ルキノは一瞬ナマエの香りかと思ったが、彼女の香りは”そう”ではない。では、この香りは一体何だ?
ルキノが部屋に入ってきた事に気付いているのかいないのか、ナマエは彼女にとっては高めのテーブルに手を置き、何かを眺めている。ルキノはそんな彼女を驚かせないように、落ち着いた声色で問い掛けた。

「何を眺めているんだ?」
「何だと思います?」

ルキノが声を掛けると、ナマエは驚く様子もなくゆっくりと振り返った。自身が入ってきた事に気が付いていたらしい彼女が、自分より気に掛けているものは一体何だと、ルキノは机を覗き込んだ。

「花、だな」
「花ですね……桜です!」
「サクラ」

そこには花瓶に生けられた一枝の花があった。薄桃色の花が枝を彩っている。ナマエが嬉しそうに告げてくる花の名を反芻するが、ルキノにはあまり聴き覚えがない名前だった。正直なところ、馴染みのない花よりもそれを顔が綻んだ様子で告げる彼女の方が、ルキノにとって興味の対象……というより愛でる対象であった。

「もしかしてあまり詳しくないですか?」
「あー、私の研究対象に関する植物なら……」
「ふふ、何だかルキノさんらしいですね」
「そうか…、ありがとう」

そんなルキノの様子を見たナマエは、少し困った様に問い掛ける。反応が薄かった事、それはルキノが微笑みに見惚れていたとは思いもしないナマエは、ルキノが桜についての情報を思い出そうと悩んでいると判断したようだった。勘違いしているのならわざわざ訂正する必要もあるまい。ルキノは軽くこめかみを掻くと、彼女の勘違いに乗る事にした。
ルキノらしいと呟くナマエは、小さく笑い声を溢す。きっと良い意味でそう呟く彼女に、ルキノはそこが君らしさだと考える。思わず緩み掛けた表情筋を引き締め、何処からサクラを手に入れたのかと尋ねた。

「これ、美智子さんに貰ったんです」
「ハンターに花を貰うなんぞ、君くらいだろう」
「いえ、他にも渡して…というより集まって小さなお花見みたいな事してますよ」

事も無げにナマエはそう答えた。ハンターとサバイバーという相容れない立場にも関わらず不用心ではないか、と自分の事は棚に上げてルキノは思う。元々女性ハンターとサバイバーは時折交流をしていたのを知っていたからこそ、ルキノは口には出さなかったが。

「ナマエは行かなくていいのか?」
「私はいいですよ」

彼女も花見に参加したかったかもしれないと、ルキノは問う。行きたいと答えたならば、似合わないが自分も参加しなければと考えていたルキノは、ナマエの返答に小さく驚く。二人の間に少しだけ沈黙が流れた。その沈黙を破ったのはナマエだった。

「ルキノさんは、お花見したくないですか?」
「私は花には興味が……いや、一つの”花”を除いて興味がない」
「ルキノさんが興味がある花……?」

ルキノの返事にナマエは一瞬固まり、考える素振りを見せた。自分の事を考えている彼女の様子を見ているのも楽しいと思ったが、もう随分と待った。二人だけの折角の時間だ。ルキノはそっと彼女の頬に手を寄せる。ルキノの手に肩を震わしたナマエだったが、ルキノの優しげな眼差しを見るとスッと力を抜く。そんなナマエをルキノは自らの尻尾を使い、器用に抱き寄せた。

「君だ」
「えっ、」

ルキノがそう告げるとナマエの頬は、まるで卓上にある桜のように色づく。どんな花よりも可憐な彼女と、今日は何をして過ごそうか。まずは君の好きな花でも教えてもらおうか、そう呟くルキノにナマエは花笑んだ。