戻る場所

外の空気を吸いたい。ぼんやりとベッドの上で天井を見上げながら、そう独りごちる。このホテルの部屋の窓は板で打ちつけられており、外の光さえ入らない。私がここへ来たのは一体何時頃だっただろうか。明確な日時なんて忘れてしまったけれど、相当な時間が経っているに違いない。毎日やる事もなくて、ベッドの上で寝腐っているだけでは気が滅入ってしまう。
よし、外へ行こう。そう意気込んだ私はクローゼットを開け、コートを羽織ると勢いのまま玄関へと歩き出した。
ロビーへ行くと、いつものようにグレゴリーがフロントで座って何やら読んでいる。外へ出てくると声をかけた方がいいのか、そう悩んでいる間に彼の方からこちらに声をかけてきてくれた。一体何処へ? そう問い掛けるグレゴリーの顔は何とも言えない渋い顔になっていた。もしかして、私が家に帰るとでも思ったのだろうか? 家への帰り方などとうに忘れてしまったのに。少しだけ外の空気を吸ってくるだけ、と伝えるとグレゴリーは興味を無くしたかのように、さっさと行って戻って来いと手を振って私を外へ送り出した。

久々に出た外は思っていたより、鬱蒼としていた。外ってこんなに暗かったっけ? 外に出れば陽の光を浴びられると思っていたが、それは思い違いだったようだ。何故か私の記憶の中の外は、空気が綺麗に澄んでいる森だったが……実際は全てを飲み込んでしまいそうな森、そして墓場だ。墓場を見ながらなんて気分が逆に落ち込んでしまう。せめて墓場が見えない所へ、私は奥へと足を進めた。
墓場を抜けて森を進んだが、景色は変わる事はなかった。もう少しだけ歩いてホテルへ戻ろうと思っていた時、今までとは様子が異なる道が見えた。先程まで歩いていた道と比べ、少し舗装されており車が一台通れそうな道。木を分けて敷かれているため、他の場所より少しだけ明るくなっている。ああ、ここで少しだけ居ようかなと道脇の切り株へと腰を下ろす。

どのくらいぼんやりと座っていただろうか。外は思ったより寒く、コートだけでなくマフラーも着けてこれば良かったと少し後悔した。気分転換になったと言えば嘘になるが、これ以上ここにいても風邪を引くだけだ。
もう帰ろうと腰を上げた時、道を何かが走る微かな音……エンジン音が聞こえてきた。こんな道に車が? と訝しんでいると、ライトをつけた車が私の目の前で停まった。鮮やかな色をしたイエローキャブ、ただナンバーはなく文字が書かれている。この車は……そう考えていると運転席からスーツを着た男が降りて、こちらへと歩み寄ってきた。

「お客さぁん、こんな寒い日にどうしたんです?」
「……タクシー」
「何か探し物でも? 俺も一緒に探しましょうか」

随分と人の良さそうな顔を貼り付け、猫撫で声で此方へと話しかけてきた男……私が宿泊しているホテルのお抱えの運転手だ。帰りが遅い私に、グレゴリーが様子を見てこいとこの場へ寄越したのかもしれない。それにしても、私しかいないのに笑顔を作る意味はないのでは……? 彼のなんとも言えぬ笑みに、私は思わず苦虫を噛み潰したような顔になってしまったようで、その様子を見たタクシーの笑顔が少し引きつる。

「私の前では猫被ってなくてもいいよ、胡散臭い」
「……胡散臭いとは失礼だな」

その言葉を聞いたタクシーは、先程までの笑顔を取り払い、心外だ! と言わんばかりにジト目でこちらを見てくる。ここまでくると感心してしまう。笑顔の切り替えが最早プロだ。一人で納得して小さく頷いていると、腕を組みトントンと指を叩いている様子が目に入ってくる。この男、この少し間で苛ついてきているな。これ以上機嫌を損ねて、嫌味を言われたらたまったもんじゃない。

「少し外の空気を吸いたくて、ここでぼんやりとしてた」
「ふーん、こんな所で、ね」
「何か言いたい事でもあるの?」

私はここで何をしているのか正直に話したが、タクシーはその返答に納得していないようだった。意味ありげに言葉を投げられても困る。それに疑っているような態度を取られるのは、あまりいい気分ではない。言いたい事が直接言えばいいじゃない、そんな思いを込めて返す。言葉に棘がある言い方になってしまった。タクシーはまさか強気に言い返してくるとは思わなかったようで目を丸くし驚いた表情をした。その反応に私もビックリしてしまう。少しだけ何とも言えない空気が流れたが、その流れをタクシーが切った。

