「小説家先生! 風邪引いちゃうよ」
少し高いが耳障りの悪くない声が、近くから聴こえてくる。私は一体何をしていたのか…ぼんやりとした思考のまま、ゆっくりと目を開ける。
「ん……、誰だ?」
「私」
「ナマエ君か。……何故?」
私を呼んだのはナマエ君だった。小説家先生という大それた名でわざわざ呼ばなくてもいいのにと、心の中で独りごちた。しかし、どうして彼女が私の執筆スペースにいるのか。その疑問がそのまま口から溢れた。
「何故って、ここ共有スペースなんだけど」
「……」
彼女の言葉を受けて、私は周囲を確認する。壁には頑丈そうな棚が並び、所狭しと本が収められている。ああ、そういえばいつもとは異なる環境で執筆したら新たなアイデアが浮かぶかもしれないと図書室に来たのだったな。
しかし結局煮詰まってしまい、考えをまとめるために目を閉じた…ところまでは覚えている。そのまま寝落ちてしまったのか。私が今までの行動を頭の中で整理していると、ナマエ君は不思議そうな表情を貼り付けて首を傾げた。
「寝惚けてるの? 早く部屋に戻りなよ」
「ああ…」
寝惚けているのかもしれない。いや、寝惚けているだけならいいのだが、折角のアイデアを忘れてしまうとは何という体たらく。一度まとめてから書こうと思っていたため、メモすら残っていない。
「オルフェウス何か悩んでる?」
「何かを書こうとしていたが…それが」
「思い出せない」
「そうだ。はあ…」
どうすべきかと頭を抱えていると、隣の椅子を引き彼女が腰掛けた。ナマエ君と話していると時折インスピレーションが湧いてくるが、今回も手伝ってくれるという事か? ナマエ君にその事を伝えた事はなかったはずだが。溜息を吐きつつ、私はこめかみを軽く叩く。
「何か他のものを書いていたら思い出すかも!」
「他の…例えば?」
「例えば!? そうだなあ…恋愛、小説とか」
私の溜息を聞いたナマエ君は、他のものを執筆しろと提案をする。ナマエ君の提案に、一理あると考えた私はどのようなものかと問い掛けた。彼女からしたら私の問いに時間を割き考える必要もないが、無茶振りにも構わず律儀に答えてくれる。
「恋愛……私が恋愛小説を?」
「そう。人物の心情とか…書けば…」
「すぐに書けるほど、私は恋愛に通じていない。……そうだな、君のを聴かせてくれないか?」
「は、私の……?」
「ああ、私に教えてほしい」
流石の私でもそのようなジャンルは執筆した事がない。それに私の色恋沙汰等を書いたところで、碌でもないものが出来上がるだろう。だからこそ、ナマエ君に再度助けてもらおうと口を開いたのだが……私の言葉に彼女は固まった。何度も瞬きを行い、言われた言葉を咀嚼している様子であった。今まで見た事のないナマエ君の様子に微かに違和を覚え、そっと彼女の顔を覗き込む。
「ナマエ君? 一体どうしたんだ?」
「ほ、他の人に…聞いて!」
そう言うと私から距離を取り、立ち上がった彼女。私はその時の彼女の表情を見た瞬間、胸の高鳴りを覚えて…そして気付く。きっとこれこそが……。
「待ってくれ! 今なら、今なら書けそうな気がする」
「そう…それじゃあ私はもうかえ…」
「だが、書き上げるには君が必要なんだ! ようやく繋がった…私が君に抱いていた感情の正体が分かった」
「オルフェウス…」
声を張り上げ訴えるように告げた私の言葉に、彼女は足を止めた。私のお願い等無視をすればよいのに、やはりナマエ君は優しい。一瞬他の者にもそのような態度なのかと理不尽な怒りが湧きかける。だが今はそんな事を考えるタイミングではない。大切なのはナマエ君の想いだ。
「私に君の想いを教えてくれ」
「私のって言われても……!」
彼女は随分と狼狽えた様子であった。いつも揚々と自信に満ちたナマエ君はすっかりと鳴りを潜めていたが、今の彼女も好ましかった。きっと私の言葉一つに翻弄されているというのが、どうにも嬉しかったのだと思う。眉間に僅かに皺を寄せて考えるナマエ君は、私が心の中でそんな事を考えているなど夢にも思わないだろう。今の私の考えを書くだけで、超大作になりそうな気がする。
「オルフェウスのも教えてよ。教えてくれるのなら……私の気持ちを教えてもいいよ」
「私の……? ナマエ君は本当に聞きたいのか?」
「もしかして聞かない方がいい?」
私の試すような物言いに彼女の表情が陰る。そのナマエ君の表情も全てメモをしたい衝動に駆られたが、グッと堪えて私は彼女にこう言った。
「私は小説家だ。言葉にする代わりに…私の気持ちを綴った物語を、君のためだけに捧げよう」
私の想いすべてを綴ろうじゃないか。だから、君も私に教えてほしい。
ナマエ君は一度逸らした視線を私に向け、遠慮がちに頷いた。どれだけ時間が掛かっても、必ず書き上げて君に送ろう。軽い笑い声が思わず漏れ、それを拾った彼女も穏やかな笑みを溢した。
「私への取材ちゃんと活かしてね、小説家先生!」