「神社をたんけんしよう!」その言葉は少女にとってあまりにも魅力的な言葉だった。ナマエは今年で齢八つになる。一年通った小学校にはとうに慣れ、学校や友人宅で遊ぶだけでは物足りない好奇心旺盛な年頃。友人からの探索という楽しげな誘いに、二つ返事でナマエは頷いた。
家に帰りランドセルを放り投げると、「あそんでくる!」と一言彼女は家を飛び出した。
探索と言えど其処はお祭りでも訪れた事のある神社。ある程度見回るともう何処も知った様子となる。しかし、時に子供の観察力は侮れない。一人が奥を指差し「こっちに何かある」と、そんな言葉に見慣れた本殿の奥へと皆足を進めた。
この先には一体何があるのかな、友だちといっしょにヒミツの場所を探検しているみたいで楽しい。ナマエの胸中を占めるのは高揚感だ。その胸の高鳴りも長くは続かなかった。友人が足を止め、無言で前を見つめている。どうしたんだろう?後ろから来た友人もナマエと同じく不思議に思ったようで、無言で立ち尽くす友人に声をかけた。
「こわい」
そう答えると、友人はナマエ達の後ろへと怯えた様子で引っ付いた。そんなに怖がることないのに!友人が見ていた方を見ると、そこには壊れかけの社が鎮座していた。空気が一瞬で変わった、そんな感覚を覚えナマエはキョロキョロと辺りを見渡す。ただ明確に何が変わったかは分からなかったが、確かにそこは彼女にとって、ある種の神聖さを感じる何があったのだ。そんなナマエとは裏腹に、共に来た友人達は皆恐れを口にし、急いで帰路へと着くことになった。帰り道誰もがもう先程の社には近づくまいと思う中で、ナマエただ一人どこか寂しげな社をもう一度訪れたいと思ったのだ。
*
次の日、友人達にも知られぬようにナマエはこっそりと社に向かっていた。ポケットにカラフルな飴玉を数個入れ、社へと向かう彼女の足取りは弾んでいて軽い。きっと友だちの誰も近づかない、自分だけの特別な場所になるんだ。思わずほころび出す口元をキュッと結び、さあここを抜けると社だと足を踏み出した。
そんなナマエの目に飛び込んできたのは、社の前で静かに佇む背の高い男の姿。彼女が男に抱いた印象は……白、ただそれだけであった。まさか人がいるとは思っていなかったナマエは、驚きとどこか残念だと思う気持ちで動けずにいた。男は固まっている彼女を一瞥すると、薄らと笑みを浮かべ社の前から退く。
ナマエはそんな男の様子にハッとし、お供えだけして帰ろうと急ぎ男の横を通り過ぎた。ポケットから大切に持ってきた飴玉を取り出し、壊れかけた社へと供える。飴玉の鮮やかな色彩は、この鬱蒼とした雰囲気には不釣り合いだったが、それを指摘する者はここにはいない。元気を出してくださいと社へ手を合わせる。ナマエが顔を上げ後ろを振り向くと、”白”の男は先程の場所にまだ立っていた。
「何か願い事でもしていたのですか」
今まで聞いたことのない声色。絡みつくような声、透き通るような声。まるで真逆の感想を抱くような男の声は、ナマエの中へとストンと落ちた。知らない人とは話さない、学校で教えてもらった約束など彼女の頭の中からは綺麗に抜け落ちていた。早く白のお兄さんに伝えてあげなくては。
「ちがうの、さみしそうだったから」
ナマエの口から出たのは少しおかしな言葉だった。彼女が幼いなりに自分の考えを言語化したものだ。お兄さんにちゃんと伝わっただろうか。ナマエは緊張した顔つきで恐る恐る男を見つめる。それに対し男は一瞬驚いた表情を浮かべた。だがそれも一瞬、彼は深い笑みを見せゆっくりと口を開く。
「また明日も来てくださいね」
*
ナマエは社へ向かいながら昨日の男の事を思い出していた。綺麗な白だったと思う。人に白っておかしいかな?そうは思っても、彼女には彼を形容する言葉がこれ以外に思いつかないのだ。明日も……そう言っていたからきっとお兄さんは今日もいるはず。本来なら得体の知れない人とは関わってはいけない。しかし彼の不思議な雰囲気にナマエの警戒心は好奇心へと取って代わられてしまった。
高鳴る胸の鼓動を聞きながら、彼女は社の方へと足を踏み入れる。そこには彼女の期待通り、昨日の男がやはり社の前で立っていた。男を見つけた瞬間、ナマエの顔がパッと明るくなる。やっぱり、わたしを待っててくれたのかも!
