鳥の鳴き声が聞こえる。眠りより覚醒したナマエはゆっくりと上体を起こし、カーテンを開いた。そこには昨日までの暗い空はなく、晴れ渡る青空が広がっていた。願いが通じた、もしかしたら神様がいるのかもしれない。そんな空想を頭から追いやり神社の奥へと向かう。
参道は水溜りが残っていたが、池周辺には雨が降っていた痕跡すら残っていない。此処は他と違って陽が照っているからだろうかと、あまり深く考えずに歩を進めた。
「ルキノさんいないな…」
やはりというべきかそこにルキノの姿はなかった。今までは此処に来たら会えていたので、今回もいると思っていたがその考えは甘かったようだ。本当に会えなくなってしまったらどうしよう。彼の痕跡を探すかのように池へと近付いて行く。
池を覗き込むと昨日まで雨が降っていた事が嘘かのように澄み渡っている。本当に綺麗、気が付くとナマエは腕を水面へと伸ばしていた。身体も僅かに乗り出しており、あわや落ちる寸前というところ。慌てて立ち上がり帰ろうと踵を返した瞬間だった。土が緩くなっていたのか片足が取られバランスを崩す。あっという間に傾いた身体は池へと投げ出されてしまう。
落ちる! そう思った時には既に遅かった。冷たい感触が肌を刺す。視界が揺らぎ、藻掻く手は何も掴めずに空回りする。足掻けば足掻く程、口からごぽりと空気の泡が零れていく。怖い、嫌だ、死にたくない! 光に向かって伸ばした腕が強い力で引かれた。
岸に上がったナマエは咳き込みながら必死に空気を取り込んだ。喉も鼻も、身体も痛い。でも生きている。背を擦る感覚に合わせて息を吸うナマエは、荒い息を整えながら後方に視線を遣った。
「るき、のさん……ありがと、ございます」
引き上げたのはルキノだった。彼はナマエの声に頷き、背を擦っていた手を止めた。ルキノに助けられた事に感謝しつつ、自分自身がまだ池の近くにいる事に気が付いたナマエは、震える脚に力を込めてよろよろと立ち上がった。次は転ばないように慎重に足を動かす。もう大丈夫だという位置まで歩いてから、違和感に気付いた。普段の様子から考えればルキノなら手を貸してくれるのではないのか。彼は今何をして……?
「やっと私の元へ来る決心がついたのか」
「?」
ナマエが見たのは、助けた場所……池の岸辺から動かずに此方を見据えるルキノだった。そんな彼から発せられた言葉も溺れていたナマエを気遣うものではなく、それがより一層ナマエの中の違和感を大きくするものであったのだ。
「君は聞いた事があるかね? 神への供物を、池へ捧げていたと」
ナマエの困惑もお構いなしに語り出したルキノに嫌な汗が伝う。先程まで池に落ちていた人間に向かって投げられる言葉とは到底思えず、寒さではない震えがナマエを襲った。
「さあ此方へ来たまえ」
手招きするルキノはどう考えてもおかしい。しかし、怖いはずなのに心地良く聞こえるルキノの声に、ナマエは操られたようにゆっくりと手を伸ばす。しかしルキノの手に触れた瞬間、ナマエは勢いよく手を振り払った。彼の手が水に落ちた自身の手より冷たかったのだ。そして見てしまう。水面に映ったルキノの姿がまるでトカゲのような姿をしているのを。
「貴方は、何?」
「君も知っている筈だ。私はルキノ。ずっと此処で待ち続けていた」
心臓が激しく鼓動している。それにも関わらず体温が急激に下がっていくような感覚をナマエは覚えた。一歩二歩と後退ったナマエを、ルキノは眉を顰めながら見ていた。
「あれだけ私と一緒になりたいと言っていたのに、帰るつもりかね?」
深いため息を吐き、抑揚のない声でルキノはそう告げる。身体の震えを隠すつもりか、自身の肩を抱き締めながら距離を取ろうとするナマエに目を伏せて頭を振った。
「止めやしないさ、君は私のものになるのだから。それと、私の事は他人に告げない方が良い。きっと困る事になるだろう」
