覚悟はいいかい?

晴れてアオキさんと恋人になって一ヶ月が経った。ただ同じ店の客であった仲から、恋人という仲になったのは、今でも人生って何があるか分からないという事を体現していると思う。アオキさんはあまり感情を表に出さないが、私の事を尊重してくれているのが彼の言動から伝わってくる。だけど、アオキさんと恋人になったとはいえ……関係は前と特に変わらず。私は少しの不安を抱えていた。彼は本当に私の事好きなんだろうか? そんな良くない考えを頭から追い出し、私はいつもの宝食堂へと向かった。
いつものように宝食堂で並んでご飯を食べる。二人掛けの席で向かい合わせに座った事もあったが、お互いに隣同士が落ち着くと結局カウンター席に戻ってきた。ご馳走様と手を合わせると、すでに食べ終わっていたアオキさんが此方を見ていた事に気がつく。食事姿をまじまじと見られていたと思うと少々照れ臭い。

「お待たせしました。あの、何か用事でもありましたか?」
「ええと、すみません。後で話させてもらうんで」

そう呟いたアオキさんは伝票も持って立ち上がった。アオキさんの歯切れの悪い様子に少し呆けていたが、私の伝票まで持っていってくれた事に気づいて慌てて追いかける。私がレジへ辿り着いた時にはアオキさんは会計を済ました後だった。

「私の分まですみません! 払いますね」
「いや、自分が好きで払っただけなので気にせず」
「あ、ありがとうございます…」

こういう事をサラッとやってしまうのがアオキさんの凄いところだ。お礼の言葉を口にしつつ、次は私が払おうと心に決める。外に出て彼の後をゆっくりと歩く。手繋いでみたいな…アオキさんの空いている手をチラリと見ていると、彼が不意に立ち止まり此方に振り向いた。もしかして願望を口に出していたのかと焦ったが、アオキさんの表情に特に変化が見られなかったので聞こえていなかったと思う事にする。視線を少し巡らせた後、アオキさんはポツリと呟いた。

「まだ日も高いですし、ナマエさんが嫌じゃなかったら……私の家に来ますか」
「家…ですか?」

思わず耳を疑ってしまった。私に意見を伺う形だけど、まさかアオキさんが家へ誘ってくれるなんて思ってもみなかった。もしやゾロアークが化けているのでは、なんて馬鹿な考えが頭を過るくらいだ。

「はい。前にネッコアラの家での様子が見たいと言っていたでしょう」
「あ、えっと、そうでした」

反応が鈍かった私にアオキさんは誘った理由を話す。そういえば前に頼んでいたなあと思うと同時に、やっぱり甘い意味じゃなかったのかと肩を落とした。そんなに都合の良い展開なんてないよねと再びアオキさんを見る。すると彼は僅かに視線を逸らしており、いつも通りに見えて少し耳が赤くなっていた。もしかして、期待してもいいのだろうか。行きます、そう答えた声が震えていなかったかそれだけが心配だった。

***
「大して面白味もありませんが、此処が私の家です」
「お邪魔します」

何とか平静を装って声を出したが、心臓が煩いくらいに鼓動している。緊張のあまり変な行動をしないようにしなくてはならない。アオキさんの後を遅れないように着いて歩く。案内された部屋の中で立ち尽くしていると、彼はソファを見遣りそこへ座ってくださいと促してくれた。その言葉に甘えてソファに腰を下ろすと、此方を見て一つ頷いたアオキさんは少し待っていてくださいと部屋の外へ出て行ってしまう。
主がいなくなってしまった部屋の中で、私は姿勢を正して前だけを見て座っていた。人の部屋の中をあまりじろじろと見るのも良くないと思ったし、何より緊張していたのもあったと思う。入って座っただけの感想だが、部屋もシンプルながらシックな装いでアオキさんらしさを感じられる内装だ。ソファも心地の良いつくりのはずなのに、今の私にはリラックスして堪能する余裕なんてものは存在しなかった。

「戻りました」

そう言いながら中々部屋に入ってこないアオキさんを不思議に思い、ドアの方へ歩いていく。開けますと声を掛けつつ、ドアを開くと両手にコップを持ったアオキさんが立っていた。

「開けてもらってすみません」
「こちらこそすぐに気づかなくてごめんなさい!」

アオキさんは目線で再び座るようにソファを見たが、とりあえず座らずにアオキさんがコップを机に置くのを見ていた。

「お茶です。お口に合わなかったら、気にせず言ってください」
「ありがとうございます」

机に置かれたコップから温かな湯気が微かに出ている。わざわざ淹れてきてくれた事が嬉しい。顔を上げて少しだけ顔を動かしてアオキさんの方を見ると、視線が合った。

「何か面白いものでもありましたか?」
「いえ、綺麗にされてるんだなと思って」

どうやら僅かに顔が緩んでいたようで、それを見てアオキさんは部屋に気になるものがあったと考えたようだ。下手な事を言って困惑させるのも申し訳ないので、当たり障りのない言葉を返す。私のその言葉にアオキさんは暫し考える素振りを見せた。

