逃げたい 逃げられない(前)

※現代怪異パロ

日常と非日常の境はどこにあるのか、此方と彼方の境は案外身近にあるのかもしれない。

幼い頃、両親より一人で神社の奥へ行ってはいけない、あそこには怖いお化けがいるからねと繰り返し言われていた。神社の奥には池があり、事故を防ぐためだと今のナマエには理解出来るが、幼い頃には恐ろしいモンスターを想像しては怯えていたものだ。
ナマエがこの話を思い出したのは、神社であった豊作を願う祭りの帰りだった。いつもは静かな神社が祭りの時だけ別の場所のような姿を見せる。屋台や提灯の光、人々の騒めく声に満ちた空間に浮足立っていたが、ふと御社殿の方に視線を遣るとそこ……正確にはそれより奥が祭りから隔離されたように真っ暗な事に気が付く。
ぼんやりとそちらを見つめながら、ナマエは一緒に来ていた友人に声を掛けた。

「あの奥って今日の祭りでも暗いままなんだね」
「奥? ああ、あの池があるとこね」
「まあ暗いから普通に事故とかあったら危ないし」

そう話を振ったナマエは話しつつ幼い頃の忠告を思い出していた。暗くて危ないという至極当然の話に皆が納得しかけた時、一人がゆっくりと口を開く。

「でも、昔…池にお供物をしてたって聞いたよ」

その言葉に一瞬皆の動きが止まる。お供えっていわくつきって事? 生贄とか? 皆口々に騒ぎ出す。彼女達にとってそういったオカルトチックな事は盛り上がるには持ってこいの話題だったのだ。ナマエも他にもれず、そうであったら面白いのにという言葉で乗る。
その流れを止めたのは、彼女達が騒いでいる屋台で店番をしている友人の母親だった。

「池へのお供えは豊作祈願のためよ。もう遅いからあなた達は帰りなさいよ」

そう言われてしまったら帰るしかない。十分祭りも楽しんだ事だと、皆で帰路に着いた。その時にはもう池の話なんて誰も興味を持っていなかった。


その祭りからしばらくの日数が経過した。今日は友人に振られてしまったため、特に予定もなく暇を持て余している。ベッドに横になり窓から空を眺めていたナマエは、ふと外に行こうと思い立つ。こんなに天気が良いのだから家で過ごすのは勿体ない。そう考えたナマエは準備に外に出て目的地へと足を進めた。
暫く歩いたナマエが訪れたのは御社殿の奥だ。鬱蒼と茂る木々の間の消えかけた道を歩いていくと急に視界が開ける。そこには葉の間から零れた柔らかな光を受ける水面が見えた。光を蓄えた池は澄んでおり、ナマエが今まで見たことのないような輝きを見せる。

「すごい……綺麗…」

誘われるように池に近付いて行くナマエの耳に、ガサッという何かが動く音が入ってくる。音が聞こえた方へ振り向くと、木の幹にトカゲが張り付いていた。普段なら驚いてしまうそれが、何故か綺麗で見惚れてしまう。ナマエは足元を確認しつつ、ゆっくりとその木の方へと歩いて行く。慣れていないはずなのに触れたくて仕方がない。
そおっと手を伸ばして、もう少しでトカゲに触れるという時だった。今まで静止していたトカゲが急に動き出した。ナマエの手は触れる事なく、トカゲはするりと木を降り池へと落ちていった。しばらく呆けた様子で池を見つめていたナマエの頬に風が当たり、意識が浮上する。先程までのトカゲの様子がまるで物語の一幕のようで、それに意識が奪われていたようだ。
ナマエは後ろ髪を引かれる思いで家に帰った。

随分とおかしな事だがあのトカゲの様子が頭から離れない。まるで恋をしている時のよう忘れる事が出来ないナマエは余計にあの場所へ行かなくてはならないという執着心とも似た感情を抱く事となった。悩み続けているより、一度あの場所に行ってしまえば思いも消えるかもしれない。
ナマエが再び足を踏み入れたそこは、以前と変わらぬ景色であった。しかし異物が一つ。自然だけが存在を許されるようなその場には、ナマエの他にもう一つ影が立っていた。池を観察するかのように立っているのは、栗色の髪の背の高い人物だった。白いシャツを纏い、スラックスを履いたその人は随分と様になっている。しかし容姿より、自分の他にも人が居た事、池に興味を持っているらしい事がナマエは気になってしまう。無意識のうちに歩を進めた事で、葉が擦れる音、枝を踏み抜く音が静かなその場に木霊する。アッと思ったその瞬間、その影が音に導かれるように振り向いた。

「誰だ?」
「えっ、あ……怪しい者では…」

突然声を掛けられた事で狼狽えたナマエの口からは間抜けな言葉が零れる。暫し無言でナマエを見ていた男性であったが、耐えられないといった様子で声を漏らした。

「く、はは……確かに不審者ではなさそうだ」
「すみません、邪魔しちゃったみたいで…」
「構わないさ、少し池を眺めていただけだから。それより君は?」

見知らぬ人に笑われてしまった事に羞恥心を感じたが、彼からは悪意や敵意といった害意は感じられない。それに池を見ていた彼に少しの親近感を抱いていたナマエは、此処に来た理由を話してもいいのではないかと口を開いた。