その言葉を皮切りにナマエは勢いよく走り出した。身体が悲鳴を上げていたが、その痛みでルキノの事を考えずにいれるならそれで良かった。しかし、先程起こった事を都合良く忘れる事など出来ない。ナマエの頭の中にはルキノの言葉が、姿がまるで呪いのように残っていったのだ。
あの日からナマエはいつも通り、いや努めて元気に見えるように振舞っていた。予定も途切れないように入れ、常に忙しい状況に身を置く。何かを考える時間があると、ルキノの事が浮かんでくるのだ。そうして過ごしていると周囲もナマエの異変に気が付いてくる。心配した両親、友人にナマエはあの日の出来事を少しずつ語り出した。勿論全てを信じてもらえる訳ではなかった。しかし話す事で胸の内が軽くなったナマエは、ゆっくりではあるが日常が元に戻るように感じていた。
だがその平穏も束の間、道で転んだのを最初として身の回りで良くない事が起き始めた。手を火傷する、勢い良く人と衝突し足首を捻る等……そこまではまだ偶然だと思えた。危ない! そう聞こえて立ち止まった瞬間、目の前を黒い影が通った。そしてガシャンと激しい音が足元に響く。恐怖で強張った身体を奮い立たせて、視線だけでもと足元に遣ると、そこには割れた破片が散らばっていた。正体は鉢植えだ。それを見た瞬間、手足が震え出し唾が上手く飲み込めなくなる。このままだと死んでしまうかもしれない。
最近の不運は決して偶然ではなく、明確な意思を持って起こされたものだとナマエは気が付く。こんな事をするのは、いや出来るのはあの人だけだ。ナマエの脳裏に一人の男が浮かんだ。どうにか止めてもらわないと。心に巣食う恐怖を何とか押し潰し、ナマエはあの場所へと歩を進めた。
辿り着いたその場所はシンと静まり、虫の鳴き声すらしていない。此処に来るまでに自転車と接触しかけ、信号無視の車に危うく轢かれかけていた。確実に自身の命が危険に晒されている状況にナマエは泣きたかった。
「どうして、いないの……?」
最早縋るような気持ちで来たのにも関わらず、誰もいないそこにナマエはへたり込んでしまう。抑えてきた恐怖が解け、堰を切ったかのように涙が零れ出した。ずりずりと這うように池の側まで移動したナマエは、喉の奥から絞り出すように声を上げた。
「ごめんなさい……助けて…!」
何に対しての謝罪かナマエにすら分からなかったが、その言葉が宙に溶けた瞬間、木々が揺れ始め……そして耳元で彼の声が聞こえる。そこでナマエの意識は途切れた。
***
身体が重い。自分の身体なのに思うように動かせない。ナマエは自身の身体の不調に疑問を抱きながらもゆっくりと目を開けた。目に入ってきたのは蛍光灯が規則的に並んでいる淡い色をした天井。アルコール消毒の香りが鼻につく。視線を横に遣っていくと点滴が刺された腕が見えた。覚醒し切らない頭でも此処が病室だと理解出来る。しかし、どうして此処にいるのだろうか。ナマエは重りが付いたような身体を如何にか動かし上体を起こす。そのままの格好で辺りを見渡していると扉が開く音が聞こえた。
「お、母さん……?」
「目が覚めたの…! お父さん!! ナマエが!」
何とか縛り出した声は掠れていてとても小さなものだった。しかし、病室に入って来た母はその声を聞き逃すことなく、ナマエの元に駆け寄って抱き締める。泣きそうな声で父の名を呼ぶ母の様子から、自分があまり良くない状況にあった事にナマエは気が付いた。
「ナマエ! 良かった本当に……良かった…」
父も同じようにナマエの元に駆け寄る。どうやらナマエが記憶している最後の瞬間から、3日間程意識が戻らなかったようだ。検査しても原因が分からず途方に暮れていたと二人から聞かされる。
最初は掠れた声しか出せなかったが、暫くすると元のように話せるようになっていた。担当医からも少し様子を見て問題なければ退院と言ってもらったナマエは、倒れていた時の様子を母に尋ねた。池でいたのが最後の記憶だけど、そこまで両親が探しに来てくれたのだろうか。