「……あまり、此処で長い時間過ごさないもんで」
「過ごさない……え、あっ…すみません」
「謝らなくても結構ですよナマエさん」
「……はい」

当たり障りのないと思っていた言葉は、アオキさんの地雷を的確に踏み抜いていたようだ。この場に微妙な空気が流れる。気まずくて思わず謝った私に、彼は表情も変えずに緩く頭を振った。どうやら本当に気にしていないらしい。そしてそのままアオキさんはモンスターボールを取り出す。

「そういえば、ネッコアラでしたね」

アオキさんのその言葉と共にモンスターボールからネッコアラが飛び出した。飛び出したというより床にぽてっと落ちたという方が正確かもしれない。私はしゃがみ込みネッコアラを軽く撫でる。ネッコアラのおかげで先程までの空気は霧散したように感じた。寝ている筈なのに撫でられる度に表情を変えるのが可愛くて仕方がない。

「やっぱり可愛いですね!」
「……ナマエさんの方が」
「えっ?」
「何でもありません」

思わず歓声を上げる私に、アオキさんはいつもより小さな声で何かを言っていたが、ネッコアラに夢中で聞き取ることが出来なかった。聞き返したが特に何も言われなかったので、アオキさんの独り言だったようだ。
しばらく撫でているとネッコアラはゆっくりと移動し、立っていたアオキさんの方へ移動し出した。そしてまくら木を手放し、アオキさんの脚を登りそのまま腰にしがみつく。まくら木がないと安心して寝られないと言われているのに! 初めて見るネッコアラの姿を驚きで固まったまま見ていると、いつの間にかアオキさんの腕に抱き着く形で落ち着いていた。

「アオキさんの腕に……!」
「大体いつもこうです」
「信頼してるんですねアオキさんの事」
「そうでしょうか……実は重くて結構きついです」

ネッコアラの頭をアオキさんは空いている方の手で撫でる。微笑ましい様子なのに、私も撫でられたいだなんて邪な気持ちが顔を出す。そんな考えを追い払うように、今度こそソファに座りお茶を飲んだ。少し温くなってしまったがとても美味しくてほっとする。
ポケモンを収納する音が聞こえ音の方へ向くと、アオキさんはネッコアラをボールに戻していた。テーブルにそれを置いた彼は私の隣へと腰を下ろす。ソファが僅かに軋み、身体がアオキさんの方へとほんの少し傾く。
肩が触れそうな程近い距離にソワソワとした感覚を覚えた私は、落ち着かない様子を隠すように手に持っていたお茶を再び飲んだ。アオキさんも特に何も言わないまま、私と同じくコップを口に運ぶ。食事を共にする時にも見ている行動なのに、彼のコップに触れている口元が気になるのはこの距離のせいなのだろうか。チラチラと横目でアオキさんの事を見ていると、不意に目が合った。

「す、すみません」
「いえ……あの、ナマエさん」

アオキさんがコップをテーブルに置く。何故か私も置かなくてはいけないという気持ちになって、そっと手からコップを離した。そおっとアオキさんを窺うと、口をぎゅっと結び眉を僅かに顰めて此方を真剣な表情で見ていた。

「これも、嫌だったら拒否してください」

そう呟くと元々少なかった距離を無くすように、アオキさんはゆっくりとした動きで近づいてくる。彼の手が私の肩に触れる。触れたそこから熱くなって、頭がクラクラしてきた。きっとこのままキスされるんだと、ギュッと目を瞑った。しかし望んだ場所に感触はなく、変わりに身体が暖かさと彼の匂いで包まれた。

「ずっとあなたに触れたかった」
「アオキさん……」

消え入りそうな声を漏らすアオキさんは、私の事を確かめるかのように抱き締める。キスじゃなかった、そんな事なんてどうでもよくなるくらい温かくて満たされる。私も抱き返そうと身じろぎすると、名残り惜しむような表情で離れていく。

「年甲斐もなくすみません」

アオキさんは腰をずらして私から距離を取った。皺が付きそう様子で握られたズボンが、アオキさんの心情を表しているようだった。

「そんな事言わないでください! 私も、アオキさんと触れたい…です」

こんなに嬉しいのに、満たされているのに……そんな思いが口から自然と零れていた。目を丸くしたアオキさんは、顔を逸らして手で口元を覆う。しばらく俯いたままだったアオキさんが緩やかな動きで私を見上げた。僅かに濡れたアオキさんの瞳には、確かに欲の色が映っていた。

「あまり、煽らないでいただけると…」
「いいですよ、アオキさん」
「っ! 後で嫌と言わないでくださいね」

アオキさんとの距離がまた縮まる。アオキさんの手が頬に触れて、暖かな感触が唇に落ちた——。