「以前に此処に来た時にトカゲを見かけて……」
「蜥蜴を?」
「はい。そのトカゲが綺麗で、もう一度見たいなと思って来たんです」

ナマエの言葉に男は穏やかな表情で頷いた。やはり思った通り彼はおかしな奴だと馬鹿にした様子もなかった。ナマエは自身の予想が当たっていた事にそっと胸を撫で下ろす。

「ええと、貴方はどうして此処に?」
「少し気になる事があってね。……いや本当に、良かったよ」

ナマエから視線を外し、池の方を見ながら男は呟いた。物言いに僅かに違和感を覚えたものの、この場所を共有出来る人物に出会えた喜びの方が勝った。私も良かったですとはにかみながら答えるナマエに、男はすうっと目を細めた。

「私の名前はルキノと言う。君の名前も教えてはくれないだろうか」

柔らかな物腰で名乗るルキノに自身の名を告げる前に、ナマエは気付くべきだったのだ。初対面であるはずの男にこれ程までの親しみ、そして好意を抱いている理由を。

「また、会えますかね?」
「きっと会えるさ。私は此処に居るから、ナマエ……待っているよ」


その言葉の通りルキノとはすぐに再会した。再会というには大袈裟かもしれない。ただ再び池へと足を運んだだけなのだから。まさか一度目で会えるとは思っていなかったナマエは、ルキノの姿を見た瞬間ぴしりと固まる。そんな様子を見てルキノはくつくつと忍び笑いを漏らす。

「そんなに驚かなくてもいいじゃないか」
「だって…本当に会えるとは思ってなかったから」
「私は、嘘は言わないさ」

ルキノは緩やかに微笑んだ。


さて、しばらくルキノとの交流を続けていたナマエだったが、ある疑問が胸の内で僅かに芽を出していた。彼は一体何者なのだろう。訪れる度にそこにいる彼は、物腰柔らかで話していて気持ちが落ち着く。博識だがそれを鼻にかけて人を馬鹿にしたような態度は決して取らない。とても出来た人だと思う。しかしそれだけだ。何処に住んでいるのか、何の仕事をしているのか……ルキノは自分自身の事を語らない。
実は一度、ナマエは連絡先の交換を申し出ていた。しかし連絡を取れる手段を持っていないと断られてしまったのだ。交換したくないが故の言葉かと思い、自身があまりにがっついているようで恥ずかしくなったが、ルキノの表情を見ると分かった。ああ、この人は本当に持っていないのだな。どうして持っていないのか気になったが、きっと聞いても答えてはくれないだろう。彼は嘘は吐かないが、本当の事も話さない事が短い交流の中でもなんとなく理解出来た。
しかし、気になる事は気になる。水面を見つめるルキノの横顔をチラと盗み見る。透明度が高い水面に反射した光によって、仄かに照らされて彼の存在が儚げに思えた。まるでこのまま消えていきそうな……。

「ルキノさんは、どうして此処に来ているんですか」
「……」

ルキノは答えない。ただ彼の眉が僅かに上がった。暫し二人に言葉はなく、木々が揺らぎ擦れる音だけが響いている。

「私は探しているのだよ」

不意にルキノが口を開いた。まさか答えが返ってくるとは思っていなかったナマエは小さく息を漏らす。水面を眺めていたはずのルキノの視線は、いつの間にかナマエを捕らえている。

「私と一緒に来てくれる人を」

周囲のざわめきが途切れた。それはナマエにとって重要な事柄だったためか、それとも本当に周囲の音が消えたのかは定かではなかった。ナマエはその言葉を頭の中で反芻する。一緒に、来てくれる……人。

「それって私じゃ駄目?」

何処に行くのかも目的も分からないそれに、ナマエの口から連れていってと心の声が零れた。ルキノの目が心なしか丸くなった事に気が付き、ナマエは慌てて手で口を覆う。無意識の言葉を隠すような行動だった。どうしてそんな言葉を吐いてしまったのか、後悔の波が押し寄せてくる。思わず逸らしてしまった視線を再び戻すと目が合った。

「君は私のものじゃないだろう?」

そおっと伸ばされた手がナマエの頬を滑る。まるで慈しむような優しげな手の動きに、貴方のものです――と喉元まで言葉が出かけて、止まった。こちらを見つめるルキノの目がどこか妖しげに光った気がした。可笑しな事だが彼の瞳を見つめていると、何故かえも言われぬ恐ろしさを覚えてしまったのだ。

「そう、ですね。……ごめんなさい、今日は帰ります」
「そうだね。もう遅いから……待っているからね」

明らかに逃げる為の言葉であったが、ルキノは引き留める事もなくナマエを見送った。足早に帰路に着くナマエの鼓動は、いつもとは異なる様相で鳴り響いていた。もし、彼の言葉に頷いていたらどうなっていたのだろうか。


あの日からナマエは神社へ行っていなかった。というより大雨のせいで行けなかったのだ。最初は気まずい思いをしなくていいと喜んだが、行ける日に限って毎度大雨が降る。あまりに行けない日が続き、もしかするとこのままルキノに会えなくなるのではないかという不安がナマエの心に過り始めた。あのように帰ってきてしまったとはいえ、ナマエにとって彼は恋心を抱いている相手だ。

「会いたい、なあ」

ベッドに横になりながらポツリと呟く。以前のナマエならその言葉を否定していただろうが、もう嘘は吐けなかった。晴れますようにと、誰に言うのでもなく祈りながら目を閉じた。