思いもよらないことはどうにも出来ないからそう言うのであって、私が後悔するのはお門違いなんじゃないかと思う。思うのに、思考が散らばったまま、私は今日も過去の思い出たちを夢見ては、心を置き去りにしている。
戻れたらどんなに良いだろうか、と月並みな台詞を繰り返すことになろうとは、本当に思いもしなかった。
朝帰り、というものを初めてした日の改札口はどことなく、いけないことをした悪い子だと、私を責めているような風情を漂わせていた。それもこれも、昨日のひだまりのような幸福な時間との落差がそう感じさせるのかもしれない。罰が当たったんだろうか。呪術師として中途半端な覚悟を携え、己の幸せばかりを望んだから。どうして私は、彼の燻る火種にも、苦々しい思いにも気付けなかったのだろう。小さな綻びを繕って閉じなかったのだろう。大きくなった綻びは、もう元には戻せない。
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久しぶりにお互いの休みが合ったため、当然のようにデートの約束をして、昨日は結んだその約束を互いに紐解き、アルバムにでも仕舞うように大切に紡ぎ直しては、また新たに結んでいた筈だった。
宵闇の中、彼の手が優しい温度と速度でもって、私の体のおうとつを丹念に撫ぜていく。ひとつひとつを指先に、手のひらに刻み付けていくみたいに。
いつもと何が違うのかと問われれば明確には答えられないのに、その日は何かが違うのだと心が訴えていた。
「矛盾だらけの思いを抱え続けるのは、もう無理なんだ」
めいっぱい互いを感じ合ったあとは、体をぴたりと合わせ、眠くなるまで色々な話をする。自然な流れで放られたその台詞によって、彼と交わった熱が、波が引いていくように、さあと瞬時に冷えていく。
厚い胸板に寄せた頭を持ち上げ、彼の顔を見ると、今までに見たことのない表情をしていた。眉を下げ、眉間にくしゃりと皺を作り、感情の奔流が雪崩を起こすのをすんでのところで抑えている。まるで、下唇を噛んで泣くのを我慢しているみたいなその表情。それには心当たりがあった。思い通りにいかない結果に、実力が伴っていないのだと突き付けられるとき、私がよくそうしていたからだ。
彼の心情全てを分かろうなんて、傲慢なことは思わない。ただ、今の今まで抱え続けていたであろうその思いが、彼にとっても私にとっても、辛く悲しいものなのだということだけは分かった。
「私は、理不尽が跋扈するこの世界を、変えたいと思ってる」
「何をどう変えるっていうの……?」
「術師だけの世界にする」
そのとき、奔流が渦巻いているのを私は確かに見たのだ。心が訴えていた違和感が何なのか明確になる。
彼と共にあった私の心、私の心と共にあった彼の心。その彼の心がもう、随分と遠くに行ってしまっていて、目をよく凝らしても見えることはなかった。寂しいなどという言葉が当てはまらない程の、冷たく暗い距離に侵されている。
「そんなの、っ」
「非術師は人間にあらず」
「!!」
「ここでお別れだ」
出来るわけがない、と続けようとした私の言葉を分かっていたかのように、彼は己の唇で私の唇を塞いだ。私の口から、否定の言葉を聞きたくなかったのかもしれない。
浅くも深くもない口付けの余韻を残して離れた吐息は、とうに冷え切っている。
私の言葉は彼が望んでいたものではなかった。どうして、と問えば良かったのか。それとも、素敵な考えだと、咄嗟の賛同でも差し出せば良かったのか。否、どちらにしろ彼はこうなることを予期していた筈だ。
「袂を分かつことが何を意味するか、分からない訳じゃないだろう?」
「いや……いやだよ……! 傑くん……!! 私馬鹿だからわからな、」
「ナマエ、ナマエ聞いてくれ。最後にちゃんと言わせてほしい」
「聞かない……! なんでいきなり、そんなこと、いうの……⁉」
起こした体は何も身にまとっていないから、代わりに先程二人で掛けていたシーツを胸元まで手繰り寄せた。いやいやと、聞き分けのない子供のように首を振る私に、いつもと変わらない調子で彼が諭してくる。
「や、めて、」
「ナマエ」
「おねが、い……いか、ないで」
これ以上彼の言葉を聞いては駄目だと、頭の中で警鐘が鳴っている。それでも彼は、大きなその手で私の両頬をやんわりと包み込んだ。
殊更、もの柔らかな声音が耳朶を打つ。
「私を愛してくれて、ありがとう」
優しい手のひらが私の涙で濡れていく。額と額を合わせて、私の目を覗き込んでくるのも、そのあと鼻と鼻が微かに触れて嬉しそうに笑うのも、いつもと何ら変わりないのに。「ありがとう」が「さようなら」にしか聞こえないのはどうしてなの。
愛しいぬくもりが離れていのを止めたくて、追い縋るように伸ばした手は彼に触れることが出来たのかどうか、定かではない。
首の後ろに少しの衝撃のあと、次に目が覚めたとき、私はたったひとりっきりでベッドに横たわっていたのだから。
彼の残り香だけが、残された私に寄り添ってくれていたのだった。
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まだ実感が湧かない。このまま高専に行けばいつも通り彼が、おはよう、と言って出迎えてくれるのではないか。悪夢を見ていただけなのではないか、と悪足掻きのような事を考える。どうかその事実を否定してほしかった。