男もナマエの姿を見ると、ニコリと微笑み「こんにちは」と挨拶をする。たわいもない会話をする……その中で彼女はとある疑問を抱いた。この人はどうしてここにいたんだろう?ナマエは深く考える事もなく、男へと疑問をぶつけた。
「お兄さんはこの場所がすきなの?」
「……此処が、私の場所ですから」
男は少しだけ考え込むと、何かを訴えるような意志のこもった口調で言葉を発した。しかし幼いナマエには含有されている意志を汲み取る事は出来ず、ただただ彼女の中で疑問が一つ増えただけだった。一体どういうこと?もしかして友だちがいないからここにいるのかな?悩むナマエを男は無言で見つめる。彼女を見極め、審判しているかの如く。
「それじゃあわたしがお兄さんに会いに来るよ! 友だちになろう!!」
ナマエが考え抜き出した結論はこうだ。お兄さんはこの場所が好き。でもここには誰も来ないから寂しい。それなら私が友達になって、お兄さんといっぱいお話しすればいい!なんて素敵な考えなのだろうかと破顔するナマエに、男は目を細め頷いた。
ここからナマエと男との不思議な逢瀬が始まった。
*
いつものように学校終わり社へと向かったナマエ。彼女の友人も最初のうちは遊びの誘いを断り、一人社へと向かうナマエに不満を漏らしていたが、今では「今日もあそこへ向かうの?」と聞いてくるまでになった。その度にナマエは言い知れぬ不安を抱いていた。もしかして他の子も社へと行きたいかもしれない。お兄さんに新しい友だちができるかも。うれしいはずなのに……。それは可愛らしい嫉妬であったが、彼女は自分の思いに気付かない。しかしそんな彼女の心配は杞憂となった。誰も社へは近付かない、ただナマエのみが足繁く通うのみだ。
さて、今日も今日とて社へと赴くナマエ。いつものように大切に持ってきた飴玉を供えると、男へ学校での出来事を嬉しそうに話し出した。そんなナマエに男はポツリと言葉を漏らす。
「お前は警戒心のない子ですね」
その言葉にナマエはふと気付く。ここでお兄さんと友だちになったのに、まだ名前を知らない。このままでは知らない人のままではないのだろうか?彼が友人でなくなってしまうようで、ナマエは急に恐ろしくなり慌てて名を問う。
「私の名前ですか……?私の名前は――」
確かに男は名を告げたはずであった。しかし、ナマエは男の名を聞き取る事が出来ない。男が彼女へと名を語った瞬間、まるでノイズがかかった不快な音となった。ナマエは本能が拒否するような音……ではなく、彼の名が聞き取れなかった事実に恐れを抱いた。
どうしよう!どうしよう!!せっかくお兄さんが名前を教えてくれたのに。小さな声で謝罪を口にするナマエに、男は安心させるような声色で呟く。
「まだお前は”此方”の者ではないから」
ですからまたいずれ。男はそう伝えると、どういうこと?と如何にも質問したくてたまらないといった彼女を社から見送った。帰路に着いたナマエは、いつもと少し様子が異なった男を心配に思い、そしてもう一度名を聞こうと決意するのだ。
*
朝から太陽が陰り、どんよりとした雲を抱えていた空は遂に雨を零し始めた。今日は雨だから、お兄さんはいないかもしれない。そう思いながらもナマエの足は社へと向かう。社の前には背の高い男が。お兄さんだ!と駆け出そうとしたナマエの足はピタリと止まる。
白のお兄さんと似ているがどこか違う。いつもの男と似た背丈をした”黒”を纏った男。その男はナマエに気付くと、じっと目を見据え口を開く。
「囚われたくないのならば、口にしてはならない。戻れなくなるぞ」
男はそのように呟くとナマエから視線を逸らし、社の更に奥へと消えていった。さっきの人は誰だったのか、いつものお兄さんは今日は来ないのだろうか。社に手を合わせるナマエの頭の中は疑問で埋まっていた。少しだけいつもの男を待っていたが彼が現れる事はなく、ナマエはトボトボと帰路につく事となる。
家に帰ったナマエを待っていたのは、恐ろしい形相で立っている母親。いつものように元気に家を飛び出して行った我が子を見送ったが今日雨である。誰かの家で遊んでいるのかと思ったが、相手の名前を聞いていない。心配になった彼女はナマエがよく遊んでいた友人宅に電話をかけるが、何処の家にも来ていないと言う。慌てていた母親に「ナマエちゃんは一人で神社の奥に行っていると聞いたけれど……」と。
この日からナマエは社へ行くの禁止された。
*
