今日はゲームもなくいい日だった。荘園で過ごしているとは思えないほど穏やかな日。
だからだろうか、夜になっても眠くはなくて……ぼんやりと窓の外を見つめていた。空に浮かぶ月があまりにも綺麗で誘われてしまったのかもしれない。
もう寝なければいけない、そのはずなのに私の脚は私を館の外へと連れ出した。館の周りは木々が生い茂り、ちょっとした森のようになっている。静まり返った夜の森は本来ならば恐怖を呼び起こすものだが、私の中には一欠片の恐怖もなかった。
満月の光が辺りを包み込み、仄かに白く輝いている。その幻想的な輝きの中を誘われるがまま進んでいく。そしてはたと気づく。人工的な、館の灯が遠い。これ以上進むと迷ってしまう。戻らないと、そう踵を返そうと振り向いた瞬間……近くから草木を揺らす音が聞こえる。
「な、に……?」
私の声が静寂に包まれる森に溶ける。先程より草木を掻き分けて近づく物音が随分と大きく聞こえる。得体の知れない音は、私の中から消えていた森への恐怖を思い出させるには十分だった。
野生動物かもしれない。でもどうか、言葉が通じる人であってほしい。動物であれば刺激しないように、しかし人であれば出てきてもらえるように。そんな思いを込めた私の小さな声は、予期せぬ来訪者を月光の元に誘い出した。
「怖がらないで、お嬢さん」
「写真家……!? どうして此処に?」
月光の元へと現れたのは人であったが、言葉が通じるとは到底思えない……私達を狩る存在、写真家だった。彼の姿を認識した瞬間、無意識のうちに身体に力が入り、辺りの静けさも相まって警告し出す己の鼓動の音がよく聞こえる。
ゲームでは綺麗な笑みを浮かべながら、私達を地に這い蹲らせる写真家。月下で煌く白銀の髪、引き込まれるように妖しく光る碧眼、身に纏うのは上品なコート。そして狼が如く耳と尻尾。ああ、彼は遂に人狼にでもなってしまったのだろうか。
恐れの対象のハンターが発する言葉を聞いて安心するなんて無理だ。どうにか無事に写真家から逃れるようにと距離を取りつつ、私は純粋な疑問を口にする。写真家は私の問い掛けにきょとんとした表情を浮かべた。彼の予想外の反応に毒気を抜かれる。一瞬のうちに私の緊張が解れた事に気づいたのか、写真家は目を細め柔らかに微笑んだ。
「どうして? 館から出てはいけないなんて決まりはないさ」
「でも此処は……サバイバーの館の近くよ」
「ふふ、それじゃあこう言おうか。君の姿が見えたからね。つい姿を見せてしまった」
確かに館を出てはいけない決まりはない。現に私も外に出ている。けれどハンターである写真家がわざわざサバイバーの館の近くにいる理由が分からないのだ。意を汲んで帰ってくれないかしら、その思いも虚しく彼からの言葉は私を混乱へと導いた。彼は……何を言っているの?
優しく笑う写真家の声色からは敵意といったものが全く感じられず、それが余計に私を当惑させる。狼らしく油断させておいてペロリと食べるつもりかもしれない。相手の意図が分からない行動ほど怖いものはない、今まさに実感している最中だ。写真家に気付かれないように、館への帰路を静かに確認する。そして彼を刺激しないようゆっくりと言葉を発する。どうか声が震えないように、彼に悟られないように。
「……攻撃、しないで」
「しないさ。女性を傷つけるような趣意は私にはないからね」
私の彼への”お願い”は、写真家の気に障ったようだった。心外だとでも言わんばかりに、彼は顔を歪める。彼の美しい顔を不快、そして少しばかりの悲しみの表情で彩ってしまった事が、何故だか私に罪悪感を覚えさせた。ただのサバイバーの私如きにそんな表情をしないで。
何も言えなくなり黙り込んだ私に、写真家は雰囲気を和らげた。先程からいつもと異なる写真家の様子に、私の感情は振り回されっぱなしだ。彼は一体私に何をしてほしいのだろうか。私を見かけたから姿を見せたと言っていたけれど……此処から去ってほしいのであれば直ぐにでも館へ戻るのに。考えれば考える程分からなくなる。これならまだゲームで私達を追っている彼等の思考を理解する方が容易いかもしれない。写真家は私が彼の事で悩んでいるのを、まるで微笑ましいものを見るかのような物柔らかな眼差しを向けていた。
「君はどうして此処に?」
「月が……綺麗だったから」
一呼吸の静寂の後、写真家は瞳に慈愛のような優しげな光を湛えながら、その瞳に相応しい声色で私に問い掛ける。どうして……どうして此処に、それはただ月に誘われたから。他に答えようがなくて素直に伝える。こんな場所を夜に一人で出歩くなんて、と呆れているだろうか。
その時、ふいに吹いた心地よい夜風に、思考を巡らせていた頭がスッと冴えていく。彼にどう思われていようと関係ないじゃない。ここにいるのは私の意思で、私の自由だ。そう思うと先程までの悩みが嘘のように頭が軽くなった。安心から溢れる笑みを隠す事なく、私はちらと彼の顔に視線をやる。と、目が合った。
「満月は人を狂わせる、知っているかい?」
「聞いたことはあるけれど……」
私からの視線を彼はそのままにそう呟く。彼が何を伝えたいのか、それを考える余地すら私にはなかった。写真家が私を見ているのではなく、私が彼の瞳から逸らせない。
何故……? 夜風によって穏やかになったはずの思考の海は、また深く逃れられないものになっていく。彼のまるでブルーアパタイトのような、月に照らされ仄かに煌きを持った瞳。綺麗……ずっと、見ていたい。
「深い意味はないんだ。ただ、一曲どうだろうかナマエ」
写真家は恭しく一礼すると、私に手を差し伸べる。まだ、今なら間に合うはずだ。彼の言葉なんて無視して館へ向かって走れば、きっと彼は追ってこないだろう。早く動かさなければ……頭でそう考えているのとは裏腹に、私の脚は少しも動く素振りを見せなかった。それに彼はどこで私の名を知ったのだろう、なんて小さな疑問が浮かんで消えた。ああ、どうして。
彼の瞳に囚われたまま、私は緩やかに手を伸ばす。私の手を取った彼は美しく笑った。
「すべては満月……そう、満月のせいさ……」
そうね、すべて月のせいにしてしまえばいい。この夢にも似た彼とのひと時は、きっと満月が見せた幻なのだから。