「ナマエ」
「うん? どうしたんですかルキノさん」
不意にこの部屋の主であるルキノさんに声を掛けられる。彼が座っている机の方に顔を向けると、目を細めたルキノさんが此方をじっと見つめていた。今までの事を考えると、私に何かしら頼みたい事でもあるんだと思う。彼の元へ歩いて行き視線を合わせる。
「ありがとう」
「へ、急に何ですか?」
「いや、ただ伝えたくなっただけさ」
唐突に告げられた言葉に思わず気の抜けた声が出てしまった。そんな私の声に触れる事なく、ルキノさんは緩く私の頭を撫でて笑った。何の変哲もない感謝の言葉だったけれど、彼の言葉を噛み締めるような声色が私の心に引っかかった。
「あっ」
ルキノさんの部屋に向かっている最中に、あまり会いたくなかった存在を見つけてしまい声が漏れた。声が出ている事に気が付いた時には遅く、その人物は緩慢な動きで此方を見る。
「おや、貴女は教授の……」
「っ……」
私を視界に入れたハンターは自身の左手の鋭利な刃を擦り合わせた。その金属音に試合での痛みが思い出され、身体が硬直してしまう。
「そんなに露骨に嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないですか」
「……そんなつもりは」
「どうせ教授にでも言われているんでしょう」
「ええと、すみません」
極力彼、リッパーの前では表情に出さないようにと思っていたが、きっと眉間にでも皺が寄っていたのだろう。傷付きますよと思ってもいない事を口にしながら、リッパーは大袈裟に悲しんでみせる。同じハンターと言っても本当にルキノさんとは全く異なった性格だ。たった一人でリッパーと対峙していても良い事なんて一つも浮かばない。それとなく廊下の端に寄り、リッパーの横を通り過ぎた時だった。
「何か悩んでいるんじゃあありませんか?」
「……特には」
「貴女も随分と分かりやすいですねえ。ハンターの気持ちはハンターに訊くのが一番ですよ」
背中に投げられた言葉に思わず足が止まる。否定してみたがきっと声の色で気が付いただろう。観念して振り返った私にリッパーは愉しそうに笑う。そんな笑いに僅かに嫌悪感を覚えたが、確かに彼の言う通りハンターの意見も聞いておいてもいいかもしれない。
「あの、急にお礼を言いたくなる時ってどんな時ですか?」
「礼です、か。私にはあまり縁がない言葉ですが……そうですね、終わらせたい時ですかね」
「えっ……」
「そちらの顔の方がお似合いですよ」
クスクスと肩を震わせて一通り笑ったリッパーは、右手で私の肩を軽く叩いて去っていった。彼のご機嫌な鼻歌が憎らしい。
「こんにちは……」
フラフラとどうにかルキノさんの部屋に辿り着き、彼に出した挨拶の声は自分でも分かる程張りがない。ルキノさんがそんな事を考えているなんて思わないけれど、どうしてもリッパー の言葉が頭から離れない。
「覇気がないがどうしたんだ?」
「えっと……その、」
「君が落ち込んでいると私も落ち着かない。悩みがあればどうか何でも言ってくれ」
いつもならすぐに近寄って来る私が立ち尽くしている事を不審に思ったのだろう。寄って来てその大きな身体を折り畳んで私を覗き込む。心配そうな様子がその双眸から伺える。
「少し前にルキノさんが急にありがとうって言ってくれた事があったじゃないですか」
「……ああ、そうだな」
「本当に急で……だから何か他の意味があるのかなって思っちゃったんです」
「他の、とは」
何故その事を?と言いたげにルキノさんの目が細められる。どうしようか、やはり言わないでいた方が……そんな考えが頭を過ったが先程の言葉を思い出し、ぐっと決心して口を開いた。
「リッパーさんに、終わらせたい時と言われちゃって……」
「ハア……」
ルキノさんの深い溜息を聞いて後悔が顔を出す。口にした事でその可能性を作ってしまったのではないか。恐ろしくなって目をぎゅっと閉じた。
「違う。あんな奴の言う事など真に受けなくていいさ」
「る、きのさん……」
「私の言葉だけを信じてほしい。確かに急だったが、そこには感謝の意しか乗っていない」
「うん……」
優しく私の頭を撫でる手、まるで慈しむかのような声色。どれもが私を安心させるのには十分だった。何を、悩んでいたのだろうか。大切なルキノさんの言葉を聞かずに。そっと腕を伸ばして目の前の彼へ抱き着いた。
「私の側にいてくれてありがとう。そして、これからも私の側で笑っていてほしい……なんて随分と欲張りだが、どうかね?」
「……! 私こそよろしくお願いします!」
「ふふ、そんなに畏まらなくてもいい」
急に抱き着いてきた私に動じる事なく、絶妙な力加減で私を抱き上げた。遠くなった地面に怖れなど抱かない。ルキノさんの近くに居れるのが、何よりも心地が良い。
「ありがとう、ルキノさん」
「ああ」
お互いに目を合わせて笑い合う。ルキノさんの顔が近付いてきて、私はそれを受け入れた。