ナマエが社に行けなくなってから、すでに一週間ほどの時が過ぎた。彼女はただ恐ろしかった。それは母親に怒られた事ではなく、会いにいくというお兄さんとの約束を破って、彼に失望され友ではなくなる事がだ。
この間もお兄さんはわたしを待っていて、一人でかなしい気持ちになっているかも。最早ナマエには社へ行かないという選択肢はなかった。都合良く親が買い物に行くというので、ナマエは急いで家を飛び出した。
無我夢中で走り社へと辿り着いたナマエの目に飛び込んできたのは、いつも会っていた白の男。ただいつもと異なるのは男が恐ろしい程の無表情で佇んでいた事だ。やっぱりわたしが来なかったから……。ナマエは心を侵食し出す不安を振り払い、意を決して男に声をかける。ナマエの声に気付いた男は、パッと綺麗な笑みを浮かべナマエの方へと歩み寄って来た。
「ああ、お前。もう来ないのかと思いましたよ」
先程までの雰囲気とは打って変わり、いつもの優しげな男に戻った事にナマエは安堵した。そして気付く。もしかしてお兄さんはわたしのことをずっと待っててくれたの?彼女の胸の中は幸せでいっぱいになる。まだ恋をした事もない幼い彼女は、その感情を定義する事は出来ない。しかしそれが心を満たすものであると感じたのだ。そんな彼女を男はひたすらに見つめていた。
ナマエは男に返事をしていない事に気付き、「ここに来るって約束していたのにそんなことしないよ!」と焦りながら告げる。
「約束……そう言えばお前は私の名前が知りたいと言っていましたね」
前の会話を思い出しているのか男は少し遠くを見ているようだった。もしかして名前をちゃんと教えてもらえるのかな?と期待で目が輝いているナマエに、男は目を向け思案する。暫し考えた後、男はどこからか茶褐色のものを取り出してナマエへと差し出す。
「ほら、これを食べなさい」
差し出されたのはナマエが今まで見たことのない食べ物であった。食べなさいってことは食べれるはずだけど、何なんだろう?初めて見る食べ物に悩んでいるナマエは、雨の日に会った黒の男の言葉を思い出す。
「口にしてはならない」口にしてはならない……食べてはいけない……?都合良く思い出した忠告をまるで意味のないものとは思えず、ナマエは躊躇し渡されたものを受け取ることなく数秒固まる。
「食べないのですか」
男は確かに笑っていたはずだった。しかしナマエはそんな男に言い知れぬ恐れを抱く。彼が笑っているのか、それとも怒っているのか……分からないのだ。男の感情を何とかして読み取ろうと、ナマエはそうっと手を伸ばした。しかし手が届く寸前、男はナマエからそれを遠ざけた。
「そんなに心配なら、……ふふ、仕方のない子ですね」
手に持っていたそれを半分にし、片方をナマエと差し出し、男は残りを口へと放り込んだ。ナマエは男が美味しそうに食べる様子を見て、お兄さんも食べたからと思い切って口に含む。それを食べた瞬間、今まで感じた事のない甘美な何とも言えぬ味がナマエの口に広がった。よく味わいながら飲み込み、興奮しながら感謝を伝える。美味しかった!と話すナマエに、男は心からの笑みを浮かべ、そして己の名を告げた。
「それは良かった、私の名前は……謝必安」
男の名を聞いた瞬間、まわりの音が、時間が止まったように感じた。まるで自分と男以外の生命が活動を止めたかの如く静寂。何が起こったのか、ナマエは不可解な面持ちで辺りを見回す。困惑の表情のまま視線を戻すと、男は眉を下げ残念そうにこちらを見ていた。
「ですが残念です。足りなかった……此方に連れて行くのは、また――」
にっこりと微笑む男に、もう一度先程の礼を言いナマエは社を後にする。明日は今日のお礼にお兄さんにお菓子を持ってこよう、なんて思いながら。
楽しげな気持ちのまま家のドアを開けると母親が立っていた。しまった!おこられちゃう!!そう覚悟したナマエは抱き締められた感覚に目を開く。驚きのまま母を見ると、か細い声で「無事でよかった」と肩を震わしていた。ナマエの胸にとてつもない後悔が押し寄せる。お母さんはわたしのことを思ってくれていたのに……もう悲しませたくない。
これを境に少女は男との思い出を胸に仕舞い、かつての日常へと戻っていった。
*****
あれから時は流れ、ナマエは大学生となった。地元を離れ慣れない土地での生活は不安であったが、運の良い事に周りに恵まれていた。大学では気の置けない友人に出会い、アルバイト先でも頼りになる先輩に囲まれて、心配事など何一つない……その筈であった。日常生活には全く不満もない。
