「あー、仕事辞めたい」
恋人のアオキさんの部屋で馬鹿みたいな事を呟く。隣に座っているアオキさんは「はあ、そうですか」といつものように答える……と思っていた。
「辞めたいのなら、辞めてしまったらどうですか?」
「えっ?」
想像していた言葉とは全く異なる答えが返ってくる。驚きでアオキさんの顔をまじまじと見つめると、彼は不思議そうに首を傾げた。
「何かついてますか?」
「ついてない、ですけど……え?」
「ナマエさん」
そっと手招きをする彼に寄っていくと、「どうぞ」と腕を広げた。もしや抱き締めてくれる…?何から何までいつものアオキさんと違って情報処理が追い付かない。腕に飛び込もうとしない私に痺れを切らしたのか、アオキさんの方から寄って来て優しい力で包んでくれた。思わず身体が跳ねてしまう。
「え、あの、アオキさん?」
「いつ言おうかとずっと考えていました」
抱き締めたままアオキさんはポツリと語り出す。
「自分はこう見えて、まあそれなりに貰っていますし……それに貴女の事を大切に思っているんです、ナマエさんが思っている以上にね」
「ま、待って!」
「待ちません」
どう考えてもプロポーズの言葉が続く展開に、慌てて止めようとする。抱き締められているせいでアオキさんの顔が見えない!それなのにアオキさんは止まる気配がなく、今までよりも強い力で私を抱き締める。
「ナマエさんは仕事が嫌だとよく言うでしょう。自分も常々思っていたのですが、わざわざ辛い事をしなくていいと思いますよ。それに外も危険が多いので……ずっと家に居ていただいても構いません。むしろそちらの方が自分としても安心出来ます。それから…」
「ア、オキさん……?」
「どうしましたか」
名前を呼ぶといつもの調子で返ってくる。でも腕に込められた力は強いままでびくともしないし、それにアオキさんはずっと私を抱き締めていて表情が全く分からない。語るそれが好意なのは分かるのに、今のアオキさんの心情が理解出来ない。いつもなら嬉しいはずの抱擁も、まるで私を捕らえる為の檻に感じてしまう。
「少し、離してもらっても…」
「それは出来ない相談です」
「アオキさん!」
私のお願いをアオキさんは却下し、更に腕に力を込める。見た事がない彼の様子、身体を絞める腕の強さ……そして訳が分からない恐怖感に遂に私の目から涙が溢れた。
「大丈夫ですか」
「だい、じょぶじゃないです…」
「……すみません」
するりと腕が解かれて、私は彼の檻から解放された。いい歳をした大人が泣くなんて恥ずかしいけれど、勝手に出てきて抑える事が出来ない。アオキさんは先程までの様子とは打って変わって、罪悪感を滲ませたような表情をしていた。どうしてそんな顔をするの!
「心配、だったんです。貴女の事も……いえ、貴女が自分から離れていく事が何よりも」
「でも、あんまりじゃないですか」
「……」
「不安なことは、言ってくれないと分からないです。私はエスパータイプじゃないんですから」
絞り出すように告げるアオキさんの思いは、今まで彼から聞いた事がないほど暗い。確かに前から年齢が離れている事を気にしていたし、付き合った当初はわざとこちらを避けるような素振りも見せていた。でも、でもそれがアオキさんの中にある不安の現れだったなんて気づきもしなかった。彼は大人で、いや、大人であるが故に…ずっと自身の奥底に隠していたのだろう。
俯いてしまったアオキさんの頬にそっと手を添える。触れた瞬間彼の身体がピクリと動く。
「アオキさん…」
「不安でした、ずっと。貴女を閉じ込めて自分だけのものにしてしまえば……それは消えるものだと考えていました」
「本当に消えそうですか?」
「分かりません。ですが、そうしてしまえば貴女の笑顔が消えてしまう事だけは…確かです」
床を見ていたアオキさんの視線が私の視線と交わる。少しだけ逡巡したアオキさんはゆっくりと口を開いた。
「閉じ込める代わりに、自分の側に居てくれますか?」
「ええ…勿論です。閉じ込めなくても私はアオキさんとずっと一緒にいますよ」
「……ナマエさん、好きです。愛しています」
「私も、アオキさん…貴方の事が誰よりも愛おしいんです」
ふわりとアオキさんに抱き締められる。でもさっきとはまるで違う。私を閉じ込めるものじゃなくて、私を感じるための温かなもの。とんだプロポーズだなあと心の中で笑いながら、彼の背中に手を回した。どうか私の思いが伝わるように、彼の不安が解けるようにと。