深いしじまに包まれた意識の膜を、軽くノックでもするように、鳥のさえずりが耳に滑り込んでくる。ゆっくりと浮上していく意識に、瞼が光を感知して震えた。
眠気で重たい目を何とか押し開けば、風にたなびく白いレースのカーテンが鷹揚に揺れている。
その様を眺めていれば、横たわっている背後で、ベッドがギシリと僅かに傾いたのが分かった。
「おはようございます」
「おはよう、ななみ」
彼の体重によって沈んだ方へ体ごと向きを変える。
鳥のさえずりよりも柔らかく耳朶に触れる声に、寝ぼけまなこ同様、少々舌っ足らずの音で彼に挨拶を返した。
「朝食出来てますよ」
「やったあ!私、ななみの淹れてくれるコーヒー大好き!」
自分で淹れるコーヒーと比べてしまうのがおこがましいほど、彼のコーヒーは美味しいのだ。仕事に行く前のささやかで幸せな時間。
「知っています」と、細められた優しげな色を湛えた瞳に嬉しくなって、私は彼の腰に思い切り抱き着いたのだった。
・・・
「っていう夢を見てね」
「……そうですか」
「七海の淹れてくれたコーヒー本当に美味しいの!」
「貴女にコーヒーを淹れた記憶はありません」
図書室で何やら調べ物をしていた彼を見つけた私は、嬉々として昨日見た幸せな夢の報告をしている最中である。
チラリと一瞥をくれただけの彼は、書物に視線を戻してしまった。向かい側の椅子に腰掛けた私は頬杖をつきながら、日本人とはまた違った風貌の、目鼻立ちの整った彼の顔をじっと見詰めていた。
「じゃあ結婚しよ!そしたら七海のコーヒー飲めるし!」
「貴女はまたそういうことを軽々しく……私たちは付き合ってすらいませんが?」
「だって、今まで五回告白してるのに、いつも袖にするじゃん……」
「六回です」
「あれ?そうだっけ?」
正確な数に訂正されて、彼が告白の回数を覚えていたことにも驚いたが、自分が玉砕している回数であることにも切なさを覚えた。
ここまで来ると彼の方も慣れてきたようで、回数を重ねるごとにあしらい方も様になってきたように思う。
可笑しいな。本来ならば、「ここまで自分のことを想っていてくれるなんて……」と、今まで眼中に無かった私のことを意識してもらう予定だったはずなのに。
「私の心、ガラス製だからさ……今日はちょっとヤケ起こしちゃった」
「鋼鉄製の間違いでしょう」
「七海も冗談とか言うんだね」
私の告白に取り合ってはくれないけれど、会話を蔑ろにされた事はない。たまにこうして真顔でぶっ込んでくることはあるが。
きっと彼は、自分が私に好かれる要素がない、とでも思っているのだろう。以前に、本人から彼の好きなところを聞かれ、優しいから、と答えたらそれならば灰原の方が、と言われたのだ。だから本人の前でプレゼンしようとしたのに、ひと睨みされて失敗に終わってしまったので、今でも残念に思っている。
二人とも確かに優しい。ただ、優しさの在り方が違う。灰原の太陽みたいな明るく照らしてくれる暖かい優しさも勿論好きだ。
七海は、一歩引いて私が出来るギリギリまで見守ってくれる。的を射たアドバイスや、ごくたまに褒め言葉も。助けられなかった命に対し、私が悲しみに暮れていた時、彼がくれた言葉に私はまた前進しようと思うことが出来た。
『貴女が死ぬ思いで己を鍛え上げて来たことを知っています。貴女はこれからどうしたいですか?』
どんな言葉を掛けたら良いのか分からない、そんな場面でも彼は淡々とそう言った。少しの私情と褒め言葉を添えて。それは誰にでも出来るようなことではないと思う。
厳しくて、でもどん底から這い上がろうと力をくれる優しい言葉。むしろ叱咤激励でもされた気分だったから感謝してもし切れない。
自分には殊更ストイックさを発揮するくせに、他人には厳しいと見せ掛けて優しかったりするから、私はそんな彼に優しくしたいと思ってしまうのだ。
「うー……また断られた、さすがの私でも立ち直れないかも……」
「……まだ結婚できる歳ではないので、先程はああ言いましたが、」
「えっ」
「まさか……自分から言っておいて、無かったことにするつもりですか?」
七回目、彼にちなんだ数字だから、とくだらないことを考えていると、とんでもない台詞が飛んできた。
それは、つまり……先程のごく軽い感じで言い放った私のプロポーズ紛いの言葉を受け取るということなのだろうか。
「ま、待って!状況が把握出来てない……!!それに七海、今まで散々、」
「それは貴女が時と場所を選ばないからでしょう!呪霊と戦闘中だったり、授業中であったり、先輩達の前であったり!」
「じ、じゃあ!今は私のこと眼中にあるってことですか!?」
「……言い方は微妙ですが、まあ、そういうことです」
今まで袖にされていたのは、単なる照れ隠しだったらしい。普段は泰然としている彼の語気が荒い。照れ隠しにしては随分と冷たい態度だった気がするけれど。
私の想いが彼に通じたという揺るぎない事実だけがそこにはある。胸の中に風船があるとするならば、それは嬉しさによって、苦しいほどにまで膨らんでいた。
「やっとまともなシチュエーションだからと、貴女からの告白を期待している自分がいるのが情けない。それに、まさか男女交際を飛ばして結婚しよう、などと言われるとは思いもしませんでした」
あの七海が期待していたことに、可愛いところがあるじゃないかと、口元が緩んでしまった。
最後の台詞には、返す言葉もございません、と視線を下げるしかなかったが。
「まあ、女性にばかり言わせていた私も悪いのでしょうが……命がいつなくなるとも分からない、こんな世界です。だからこそ慎重になってしまいました」
「こんな世界だからこそ、めいっぱい伝えなきゃでしょ?」
気持ちは痛いほどにわかる。術師は誰もが明日を保障されているわけではないから。残されている時間が長いのか短いのか、一度きりの人生、心から思い慕う人と共に歩んで行きたい。
彼の青みがかった緑の瞳が、真っ直ぐに私を見ている。
「貴女のことが好きです。私とお付き合いしていただけますか?」
「はい……!私も七海のことが大好きです」
ヤケを起こして結果オーライだなんて、幸運を味方に出来たことが誇らしかった。
彼が毎朝コーヒーを淹れてくれて、私を優しくまなざしてくれる。昨日の夢がいつか正夢になるのが、とても楽しみで仕方ない。