正しく依存

「ただいま帰りました」

くたくたに疲れ切った身体を引き摺って、我が家のドアを潜ったアオキはいつものように言葉を掛ける。普段なら軽快な足音共に迎えてくれる彼女の姿が一向に見えない事に、僅かな違和感を覚えつつリビングへの扉を開けた。

「ナマエさん……?」
「アオキさん、手を出してください」

リビングへ足を踏み入れると思ったより入口近くに彼女が立っていた。表情こそ変わらぬものの、流石に驚いたのかアオキの足が一歩後ろへ下がる。どうしてそんなところに、とアオキが問い掛けるより早く彼女が口を開く。

「手? 一体どうしたんですか」
「いいから!」
「はあ、そこまで言うなら……」

強い口調に押されて言われた通り手を差し出す。これ程までに彼女が感情的になっている理由が全くもって検討がつかず、首を傾げた時だった。左手首に僅かな重みを感じた。

「これは……?」
「……」
「ナマエさん、これは一体?」

アオキの手首には鈍く光る輪が掛けられていた。チープな作りではあるが、どう見ても手錠のそれに思考が停止する。どこでこんな物を入手したのか、どういうつもりで自分に掛けてきたのか。困惑の色を隠せぬまま問い掛けた言葉に彼女は無言を返した。これはトップの無茶振りよりキツいな、そうアオキが心の中で愚痴を溢した時、沈黙を貫いていた彼女が口を切った。

「昼間の女の人誰?」
「え」
「随分と親しげだったけど、アオキさんはああいう人がいいの?」
「待ってください、何か誤解を」

彼女の口から滔々と流れ出すのは誤解からの嫉妬だ。普段であれば嫉妬している彼女程可愛らしいものはないのだが、如何せん勘違いも勘違いだ。それもアオキにとって決して良い勘違いとは言い難く、慌てて否定したのが悪かった。あ、と思った時には既に遅く、それを言い訳と捉えたらしい彼女の眉が吊り上がる。

「彼女と話しているだけだったら別に何も思わなかったのに……どうして照れてたの? あんなに嬉しそうに笑ってたの? こんな玩具じゃ繋ぎ留めれないのは分かってる、でも……」
「ナマエさん!」

呼び掛けに彼女の動きが僅かに止まる。自分の事を想って感情が揺さぶられている彼女は好きだ。だけど苦しみを抱えた彼女は見たくない。その想いが心の内を占めた時、アオキの口から自然と言葉が溢れる。

「自分はとっくにあなたのものです」
「何をいまさら……」

真っ直ぐな視線に言い籠る彼女の頬を左手で触る。嵌められた手錠が軽い音を立てた。

「自分が照れていたのはナマエさんとの関係を訊かれたからです。笑っていたのは……自覚していませんでしたが、あなたの事を人に話せたのが嬉しかったのかもしれません」
「は?」

隠さずに自分の本心を。その語りに狼狽えた様子で目を泳がす彼女にアオキはさらに続ける。

「彼女は職場の後輩です。相談事があると渋々飯に付き合ったんですよ、そうしたらあなたの事を訊きたいと興味津々で」
「でも、わざわざ食事に付き合って。それに相手だってどうして私の事を?」
「飯を食うのは人が多い食堂を選びました。彼女があなたに興味を持ったのは、休日に……自分と歩いている姿を見たと……」
「アオキさん、私……」

自身の勘違いに気が付いたのであろう。彼女の声は覇気が消え去り、可哀想に身体も震えている。もしかすると自分が愛想を尽かして彼女の前から去るとでも思っているのか。そんな事をする筈もないのに。縮こまって今にも消えてしまいそうな彼女にアオキは薄く笑った。まるで自嘲するかのような笑みだ。

「自分も軽率でした。如何に仕事の付き合いとは言え、女性と二人で飯を食うなんて。もしあなたが男と二人っきりでいるのを見たら、自分も冷静ではいられんので……今更ながらあなたの気持ち、分かります」

結局は自分も彼女と同じだとアオキは思う。今回は偶々彼女がそうなっただけで、同じ場面に遭遇すればきっと自分も。だから大丈夫だと、アオキは頷く。それでも彼女は伏せ目がちにアオキの表情を伺う。彼女の瞳が揺れた。

「ごめんなさい……外します」
「いいんです。あなたも手を出して……」
「……?」

怪訝な表情を浮かべつつも素直に差し出す彼女の手を、壊れ物を触るかのような調子で掬い上げた。そして、アオキは自身の左手首に垂れ下がっていた手錠の片割れを手に取ると、彼女の白い手首に嵌める。彼女の手に嵌められたそれは自分の物と同じ筈なのに、どうしてかジュエリーのように見えた。白に黒が映える。

「自由はありませんが、ナマエさんとならそれでも悪くないと思える」

そう告げるアオキに彼女は泣きそうな目で見つめる。アオキは繋がれた手首を捻り、彼女の手を離さないように握り込んだ。きっと自分達は足りない部分を補うような健全な関係ではない。互いが互いに依存するような、どうにもならない関係だ。それでもこれが心地良いと思うのは間違っているのだろうか。
恐る恐るといった様子で自由な手を背に回す彼女を、アオキもそっと包み込んだ。どうしようもない彼等がそこにいる。