時には溺れよう

「ナマエ様、少し宜しいでしょうか」

自室で寛いでいると、ノックの音が三回聞こえ控えめな声が掛けられた。ドアを開けて確認すると、そこにはナイチンゲールが視線を伏せ立っていた。珍しい来訪者に驚きつつ、私は彼女に要件を尋ねる。

「こんな時間にどうしたんですか? 今日の試合で何か問題でもありました?」
「いえ、問題はありません。お疲れのところ申し訳ないのですが、ナマエ様に助けていただきたい事がございまして……」
「助け…ですか」

少しだけ面倒になりそうな予感がし、煮え切らない返事になってしまう。このまま断っても良かったが、ナイチンゲールの声色が疲弊していた事、そして彼女が申し訳ないという雰囲気を纏っていた事から私は断る事が出来なかった。

「私はどうすればいいですか?」
「ありがとうございます、ナマエ様。ハンターの館に来ていただきたいのです」

ナイチンゲールに連れられ、私はハンターの館のとある扉の前で立っていた。彼女のお願いを聞いた瞬間、すぐに断ればよかったと後悔が押し寄せてきた。しかし、彼女は有無を言わさず私を連れてこの部屋の前に置いて行ったのだ。あなた様しか解決出来ないのですと深々と頭を下げお願いするナイチンゲールに、やはり私は彼女を無下に出来なかった。
私は試合の時のように高鳴る鼓動を抑えながら、目の前の重厚な扉を見上げる。サバイバーの館のものと比べて、ハンター達の体躯に合わせたのか扉さえも大きく感じる。しばらく扉を見つめていると、何やらざわめきが聞こえてきた。その音はこの部屋の中からで、きっとナイチンゲールが私に頼んだ原因がそこにあるのだろう。意を決した私は、扉に手を掛けゆっくりとそれを開く。
小さく失礼しますと声を掛けたが返事はなく、入っても大丈夫なのかと部屋の入口で私は立ち止まっていた。扉の音にも誰も反応する事はなかった。それもそのはず、部屋の中は私の想像を絶するような光景が広がっていたのだ。

「まったくいい加減にしてくれません!?」
「何がだ? 少しくらいいいじゃないか」

部屋の至る所に酒瓶が転がっていて、匂いだけで酔ってしまいそうな程の酒の香りで部屋の中は満ちている。それだけであればハンター達の体格にあった量を消費した結果だと、無理矢理納得する事が出来た。しかし、一人床に倒れているし(あれはアントニオさんだろうか?)、何よりあのいつも冷静なルキノさんがジャックさんの仮面にぐいぐいとグラスを押し付けているのを見てしまったら、この酒宴は彼らにとっても行き過ぎたものであると容易に理解出来た。

「る、ルキノさん…?」
「愛しの君が迎えに来てくれましたよ……私から離れろ!」

その凄惨たる光景に思わず声が出てしまった。その声を拾ったジャックさんはこちらに振り向き、自身に纏わりつくルキノさんを振り払った。

「うん? ……ああ! なんて可愛らしいんだ!」
「えっ!?」

振り払われたルキノさんは一瞬不服そうな表情を浮かべたが、私を視界に入れた途端大股で私に詰め寄り人目を憚らず抱き締めた。抱き締められた瞬間に、いつものルキノさんの香りとむせ返るようなアルコールの香りが鼻につく。彼は相当飲んでいるようだ。

「ちょ、ルキノさん!!」

普段であれば抱き締められる事は嬉しいが、今は他の…それもハンター達がいるのだ。私は身を捩りつつ、ルキノさんの腕を数回叩いた。

「残念だ」

その抗議が効いたのか、ルキノさんはゆっくりと私を腕から解放する。その背後でジャックさんが苛立ったように、床を靴先でコツコツと叩いているのが見えた。何があったらこんな状況になるのか……それを尋ねようとした時だった。

「どうしてここに天使がいるんだ? 天界から迷い込んでしまったのかね?」
「天使……?」
「ふふ、天使じゃない…分かっているとも私の女神。だが何故ハンターの館に?」

いつものルキノさんからは考えられない程、キザで甘ったるい言葉。彼の口から発せられた台詞だと思えずに、私は固まってしまった。混乱の渦に飲み込まれてしまった私にルキノさんは笑いかけ、饒舌なまま私に問い掛ける。視線だけジャックさんに移して助けを求めてみたものの、彼は両手を広げてやれやれといった様子で頭を振るだけだった。どうやら私一人でルキノさんに応じなければいけないらしい。

