ああ、恐ろしい

勘違いだと思いたいのだけど、最近教授の態度が変わった気がする。何というか距離が近い。

「ナマエ、隣いいかね?」
「ええ…どうぞ教授」

今だって他に席が空いているにも関わらず、私の隣に座った。一つ空けて座るわけでもなく、本当にすぐ横なのだ。同性の友人であればまだしも、彼は異性の…言い方は悪いがただ同じ境遇のサバイバーである。
隣に座った教授は何をするわけでもなく、時折こちらに視線を向けてくる。その視線の意味を理解出来ない程子供ではなく、その事実がより一層心地の悪さを大きくしていた。ここは談話室で、私と教授の様子をチラチラと窺っている者が数名いるのに彼は気がついていないのだろうか。

「教授……あの、少し距離が近くないでしょうか」
「そうかね? 私はそうは思わないが…」

教授がそう思っていなくても私が思っている、その意味を読み取れるはずなのに一体どうしてしまったの? 暗に少し離れてくれと伝えたのに、教授は私の言葉に身を乗り出したため先程より距離が近くなっている。いよいよ遠くで様子を窺っていたエマ達がこちらへ来ようとしているのを見て、私は部屋へ戻ることに決める。私が口を開こうとしたその瞬間、先に教授が口を開いた。

「ところで…教授だなんて悲しいな、君と私の仲じゃないか」
「……えっ?」
「ああ、すまない。此処で言うべきではなかったね」

君と私の仲? 本当に彼は何を言っているのか。ここまで来ると私をからかって、その反応を何かの実験データとして集めているのではと疑ってしまう。黙り込んでしまった私を、教授は穏やかな表情で覗き込んでくる。急に視界に入ってきた彼に驚き、思わず立ち上がってしまった。

「急に覗き込まないで…!」
「ふふ、照れてしまったのか?」
「っ!」

確かに照れもあったけれど、教授の言葉には甘い意味が乗っているようで、そうではないと否定したかった。それなのに上手に言葉が出ない。そんな私を教授は熱の篭った目で見つめる。彼の視線から逃げるように目を逸らし、戻りますと小さな声で呟いた。返事を聞かないうちに離れようとしたが、それは彼女によって叶うことがなかった。

「あの! 二人はいつの間にそんなに仲良くなったの?」

その声はついに我慢が出来なくなったエマだった。彼女の他にもこちらに注目している人たちの視線が痛い。いつの間に…なんて私が聞きたい。なんて返せばいいのかと考えていると、教授が立ち上がった。

「私とナマエは君から見ても仲良く見えるのかね?」
「……! うん、見えるの。二人は…どんな仲なの?」

教授の言葉を聞いた彼女は、自身の考えが当たっていたと言わんばかりに顔を輝かせた。仲も何も、エマと教授との関係と変わらないのに! 私がそう告げようと、慌てて口を開く前にまたもや教授が答える。

「いや、私からは言えない。また君達に告げる時が来たら伝えよう」

その答えに談話室の中で騒めきが起こる。エマは顔を赤らめながら、こちらを見て頷くと騒めきの中へ走っていってしまった。私といえば自分自身のことのはずなのに、現状を理解出来ず固まることしか出来ない。

「ナマエ、外へ出ようか」
「……はい」

一刻も早く談話室から立ち去りたかった私は、教授と共に出ることでどんな噂が流れるなんて考える余地もなかった。彼に導かれるがまま、私は談話室の外へと足を向けた。
しばらく互いに廊下を歩く。私は自室へ向かっているが、教授の部屋もこちら側だっただろうか。ついに私の部屋の前まで来てしまった。この状況で立ち止まるのは気まずいと思っていた矢先、教授が立ち止まりこちらを振り向いた。

「困らせてしまい申し訳ない」
「本当に一体どうしたんですか? 教授らしくもない」

また驚くような言葉が飛び出してくるかと身構えたが、想像とは真逆の謝罪で拍子抜けしてしまう。先程までの言動が嘘だったかのようで、私は胸を撫で下ろした。ここのところ彼は試合続きだったから、きっと疲れていていたのだろう。彼の下がった眉を見ていても、本当に申し訳ないという感情が伝わってくる。

「すまない、どうかしていたみたいだ」
「疲れが出てるのかもしれないですね、よく休んで…」

ください、と続くはずだった。しかしその言葉が続く前に、教授が言葉を紡ぐ。

「しかし君に名前呼んでもらいたいのは本当さ」
「!」
「二人きりの時だけでいい。私の事をルキノと呼んでくれ」

どうしてと聞こうとした私はその言葉を口にすることが出来なかった。それは彼があまりにも切なげな顔をしていたから。強く、それでいてどこか祈りも含まれたお願いに、私はただ彼を見つめ返すことしか出来ず黙り込んでしまう。

「ナマエ…お願いだ」

何も言わない私に彼は焦燥を感じさせられるような様子で、そう呟きながら私の肩を掴んだ。力加減が出来ていないのか、していないのか分からないが、彼の爪が僅かに肩に食い込み痛い。肩の痛み、それに彼の異様な雰囲気に気圧され、私の心臓は嫌に早鐘を打っていた。

「え、ええ……ルキノさん」
「ありがとう。ずっと考えていたんだ…ただの名前が、君が呼ぶだけでこれ程まで甘美な物になるとは」

私は懇願するような彼……ルキノさんの様子に根負けと言うより彼の願いを叶えないとどうなるか分からない、そんな嫌な予感がしたのだ。私がルキノさんと呼んだ瞬間、彼が恍惚の表情を浮かれたのを見た。きっと私の予感は当たっていたのだろう。

「ルキノさん、私はこれで」
「ああ、気をつけて」
「ゆっくり休んでください」

彼に部屋の場所が知られるなんてどうでもよかった。どうせ隠しているものでもないし、それより早く部屋で休みたい。彼に別れを告げ、閉まるドアから彼が見えなくなるまで見ていた。
あと少しで完全に閉じると思った刹那、僅かな隙間に手が差し込まれた。ギ、ギギと音を立て再びドアが開かれる。

「そうだ、明日は私が迎えに行こう。……おやすみ、ナマエ」

本来なら安心するはずの笑顔が、どうにも恐ろしく思えた。私は選択肢を間違えてしまったのかもしれない。ゆっくりと閉じられるドアを呆然と見つめながら、彼の言葉…そして眼差しを思い出した。明日が来るのが、怖い。