たった一夜過ぎ去っただけなのに、見上げた空の青さからは夏が消え去ったみたいに寒々しささえ感じて、ぽっかりと心に穴の空いた私の目には大層沁みた。
高専への道程を歩きながら、徐々に昨日のことが現実味を帯びてくる。
彼のいない日々の生き方など私は知らない。それでも立って歩まなければならないことも、重々承知してもいる。
幸せに浸された――私の誕生日に贈ってくれたワンピースの裾が、いかないで、いかないで、どうかお願いだから、とあなたの面影を探すみたいに悲しげに翻る。
下を向いている暇も術師には不要なものだ。けれど、私を確かに支えてくれていた彼という一柱の喪失はあまりにもダメージが大きかった。
任務の最中に携帯が壊れた私は、たまたま補助監督無しで一人で任務に当たっていたため、高専と連絡を取る術がなかった。
別段急ぐ必要性を感じなかったのは、次の日傑くんと合流するから、その時に携帯を借りて連絡を取ればいいや、と思っていたからだ。
携帯を借りようと思っても、「私から高専に連絡を入れておくよ」と上手くかわされたことを思えば、二人で一緒にいることを知られるわけにはいかなかったのだろう。
帰寮してすぐ手早くシャワーを浴びて着替えを済ませた。
視界の端にチラついたゴミ箱に、くしゃくしゃに丸めたワンピースを叩きつけようとして、振りかぶったまま腕が静止する。
これはただの布切れだ。重さなんて無いに等しいはずなのに、どうしても目の前のゴミ箱に入れるのを躊躇ってしまう。感情に任せることも出来ないほど、私の心はズタズタに引き裂かれているのに、彼との別離に対してどこか冷静でもあった。冷静でいようと努めていないと、膝からくずおれてしまいそうだったから。
緩慢な動作で腕を下ろした私は、くしゃくしゃのワンピースを胸元できつく抱き締める。
『傑くん、これって……』
『ああ、この間出掛けたとき、君お店の前で見てただろう?』
『え、や、その、』
『私は一つたりとて、君のことを見逃したくはないんだよ』
どうして、捨てることが出来ようか。このワンピースだけじゃない、彼が私にくれた思い出も、言葉も声も、仕草も、ぬくもりも、優しさもすべてすべて、私を形作ってきた一部なのだ。離反したからと言って、すべてを手放さねばならないのだろうか。もし手放せたとしても、私の心が元に戻ることはないのに。
もう、笑顔が見られない、抱き締めてもらえない、大好きな人と会うことはかなわない。重苦しい現実が私の心を押し潰そうとしていた。
その時、コンコン、と寮の扉をノックする音が聞こえた。この気配は、悟くんと硝子ちゃんだ。
「……ナマエ、」
扉を開けると、心配そうな顔をした二人が私を窺うように見ていたから、きっと彼のことを言いに来たのかもしれないと容易に推測できた。それか、私を夜蛾先生の元へ連れて行くためかもしれない。
二人から複雑な感情がひしひしと伝わってくる。それら――心配と気遣いを私に気取られぬよう隠そうともしないところを見ると、彼らも相当動揺しているようだ。それはそうだろう。私とて例外ではない。
気遣いはいらないし、されたところでいたたまれないだけだ。
落ち着き払った声音で言ったつもりが、震えてしまっていた。
「私知ってるよ……」
二人の目が驚愕と憐憫さに見開かれる。
「もしかして傑と会ったのか!?」
「だって、昨日普通に、デートしてた、から……」
件の任務から4日後が、私とのデートの日だった。彼は非術師に絶望したその心のままで、私にさよならを言いに来たのだ。
何も知らないではしゃいでいた私はただの馬鹿としか言いようがない。崩壊の足音を聴き逃して、捩じ切れようとしていた彼の心の哀哭をも見逃した。隣にいたのに、誰よりも近い位置にいたのに。
言葉に出したことで、私の心はいよいよ押し潰されて、一度は堰き止めていた筈の涙が瞬時に目尻から大粒となって、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。
傑くん、こうして置いていかれてしまうなら、ちゃんと私も伝えれば良かった。愛していると、私を愛してくれてありがとう、と。
私のちっぽけな抵抗であなたの覚悟が揺らぐことはなかったのにね。それくらいで揺らいでしまう覚悟なら、大義ならあなたは言葉にすら出さなかったでしょう。
いつも寧静でいて、対局を見極めながら行動できる人。
穏やかな木々のささめきみたいな声。
その声を、友達としてではなく、恋人の距離で聞いてみたいとずっと思っていた。
いたずらに首筋に赤い痣を残しては、悟くんと硝子ちゃんにからかわれたことも覚えている。
図書館で勉強したこと。
海を見たことのない私を連れていってくれたこと。
焼き芋をしたこと。
彼のポケットでかじかんだ私の手をあたためてくれたこと。
移ろいゆく四季をあなたと感じられたこと、私は一生忘れない。そんなに簡単に消し去ってしまえるほど、私は図太くないから。繋いで紡いだ思い出はまさに掌中の珠だ。
袂を分かつことの意味を、まだ私は自分の中に受け入れたくはない。私が嫌がっても周りの反応が徐々にそれを落とし込んでくるだろうけれど。
あなたの息の根を止めるのはきっと、私じゃなくて、でも、私の息の根を止めるとしたら、それは傑くん、あなただけ。
泣きじゃくる私を、硝子ちゃんはこれ以上ないというくらい強く抱き締めてくれて、悟くんは乱暴さと優しさの入り交じる力加減で、頭を撫でてくれた。
あなたの存在を奥底に残したまま、私は何度だってこの先昨日に還り、昨日を夢見て生きて行くのだ。