「ナマエが倒れていたって連れて来てくれたのよ」
「誰が?」
母の様子から両親が連れて来てくれた訳ではない事は分かったが、それじゃあ誰が? 見当もつかず首を傾げていると、扉の開く音が耳に入って来た。二人分の足音が此方に向かってくるのが聞こえる。その音に顔を向けると、父とその後ろにもう一つの影が見えた。
「彼だよ」
父がにこやかに紹介したその人は、ナマエが一番会いたくない者であった。片手で父が指し示した彼は、人好きのする笑みを浮かべたルキノだ。最もナマエにとってその笑顔は恐怖を呼び起こすものだったが。
「な、なんでルキノさんが此処に!? 近寄らないで!」
「折角来てくれた命の恩人に何て事を言うんだ! それに昔はよく会っていただろうに。……すまないね、ルキノ君。娘は混乱しているようで」
「お気になさらず」
父とルキノがまるで昔ながらの知り合いのように話している事が理解出来ない。それに命の恩人だと、そう父は言った。嫌な想像が頭を支配し、ナマエの身体は強張っていく。そんな様子に気が付いていないのか、母は不思議そうな表情を浮かべながらナマエに告げる。
「昔は彼と結婚するなんて言っていたのに。しばらく会っていなかったから照れているの?」
「知らない……、彼と昔会ったなんて記憶はないよ…」
手足が冷えていく。ナマエの嫌な想像は現実のものとなった。母もルキノの事を知っている。ルキノと交流があった事、親しくある事が両親の中で事実となっている。家族の記憶が変わっているという現実に気が狂いそうだ。
「すみません、少し二人で話したいのですが」
「ああ、ゆっくり話してくれ。ナマエ、これ以上失礼のないようにね」
ルキノの提案に両親は笑顔で頷く。娘であるナマエの行かないでという言葉は聞き入れられず、無情にも扉は閉められた。両親が病室を完全に出ていくのを見送ったルキノが緩慢な動きで振り返る。
「身体は大丈夫かね?」
「大丈夫って…貴方のせいでしょ! 二人に何をしたの?」
「それだけ大きな声が出せるなら大丈夫のようだ」
「答えてよ!」
何をされるのか、何を言われるのか身構えたが、そんな警戒を余所にルキノはただナマエの事を案ずるかのような言葉を掛けた。それが人を演じているような不気味さを感じたナマエは、不安を打ち消すように早口で捲し立てた。明らかな敵意を見せるナマエに、ルキノは短く鼻で笑い顔を近づける。
「私は忠告したはずだ。君が話してくれたおかげでこうやって外に出られた」
「っ! 私のせいだと……!」
淡々と告げるルキノを見て、彼が嘘を吐かないと言っていた事をナマエは思い出す。それと同時に、今彼が此処にいるのは自身が話したからだと気付いてしまう。自業自得――いや、両親も巻き込んでしまった原因は自分だと知ってしまった。こんなの彼が言う通り、私が全部悪いんじゃないか。違う、私は悪くない。彼が……! 見上げたルキノの顔は、ぞっとする程美しかった。その表情を見た瞬間、ナマエは小さな息を漏らして縮こまる様に身体を丸めた。頭を抱えるようにして動かなくなったナマエを、ルキノは柔らかな力で抱き締める。
「私は君に感謝しているよ。もう急ぐ必要もない……だから泣かないでくれ」
「私のせいで……ごめんなさい、ごめん…なさ、い」
小さく震えてうわ言を繰り返すナマエの頭を愛おし気にルキノは撫でた。大丈夫、大丈夫と耳元で囁くルキノの声が心地良く、まるで過ちを赦してくれる特別なもののように感じてくる。目の前にいる男が全ての元凶である事を、ナマエはもう理解することが出来なくなっていた。ルキノさん、小さな声で彼の名を呼んだナマエは自らの意思で彼の背に手を伸ばした。
「ああ、良い子だナマエ。これからずっと、ずうっと一緒だ」
ルキノは静かに笑った。
彼女の日常はもう二度と戻らない。彼に浸食されてしまったのだ。