ああ、クソ……腹が減った。何故俺がネズミのようにコソコソと隠れて歩かなければいけないのか。わざわざ昼に出歩かなければよかった。昼間でも薄暗い路地に立つ俺は、溜息を一つ溢しねぐらへと戻ろうと踵を返そうとした。何だ……? 微かだが足音が光の方から聴こえる。嫌な予感が……クソッ!
「辻田さん!」
目を細めて音のする方を見る俺の目に飛び込んで来たのは、一人の女の姿。いつでも刃を出せるように構えていた手はそのままに、俺は辺りを警戒する。
「誰か探しているんですか?」
「あの……あいつだ。騒音に足が生えたような煩い男」
「……ああ! カンタロウ!」
騒音男に警戒し過ぎて、女が目の前に来てきたのに気が付かなかった。俺とした事がッ! 脳内で自分に悪態を吐き、目の前の女に意識を戻す。こいつはよくあの煩い奴と一緒にいる女で、いつも何か言いたげに俺の事を見ている。もしや俺の正体に気付いているのか?
彼なら今日はいませんよと笑う女をじっと観察するが、俺が辻斬りだと気付いているのなら呑気に笑っている筈もあるまい。それならば丁度いい。俺は思わず弧を描きそうになる口元を抑えつつ、女に手を伸ばす。
「あの! これどうぞ」
「何だ、これは」
「いや、その、ちょっと余ってたから……」
「いらん」
伸ばした手から刃が出される事はなかった。出そうとした瞬間、俺の手に女から紙袋を押し付けられる。何だァ! クソッ、タイミングが悪い……いや、女に取ってはタイミング良くだが。
余っていたなどふざけた事を抜かす女に紙袋を押し返すと慌てた様子で、嘘です! 辻田さんに渡すために買ってきました! と叫び出した。すぐに白状するなら最初から嘘を吐くなと悪態を吐きつつ、わざわざ俺に献上するために買ってきたらしい物を確認する。箱に入っていて中が見えない。変な物じゃないだろうなと訝しんでいると、女は恐る恐るといった様子で口を開く。
「それ、マカロンです」
「まか……? 何だ?」
「えーっと、丸くて甘いお菓子、です!」
丸……丸か。どうしてもと言うなら貰ってやらない事もない。ひったくるように紙袋を奪った俺を、女は物言いだけな目で見ていた。
「返しはやらんぞ!」
「い、いらないです!」
「……あっ、でも」
「なんだァ! 結局欲しいのか!」
俺に頼むとは良い度胸だな女ァ! 見返りを求めてきた女に、手にしていた紙袋を押し返そうとする。これで貸しと言われたらたまったもんじゃない。今すぐに叩き斬ってやりたい衝動をグッと堪える。こいつを斬ったら、面倒な事になるのは目に見えているからな。
「欲しいって言うか! 名前! 下の名前教えてください!」
俺の剣幕に押されたのか、女は声を張り上げて願いを叫んだ。煩いッ! あの暴風男と同じくらい煩いッ! あまりの煩さに女が言ったのか、すぐに飲み込めなかった。
「……名前だと?」
「えーっと、そうですよね。私の名前はナマエです! 辻田さんは……?」
「俺は……」
名前……名前? 俺の名前は……俺は。目の前の女……ナマエは自分だけ尋ねるのは不公平だとでもいうように、自分の名前を口にする。そんな事をされても俺が名を告げる義理はない。それに俺の名は辻斬りナギリ……ただそれだけだ。だが……
「クソッ! 俺の名はナギリだ!」
「ナギリ……? どこかで……」
あまりにもこの女が悲しそうな表情をするせいで……いや! 何だこの柄でもない考えは! せめて俺の名を聞いて畏れ慄け人間。
俺の名を聞いた女は思案する。はは……そうか! こいつは俺の名を知っていたんだな!自分の名を聞いて怯える人間を見るのは心地がいい。さあ、俺に怯える様を見せろ!
「うーん、思い出せない」
「思い出せない? その名を?」
スッと頭が覚めていく。こいつも……俺を覚えていないだと? 何処かで聞いたはずなのにと、眉を下げて此方を窺う女をじっと見る。
思い出せないのであれば、今から辻斬りナギリの恐ろしさを嫌と言うほど味合わせてやる。一度下げた手に力を込めた。血の刃を出す前に、女の表情を確認する。斬った後にはもう歪むんだからなァ!
「ええ……。でも今から辻田さんがナギリさんだって、ずっとずっと覚えてますよ!」
「ずっと……」
今度こそ、本当に斬り刻んでやろうと……クソ! 女がおかしな事を言うから……俺の事を、ずっと……。どうせすぐに忘れてしまうはずだ。だが、こいつの事を信じてやろうなんて……畜生、今だけだ……。
「あの、これからナギリさんって呼んでいいですか?」
「ああ……ってダメだ! 殺すぞ!」
「えっ!? ダメ!? この流れで!?」
うっかり流されそうになったが、何を考えている!? その名で呼んだら俺が辻斬りだとバレるだろうがッ! 万が一でもあの馬鹿の前で呼ばれたりしたら……あいつの武器が火を噴き俺は終わる。いずれは全員叩っ斬るが! 今は力を取り戻す事が先決だ!
とんでもない事を言い出した女に、俺は慌てて言い放つ。俺の拒絶の言葉に女は見る見るうちに元気をなくす。しょぼくれた様子でダメかあ……と呟くそいつを見ていると、何故か胸が締め付けられるような気がする。俺とあろうものが…ただの人間風情にッ!
「クソッ! その、二人だけの時ならいい」
「それって……!」
気が付くと俺の口は勝手に言葉を紡いでいた。先程まで暗い空気を纏っていたこいつの顔がぱあっと明るくなる。花でも飛ばしそうな女に、俺は一瞬たじろぐ。
何故そんなに嬉しそうな顔をする?訳が分からない。俺は自分が溢してしまった言葉を思い出し、そして気付く。こいつ……!
「は? ……! 違う! 深い意味じゃない! 殺すぞ貴様ァ!」
「そんなに怒らないでくださいよ! ……へへ、それでも嬉しいです」
馬鹿かこの女ァ! 何を考えてるんだ!? ま、まるで俺が…お前の事を特別な存在だと思っているような。そんな事あるか! 俺の叫びに女は全く動じた様子はない。
それどころか頬を染めて柔らかな笑みを浮かべている。クソ、なんだその表情は! 俺に……辻斬りに向けて浮かべるものじゃないだろ! このままだとこいつのペースに呑まれてしまう。妙に高鳴る胸に気付かないフリをして、俺は口を開く。
「クソッ! もう行けッ!」
「はーい! それじゃあまたね、ナギリさん!」
「またじゃないッ! ……ふん、じゃあな」
クソ……疲れた。誰かを斬るつもりだったが、こんな疲労感を抱えたままでは駄目だ。ねぐらに戻りマットレスに腰掛けた俺は、女が献上してきた紙袋をひっくり返す。箱と、何だ?手紙……。
手紙に記された女の名をゆっくりとなぞる。ナマエ……ナマエか。覚えたぞ、次に会った時俺の名を覚えていたら……そうだな、夜道でも案内してやろうか。フン…まあ、ナマエは暫く斬らないでいてやろうか。俺は口に丸い菓子を放り込みながら、らしくない事を考えた。ああ、全く甘いな。