「ナイチンゲールに呼ばれて…」
「彼女が私の女神を此処へ呼び込んでくれたのか!」
「本当に落ち着いてください! というかどういう状況ですか!?」
「はははは、実に愉快よな」

ルキノさんに叫びながら返した瞬間だった……背筋にゾワゾワとした悪寒が駆け上がった。喉元まで上がってきた引き攣った声を何とか飲み込み、後ろを向くとハスターさんがそこにはいた。耳に絡むような、脳が痺れるような声に抗うように僅かに頭を振って彼を見た。私の緊張を知ってか知らずか、ルキノさんはいまだに私の隣を陣取ったままだ。

「あ、ハスター…さん」
「畏まらずとも良い。なに、我の酒を少しばかりプレゼントしてやってな」
「酒?」

愉しげに話すハスターさんとは反対に、ルキノさんはあまり機嫌が良くなさそうだ。先程まであれほど嬉しそうにしていたのに、尻尾が何度も床に打ち付けられている。その気分の変わりようからも、やはりルキノさんが相当酔っている事が分かる。ちらりと彼の方へ視線を遣ると、すぐに視線に気が付いたようで少し顔を近づけた。

「酒の話なんてどうでもよくないか? それより、何故君はハスターとずっと話して…」
「ええ、ええ。教授ったら全部一人で飲み干すんですから!」

私がハスターさんと話している事を(ルキノさんの事だけど)気に食わないのか、ルキノさんが抗議の言葉を口にし始めると、先程まで静観していたジャックさんがルキノさんをグイッと押しのけ話し出した。どうやらルキノさんは勧められた酒を一人で飲んで酔ってしまったというわけだ。

「何か問題でも? その酒は私が彼に貰ったものだ」
「そうですけどね〜? 酔っぱらうまで飲みますか普通?」
「ハア? 私のどこが酔っているんだ!」
「酔ってるでしょうが! ハスターさん、貴方にも原因はあるんですからね!」

ジャックさんは何故話に入ってきたのだろうか。先程よりも収拾がつかなくなった様子に頭が痛くなってきた。本当に誰か助けてほしいと視線を左右に動かした時、ハスターさんと目が合った気がした。

「はは、戯れるのも良いが…待ち人を置いたままだぞ」

ハスターさんのその言葉にルキノさんの動きがピタッと止まる。そして目の前のジャックさんの肩に一度手を置き、こちらへと歩いてきた。急に態度を変えた事にジャックさんも一瞬固まり、そして呆れたといった雰囲気を纏い追い払うように手を振った。私は彼らに頭を下げ、ルキノさんの手を取り退室した。何か意味ありげに笑ってきたのは気のせいだろう。
ルキノさんの自室へと歩く道すがら、酔っていても流石紳士的。彼は先に行く事もなく、私の歩幅に合わせて歩いてくれていた。それだけ見るとルキノさんの理性が酒で溶かされているなんて思えない。そんな事を考えながらルキノさんの部屋の前へと辿り着いた。

部屋に入るとルキノさんは少々覚束ない足取りでベッドへと向かう。そのまま横になるのかと思ったが、ルキノさんはただ腰を下ろしただけだった。どうしようかと思案していると彼はゆっくりと手招きをする。

「大丈夫ですか、ルキノさん」
「大丈夫だ、気にせず寛いでくれ」

私が側に来たのを見て、ルキノさんは緩く微笑んだ。とりあえず隣に座ろうと、腰を下ろした時だった。何の前触れもなくルキノさんは徐に自身の服に手を掛けた。

「どうして脱ごうとして……!」
「いや…この部屋暑くないかね?」
「暑くないです!」

慌てて服に掛けているルキノさんの手を止める。ジャケットならまだしも、彼が手を掛けたのはその中のシャツだ。狼狽える私にルキノさんは首を軽く捻る。本当にらしくない! 脱がないように念を押してから、私は彼から手を離した。

「少し待っていてください」
「少し?」

そう言って立ち上がると、ルキノさんの尻尾が腕に絡みついた。ルキノさんに視線を向けると、どこにも行かないでくれと口にする。随分と可愛いお願いにそのまま腰を下ろしそうになったが、彼に水を取りに行ってあげないといけない。心を鬼にしてそれを解き、水を取りに行くと告げて部屋を出たのだった。

