それは些細なキッカケ

「あ! そういえば…」

私は隣に座るアオキさんに声を掛けた。彼はTVを見ながら「はあ、何でしょうか」なんて気の抜けた声を出している。

「アオキさんって黒手袋着けてるんですよね?」
「手袋……? ああ、四天王の業務の時だけ着けていますが」
「そっかあ」

私の要領を得ない反応に、アオキさんが怪訝そうな表情を浮かべているのが見えた。勢いよく彼の方へ向くと肩を跳ねさせ、僅かに身体を仰け反らす。少し前のめりになったくらいで距離を取らないでほしい。別に赤の他人という訳でもない……というより恋人同士なのだから。

「あの、黒手袋着けてほしいんです」
「……何故?」
「え、私が見たいからですけど」

こちらまで聞こえる溜息を吐き、アオキさんは立ち上がった。そのまま何処かへ歩いていくのを見送り、ソファに身体を深く沈ませる。今までの事を考えると、アオキさんはきっと私のお願いを叶えてくれる。随分と自意識過剰な考えだとは思うけれど、そう考えるのも彼が私に甘いからだ。

「ナマエさん」

上から声が降って来る。視線を上げると私のお願い通りに黒手袋を着けたアオキさんが、何とも言えない表情で立っていた。

「ありがとうございます! やっぱりいいですね、黒手袋!」
「これのどこがいいのか…自分にはさっぱりですよ」

ぶつくさ文句を言いつつ、そのままで居てくれるアオキさんはやっぱり私に甘い。再び隣に腰を下ろした彼の手を取り、何も言われないのを良い事に好きに触る。普段の骨張ったアオキさんの手も男らしくて好きだけど、黒に包まれて隠された手とワイシャツの絶妙なバランスも好きだ。何より彼の手を好きに出来るのが私だけ、という事実がどうしようもなく嬉しい。

「ね、アオキさん。手袋の下の方を口で咥えてくれませんか?」
「は? 咥える……?」

ムックルが豆鉄砲を食らったような表情でアオキさんは固まる。私も急にそんな事を言われたら、実際同じような反応をするだろうと心の中で笑った。だけど今は私が言っている側だから、そんな事は関係ないと自分勝手に考える。だから多少強引でも仕方ないよねと一人納得した私は、アオキさんの手を持ちそのまま彼の口元へと持っていく。

「この仕草絶対格好良くて……」
「何を言っても聞かなさそうですし、まあ……他の四天王ではなく自分に言ってくれたので」

また溜息一つ、しかしアオキさんは拒否しない。そうするのが不服なのか彼の眉間には皺が寄っているけれど、それを含めて格好良い。もういいかと言わんばかりに視線を寄越してきたので、慌ててスマホロトムを取り出した。パシャッと軽い音が鳴り、スマホロトムに写真が納められる。

「撮ったんですか」
「格好良かったのでつい…」
「……」
「…ごめんなさい」

もの言いたげな目付きでこちらを見るアオキさんに、頭を下げて謝罪を口にする。彼は結構大人げないというか頑固なところがあるので、機嫌を損ねすぎると口を利いてもらえなくなるかもしれない。顔を上げてアオキさんの様子をこっそり窺うと、口をへの字にして私を見ていた。だけど顰められていた眉は緩くなっていたので、何とか大丈夫だと胸を撫で下ろす。

「もう脱ぎますよ」
「えっ!? ちょ、ちょっと待って!」
「まだ何かあるんですか……」

黒手袋に手を掛けていたアオキさんを慌てて止める。折角着けてもらったのに、もう脱ぐなんて勿体ない! 家では着けていた事なんて今までないし、正直私の力じゃリーグなんて行けない。だからここは恥を捨ててでも、アオキさんの黒手袋姿を堪能しなければならないのだ。呆れが混ざった目で見るアオキさんに、私は“お願い”する。

「これで最後にするので、お願い聞いてくれませんか?」
「あなたという人は……これが最後ですよ」

何度も言うがアオキさんは私に甘い。想像通りの反応に思わず頬が緩む。

「ありがとうございます! えっと、手袋したまま触ってください…」
「……」
「アオキさん?」

急に無言になってしまったアオキさんの顔の前で手を振る。流石に大胆すぎるお願いだったかもしれない。僅かに後悔が頭をよぎったけれど、普段スキンシップも少ないしこんな絶好のチャンスを逃したくない。