「本当は森の外へと、行こうとしてたんじゃないのか?」
「もしそうだと言った、ら…」

此処より外へなんて行く気はなかった。ただあまりにも疑ってくるタクシーに、行くつもりだったと言えばどんな反応が返ってくるのか……興味本位だった。
冗談で私がその言葉を口にした瞬間、彼の雰囲気が変わった。タクシーの瞳は今まで見た事のないような深い闇を湛えたような暗い色をしていた。怖い。彼はどこか微笑んでいるような、いや何の表情もないのか? 何を考えているか全く分からぬ表情で、ただ私の言葉を非難しているようだ。
そんな彼の様子に、私の身体は縮み上がり呼吸が上手く出来ない。自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。どうしよう、どうすれば……ただただそんな考えが頭の中を巡回し出した時、風がビュウっと強く吹く。

「ああ、このままじゃ風邪引いてしまうんじゃないか?」

タクシーの纏っていた空気がパッと変わった。彼から感じていた重圧のようなものが消える。だけれど、私は動けずにいた。まるで石化の呪いでも掛けられてしまったかのように。動かぬ私にタクシーは不思議そうに名を呼んだ。

「ナマエ?」
「えっ、あ……うん、そうだね」

本当に先程の彼は、今目の前にいる彼と同一人物なのだろうか。そんな馬鹿げた事を思ってしまうほど、同じ人には思えなかったのだ。今まで感じたことのない恐怖。私が返事をした事に彼は頷き、周囲を見渡す。そして何事をなかったかのように、薄らと笑みを浮かべ口を開く。

「送ってってやるよ、俺たちの帰る場所に」
「……もう少し、外にいたいから」
「仕方ないな。それならグルっとここら一周回ってやるから、な? 戻ろう」

私の返答にタクシーの動きが少し止まる。また答えの選択を間違えた? 恐る恐る彼を見ると、先程の恐ろしい雰囲気は纏っていなかった。ほっとして思わず唇から息が溢れる。だけど彼は笑顔を貼り付けてはいるが、目が笑っていない。ダメだ、彼に従わなければ。私は曖昧な笑みを浮かべ、そうだねと答える。もう戻らないと、帰る場所へ。

「さ、乗って。シートベルトは御自由に」
「……安全運転でお願い」

タクシーはドアを開け、恭しく礼をした。いつもはそんな事しないのに。もしかしたら、私の怯えが彼に伝わっているのかもしれない。後部座席へとゆっくりと乗り込み、シートへともたれ掛かる。タクシーも運転席へと座り、鍵が掛けられた。
ああ、気分転換のために外へと来たのに。逆に疲れ果ててしまったなあ。エンジンが掛かる音の後、私のちょっとした足掻きの言葉に、タクシーは後ろを振り返り優しげな声で返す。

「分かった分かった。遠回りして戻ってやるから、少し寝ていてもいい」
「うん……」
「なあ、ナマエ。変な事考えるなよ、どうせ……」

外で轟々と音を立てて木枯らしが吹いた。その音にタクシーの声は掻き消されてしまった。何か、私に言おうと……?

「今、何て言ったの?」
「ん? どうせなら楽しく生きた方がいいって言ったのさ」
「そっか……」

本当は違う言葉を呟いていた気がする。大切な事、だったかもしれない。でも、それは何となく聞かない方がいい気もする。ああ、眠い。まさか彼の運転を心地良いと思う日が来るなんて。何かを考えようとしていた、ような気がするけど、もう眠くて仕方がない。彼の言葉に甘えよう。私の思考は、眠りに誘われ溶けていった。


着いたぞ、とタクシーに揺り起こされる。随分と眠り込んでいたみたいだ。寝顔を見られた事に僅かな羞恥を覚えるも、彼は欠けらも気にしてはいないようだ。まあ職業柄、寝てしまったお客さんの顔を見る事なんて少なくはないのだろう。
車から降り目の前のホテルを見上げる。少しだけ外へ、と言いながらかなりの時間が経ってしまった。きっとグレゴリーにグチグチ文句を言われるのだろうと思うと、足が重くなってしまう。肩を落としていると、入らないのか?と訝しげな顔で見られる。ここで悩んでいても、どうせ帰る場所はここなのだ。よし! と気合を入れ、タクシーの方へ身体を向けて感謝の言葉を伝える。

「ここまでありがとう」
「駄賃はツケでいいから、さっさと部屋に戻れよ」
「はいはい」

良かった。あのふざけた感じ、いつものタクシーだ。きっとあの恐ろしい彼は疲れた私が見た幻覚だったに違いない。もう、悪い事は綺麗に忘れて、眠ってしまいたい。そんな事を考えながら、私の足は自然と早くなった。

ホテルへと帰っていく彼女をジッと見送る。何が楽しく生きた方がいい、だ。自分で言っておきながら全く笑える。さて……また新たな客がいつ来てもいいように、ガソリンでも入れに行くか。ホテルに背を向け、車へと足を向けた男は考える。そうさ、ここからは誰も逃げられない。アンタが逃げようとしたら、地の果てまで追い掛けて連れ戻してやる。

(どうせ何処にも行けないのだから——)