そんなナマエを悩ませるのは、最近になって頻繁に見るようになった夢だ。その夢はナマエが鬱蒼と木々が生い茂る森のような場所に一人立っているところから始まる。何処だろうかと辺りを見回すと、奥に光が差し込んでいる場所を見つけそこへナマエは歩を進めるのだ。しばらく歩くと、そこには背の高い男が一人立っている。男の顔は見えないが、何かを呟いている事は分かる。
ここまで頻繁に同じ内容の夢を見るのは気味が悪い。しかし夢であって害もないため、あまり人に相談する事も出来ず、ナマエは一人溜息を吐くのであった。
ある日またいつもの夢を見た。だが……いつもと異なるのは男の声が聞こえた事。
男は優しげな声で「もうすぐ…もうすぐですよ」とこちらへ言葉を投げかけていた。知らないはずであるのにどこか懐かしい男の声、そして自分が立っている場所にナマエは記憶の奥底が揺さぶられるように感じた。
目覚めてからもその夢が忘れられないナマエは、幼い頃一人で神社に行っていた事をふと思い出した。何故今までその事を忘れていたのか、もしかしたらそこで誰かに会っていたかもしれない。忘れていたという事実に疑問を感じたが、ナマエは神社に行けば夢に出てくる男の正体を知るきっかけなるかもしれないと考えた。実家にもあまり帰っていないし、地元に戻るにはいいタイミングかもしれない。
そうと決まればもう次の週末に帰ろう!そう決意したナマエの胸中には、何となくだが行かない方が良いような一抹の不安が芽生えていた。
*
週末ナマエは久しぶりに実家に戻り、地元を歩いていた。明日行く予定であったが、近くを通り掛かったので神社の入口の前まで行ってみる事にした。神社の本殿へと続く参道は、木々が生い茂り気温も幾分か低そうに思える。明日訪れる時は上着を羽織ってこないと。そんな事を考えながら踵を返したナマエは、後ろから誰かに呼ばれたような気がして慌てて振り返った。しかしそこには誰も居らず、ナマエは少しの疑問を抱えて帰路に着いた。
次の日、ナマエは過去何度も通っていた社の前にいた。そこは記憶の中の社と比べ、より一層暗く重い空気になっていたが、それでも懐かしき社。彼女の中には不思議と恐怖はなく、ただただ懐かしさが胸中を占めている。ここでよくお参りをしていたなあ、と昔のようにポケットから飴玉を取り出してそっと置く。
久しぶりにここに来ましたよ、と手を合わせ後ろを振り向くと……そこには今までいなかったはずの白い男が立っていた。気配を感じさせずに背後に立っていた男に思わず、誰!?と驚きの声を上げてしまう。男はナマエの大きな声に少しも動揺せず、にこりと笑うとナマエを見据え呟いた。
「随分と……ええ、随分と待ちました。ですが、もうお前は私のものです」
見知らぬ男が自分の質問に答えずに歩み寄ってくる……これ程の恐怖はない。男が一歩進む度にナマエもじりじりと後ろへと下がる。ナマエは目の前の男が知り合いであったか、思い出そうとするがやはり思い出せない。分からない、彼が誰だか分からない!!得体の知れぬ男に血の気が引いていく。泣きそうになるナマエとは対照的に、男は実に楽しそうに彼女へと近寄っていく。
「ふふふ、今日のお供えは鮮やかなものではないのですね。ですが、その黄金色の飴細工も気に入りました」
男はナマエの供えた飴玉を見て、すうっと目を細めた。まるで昔の事を思い出し懐かしむような男に、ナマエの薄れていた記憶が色付いていく。
もしかして、この目の前にいる男は……でもそんなまさか!! 白のお兄さん。
彼女は思い出してしまった。あの頃と変わらない声、そして姿。目に見えて狼狽るナマエに男は気分を害した様子はなく、むしろ悩むナマエに愛おしくて仕方ないといった様子で手を伸ばす。
「まだ思い出しませんか?……大丈夫ですよ、これから時間は沢山あるんですから」
男に肩を軽く押される。社へと倒れる!と身構えたナマエに衝撃は襲ってこなかった。まるで後ろには何もなかったかのように倒れ込むナマエが見たものは、この世の者とは思えぬ程美しく笑う白の男。彼のその笑みにナマエの恐怖は溶けていく。目を閉じるナマエが最後に耳にしたのは「だから忠告したんだ」という男の声――。
静寂が辺りに満ちる。そこにはただ壊れた社と、新しく供えられたモノがあるだけだ。