ふと気がつく。ジャックさんがいつもと違う香りを纏っていることを。彼が纏っているものは薔薇の香りに、時折薄っすらとした血の匂い…それくらいのはずだった。何故普段と異なる香りを纏うのか、気になった私はジャックさんに声を掛けた。
「ジャックさん、香水つけてますか?」
私の問い掛けに、彼はゆったりとした動きで振り向いた。
「ええ、付けていますよ。それで……どうでしょう?」
「どう、とは?」
ジャックさんは軽い口調でそう答えた。そして私に尋ねた彼は、一体どのような返答を望んでいるのだろうか。褒めてほしいのだろうかと思ったが、ジャックさんの意図がいまいち掴めない私は馬鹿正直に問い返した。
「おや、この流れなのですから…私が聞きたい事なんて分かるでしょう?」
「良い香りだと思います」
「本当に?」
「えっと、良い香りだけど…何処かで嗅いだ事のあるような」
「素直でよろしい」
ジャックさんは私の回答に満足したようで、鋭い爪がない方の手を口に当てクスクスと笑っている。てっきりどこにでもある、なんて言われたら気分を損ねるかと思ったのに。やはり彼の考えている事は理解出来ない。
しかしどうして急に香水なんて付けたのだろうか。それに、ジャックさんらしい薔薇の香りでもなく、この香りを選んだのには理由があるんだろうか。私が悩んでいるのを見て、ジャックさんはずいと顔を近づけた。
「どうして私がこの香りを選んだのか、そう疑問に思っているのでしょう?」
「え、ええ。ジャックさんには薔薇の香りが似合うと思っていたから」
「おやまあ、それは光栄ですね。ですが、まあ意味があるんですよ」
さあ当ててみろ、そう言わんばかりにジャックさんは私をじっと見る。気まぐれで、それでいて残虐な彼が考えている事なんて分からない。時折違う香りを纏うのが紳士の嗜みですよ、なんて言うのかもしれない。それか”普通”の香りを纏いたかった? ジャックさんが飽きてしまう前に、私は口を開いた。
「もしかして、普通の…どこにでもある香りを纏ってみたくなった?」
私の返答にジャックさんは大袈裟に手を広げ、驚くような仕草をした。まさか、本当にそれが理由?
「ええ、ええ! まさか分かってしまうとは、流石ナマエですね」
「本当にそれが理由なんですか?」
「そうですよ…だって、ほら」
その瞬間、ジャックさんが纏う雰囲気が変わった。それに気が付いた時には既に遅かった。私の喉元には、彼の鋭い爪が……。
「ねえ、良いでしょうこの香り。まさかこんな香りを纏う男が、急に襲ってくるとは思わない」
「ジャ、ジャック…さん…」
少しでも動くと切れてしまう。視線だけジャックさんに向け、何とか声を絞り出した。緊張で口が乾く。今の彼はジャックではなく、リッパーとしての彼かもしれない。ジャックさんは試合での、あの血に飢えたような鋭い雰囲気のまま、指を軽く動かした。ピリとした痛みが首に走り、生温い液体が首を伝う。
「ふ…ふふ、あなたの今の表情! 最高ですよ!」
ジャックさんは抑え切れないと言った様子で、それはそれは愉しそうに声を上げる。依然として首に彼の凶器が添えられたままで、私は動く事が出来ない。試合外で、怪我を負ったら…どうなるんだっけ? 急に死と言う恐怖を突きつけられ、血の気が引いていくのが分かる。
「おっと、すみません。ナマエの顔を見ていたら昂ってしまいまして」
私の喉元から凶器が離される。ジャックさんの雰囲気もフッと和らいだ…が、私の緊張も解け上手く立っていられなくなる。完全に腰が抜けてしまった私が地面に座り込む前に、ジャックさんに支えられた。
「大丈夫でしょうか? 少し揶揄い過ぎました」
「からかう…って度合い過ぎてる」
恐怖を悟られぬように、わざと語気を強めた私の心中はジャックさんにはお見通しなのだろう。傷を付けたのはジャックさんなのに、まるで慈しむように傷を撫でる彼にぞわぞわする。
「ジャックさん…もう大丈夫だから…」
「いえいえ! 私のせいで震えているんですから……慰めてあげますよ」
こうなってしまえば、もう彼に何を言っても無駄だ。きっと最初から、ジャックさんはこうなるようなに罠を張り巡らせていたのだから。好奇心は猫をも殺す、これからは容易に聞くものではない。相手が気紛れな紳士であれば尚更だ。