「触る、とは」
「こうやって……」
「あの…」

絞り出すように出された声はビックリするほど小さい。疲れている時の覇気のない声ではなくて、硬さが感じられる声だ。緊張してくれていたら、いいな。アオキさんの目を見ながら、そっと手を持った。拒否すればいいのに、しないって事はきっと嫌じゃない。そんな事を考えながら、大して力の入っていないアオキさんの手を引く。彼の手が、私の頬に触れた。

「ナマエさん、話を…」
「好きに触っていいですよ」

その言葉にアオキさんは困惑の色を浮かべたまま、ゆっくりと手を滑らせた。手袋の質感が不思議な感じ。そおっと確かめるように触れるものだからくすぐったい。

「ん、……ふ、くすぐったい」
「……」

我慢出来ずに声が漏れてしまった。チラリと見たアオキさんの表情は真剣なものだった。目を細めてこちらを真っ直ぐ見据える彼に鼓動が早まっていく。ここ数日分のスキンシップをしてもらったんじゃないだろうか。

「も、大丈夫です。ありがと……っ!?」

満足したから大丈夫。そう伝えようとした瞬間、アオキさんの手が唇を触った。ただ掠めただけかと最初は思ったけど、ふにふにと触り続ける彼に偶然じゃない事に気づく。優しい力で緩急をつける手付きに変な気持ちになってくる。

「柔らかいですね」
「アオ、キさん……そこ、は…んぅ」

淡々と感想を言ってくるアオキさんが恨めしい。こんなドキドキした気持ちになっているのは私だけなんだろうか。止めてと伝えるために開いた口に彼の親指が差し込まれた。下唇を摘まむように柔く揉まれて、私の口からは甘ったるい声が零れる。抗議しようにも声が出せず、ずっとアオキさんの好きにされている。苦しいけど、頭がぼんやりして気持ちいい。

「っん、…は…ぁ…」

指が引き抜かれて、アオキさんの指との間に銀糸が伝う。熱に浮かされた頭で見ていると、アオキさんがそれをこちらに見せつけるように動かした。

「……ナマエさんので汚れてしまいました。これ、取っていただいてもよろしいでしょうか?」

その黒手袋は確かに汚れていて、でもアオキさんのせいでもあるのに。それを言い出せる雰囲気ではない。私が小さく頷いたのを見て、彼は自身の手袋を留めているボタンを歯で器用に外す。あ、それ見たかったやつ……いつの間にか目の前に差し出されていて、手で脱がそうとするとアオキさんは緩く横に首を振った。

「手じゃ、だめ?」
「ナマエさん」

いつもの調子で名前を呼ばれただけなのに甘い痺れが走った気がした。しばらく逡巡していたけれど、アオキさんの目に負けた。あんな目で見つめられたら断れない。
緩慢な動きで指に口を寄せ、痛くないようにそっとアオキさんの指を噛む。そのままゆっくりと布を引っ張っていく。心臓が破裂しそうなくらい煩くて、恥ずかしさなのか興奮なのか分からないけれど身体が震えてくる。

「はい、ありがとうございます」

右手の黒手袋を何とか脱がすとアオキさんが礼を言った。そして、乱れた息を整えようとする私を軽く撫でた。終わった安堵感で肩の力が抜ける。もう無茶なお願いなんてやめようと考えた時、肩を軽く押された。強い力じゃないのに、安心しきっていた私の身体は簡単にソファへと押し倒される。

「あの…アオキさん…」
「ですが、片方だけ願いを聞くというのは不公平だと思いませんか?」
「不公平……?」

馬乗りになりながらアオキさんは少し早口でそう尋ねた。不公平の意味が分からずに口ごもった私を彼は軽く笑い、「分かりませんか?」と顔を近づける。

「次は自分のお願いを聞いてもらう番です、いいですね?」

こちらに問いかけているようで、私の意見なんて聞いていない。強引なアオキさんの様子にゾクゾクする。ああ、でも……そんな彼も好き。こくりと頷く私の唇にアオキさんは顔を寄せる。
気付かないうちに外されたもう片方の黒手袋が、ポトリと床に落ちる。もう手袋なんて二人の頭にはなかった。