「一体どこに行っていたんだ!」
「言った通り水を取りに行っただけですよ。ほら、ルキノさん飲んでください」

告げた通り水を手にして部屋に戻ってくると、私が帰ってきたことに気が付いた勢いよく立ち上がり、そしてよろけた。まだ酒が抜けきっていないのに急に動いたらそうなるに決まっているのに。結局ベッドに座り込んでしまったルキノさんに、水の入ったグラスを差し出した。しかし、ルキノさんはなかなか受け取ってくれない。思わず首を傾げると、彼はゆっくりと口を開いた。

「……ナマエが飲ませてくれ」
「えっ? はあ、仕方ないですね」

僅かに視線を逸らしつつルキノさんはそう言った。それに対して安請け合いしてしまったが、飲ませるなんて一体どうしたらいいのだろうか。少し考え意を決した私は彼の口元へとグラスを近づける。そっと傾けるとルキノさんは一口ずつゆっくりと飲み始めた。彼の喉が上下するのが見えて、何故か見てはいけないものを見ているような気分になる。

「溢れてしまったな」

ルキノさんのその声にハッとした。口の端から伝う水を舐めながらそう笑うルキノさんはとても色っぽくて、思わず目を逸らしてしまう。まだ少し水は残っているけれど、もういいだろう。自室に帰らせてもらおうと声を出そうとしたその時だった。

「ナマエ……その愛らしい顔を逸らさないで」

ルキノさんに引き寄せられ、私の手からグラスが滑り落ちた。足に水飛沫が掛かる感触があったが、その水の行方を考えていられる状況ではなかった。まるでルキノさんに抱き着くような格好で、彼の膝に乗ってしまっている。

「あ、その!」
「君も酔ってしまったのかね? 顔が真っ赤だ…」

からかうように告げるルキノさんは、私の頬に口付けを落とした。何か言って彼の気を逸らそうにも、私の口からは言葉にならない音が漏れるだけだ。慌てふためく私をルキノさんは上機嫌に見ていた。

「さあ、その格好だと落ちてしまうかもしれない」
「え?」

ルキノさんのその言葉が耳に入ってきた時には遅かった。ルキノさんは私を膝に上から抱き上げ、そのまま横…ベッドの上へと降ろす。何が起きているのか状況を把握出来ないまま、気が付くと私の視界はルキノさんと天井になっていた。
そしてゆっくりとルキノさんの顔がゆっくりと近付くのが見え、私は覚悟を決めギュッと目を閉じた。しかし、想像していた感触ではなく、私に降りかかってきたのはそこそこの重みであった。

「ね、寝てる…」

まさかこのタイミングで寝てしまうとは。私にのしかかるようなルキノさんから何とか抜け出し、ベッドに突っ伏すように寝ている彼を私は見下ろした。起こさないようにシーツを引っ張り、ルキノさんにそっと掛ける。そして空いているルキノさんの横へと私は身体を滑り込ませた。少しだけ残念だなという思いが出てきたが、頭から追い出して身体をベッドに預けた。

* * *
布擦れ音と、そしてドンという大きな音に目が覚めた。まだ眠っていたいと閉じそうになる瞼を開けると、ベッドから少し離れた位置で立っているルキノさんが見えた。先程の大きな音は彼がベッドから落ちた音だろうか。

「ん…おはよう、ございます」
「すまなかった! 酔っていたとはいえ、あのような行動を。というか酔ってしまった事自体恥じるべき事だ」

私の挨拶に答える事なく、ルキノさんは勢いよく頭を下げた。そしてそのままツラツラと昨日の行動への謝罪を口にする。私はゆっくりと上体を起こして、ルキノさんを手招きした。今のルキノさんは警戒して様子見をしている猫のようで面白いけれど、少し可哀想だ。

「ルキノさん大丈夫ですよ。誰にでも失敗はありますから。もう顔を上げてください」
「すまない…」
「反省したからもう終わり! おはよう、ルキノさん」
「ああ、ありがとう。そしておはよう、ナマエ」

飲み過ぎて少しばかり羽目を外してしまった事に反省しているルキノさんに、隣に座るように促した。昨日とは反対で何だか面白くなってしまう。隣に座ったルキノさんは私の機嫌を窺うように、伏せ見がちにこちらを見た。そんな彼の様子を見て、昨日の仕返しに私も少しだけ言わせてもらおうと決めた。

「実は少しだけ怒ってるんです」

私がそういった瞬間、ルキノさんの身体が僅かに跳ねる。ルキノさんが口を開こうとしているのを見て、それより先に続きを口にした。

「その気にさせておいて、先に寝ちゃったでしょう?」
「それは」
「その責任、取ってね」

私とルキノさんは再びシーツの海に身を投げ込んだ。こんな朝もたまにはいいだろう。