五条がナマエを連れてきたときの衝撃と言ったらなかった。乙骨には及ばないが、彼女もなかなかのもので、その目は一切の光を吸収して、全てを侵食してゆくような暗闇を宿していた。かと言って、つっけんどんなわけでもなく、こちらから話しかければ値踏みするような視線を向けてきたこともあったが、きちんと反応を示してくれる。
 ひと月も経てば、彼女の瞳からは絶望の色が消え失せ、時折艶の混じる濡れ羽色に変化していた。向日葵のように天真爛漫な笑みを向けられて、狗巻たちはすっかり安心したのだ。

・・・

 シンとした森林のさなかを歩いている。そう錯覚でもしてしまいそうな早朝の廊下に降り積もる静寂を踏みしめつつ、寮の共有スペースへ向かうと、そこには先客がいた。共用のキッチンでこちらの気配に気付く様子もなく、一心不乱に何かを作っている、毎日見ているその背中に、抜き足差し足で忍び寄る。
「すじこ」
「ぎゃ! と、とげくん……?」
 手元から意識を掬いとるべく、肩口でぼそりと呟けば、目に見えて彼女の華奢な肩が驚いた猫よろしく跳ね上がる。尻尾が生えていたならば、毛が逆立ってふっくら太くなっていることだろう。
 もう、驚かさないでよ、と非難めいた口調とはうらはらに、小さな蕾が芽吹いたような控えめな笑みが口元を彩っていく。
 自分でも思う、幼い気の引き方だと。それを彼女は、なんなく懐へ引き入れてしまうのだ。
 相手を呪ってしまわないよう封じたあらゆる言の葉たちは、胸の奥のずっと深くに閉じ込めてある。けれど、いつかは太陽のもとに姿を表せる日がくることを諦めきれないでさざめいてもいる。
 それは、彼女がいつも当たり前のように「棘くん、教えてもらったこと出来るようになったよ」と嬉しそうに笑顔で報告に来てくれるからだ。その他にも、彼女は自分に起こったことや、感じたことを何だって伝えてくれる。それに対して狗巻もいつものようにおにぎりの具で返している。だけれど、おにぎりの具に思いを込めてはいても、時折言葉を交わせないことがもどかしい。だから、制限付きの会話だけでは足りなくて、彼女の感情の発露からその心を知りたいが故に、今のように多少の悪戯を仕掛けてみたくなるのだ。
「ああ、今ねおにぎり作ってたの!」
「おかか……?」
「爆弾おにぎり! ツナマヨと高菜と明太子が入ってる!」
「しゃけしゃけ」
 出会った頃の、底なし沼のような暗闇が懐かしくなるほど、彼女は喜怒哀楽を素直に表現出来るようになった。
 ラップに包まれた大きくて形が歪なおにぎりを嬉しそうに掲げながら、得意気にしているその表情は幼さを感じさせる。彼女はあまり手先が器用ではないから、自分なりに一生懸命作ったこのおにぎりのことが誇らしいのだろう。
「昨日、同じ任務だったでしょ?反省点とか書き出してたら棘くんのこと思い出してさ。おにぎり食べたくなっちゃった」

 いくら心の準備を――強化ガラスを一枚隔てているようなイメージを構築していたとて、矢のようにストレートなその物言いの前では飴細工も同然だった。
 同い年だけれど、無垢に笑う彼女を見ていると、その形の良い丸い頭に触れてみたくなる。真希やパンダは彼女が成功体験を積み重ねる度、くしゃくしゃになるまで頭を撫でくりまわしているが、狗巻にとってはそう易々と触れられるものではなかった。
 花束のように束ねた純真さを抱きかかえている彼女から、名前を呼ばれることがたまらなく嬉しいと思うようになったのはいつからだったろうか。
「棘くんも食べる?」
「おかか、ツナマヨ」
 目の前にずいと差し出されたおにぎりを持っている彼女の手を軽く押し戻す。お腹が減っているのだから、自分で全部食べな、という意味を込めて。特にしょげるでもなく、彼女はそっか!とすぐに手を引っこめた。無理強いは良くないと思ったのかもしれない。
「もう朝ご飯食べちゃった?」
「しゃけ」
「じゃあ、私食べてから部屋戻るね、」
「……」
「……え⁉ 棘くんいいよそんな! 私ひとりで食べられるから!」
 無言で椅子へ腰掛けた狗巻を見て、彼女が慌てて駆け寄ってくる。早起きは三文の徳だ。せっかく彼女と過ごせる機会をみすみす逃しはしない。いつもなら誰かしら周りにいるため、二人でいられるのは狗巻にとっては僥倖とも言えた。
 申し訳なさそうに眉も目じりも垂れ下がっている彼女に、狗巻は向かいの席を指さしてテーブルをトントンと指で叩いて着席を促す。それから、狗巻も彼女同様、少し眉を下げてみせたのだ。自分と一緒は嫌だろうか?と。

「そ、れは、ずるいよ棘くん……! 嫌なわけないじゃんか!」

 思惑通りに伝わった狗巻の思いに、彼女は即座に椅子へと腰を下ろして、ジト目を寄越しながらおにぎりを頬張っている。今度はおにぎりを指さしながら首を軽く傾ければ、美味しいよ、とつい今しがたのジト目が瞬時に消えて、清らかな笑顔が向けられた。
 彼女は狗巻の機微を読み取るのが上手かったから、こうして少しの仕草で会話が成り立つところも、彼にとってはふかふかのクッションにでも身を沈めているように居心地が良かったのだ。だがそれも、彼女の次の一言と行動によって、居心地の良さを取り上げられる羽目になる。
「あ、棘くん、まつ毛になにか付いてる……動かないで」
 じっと見詰めてくるからなんだろうと思えば、おにぎりを頬張る動作を止めて手元に置くと、彼女は椅子から腰を浮かせた。おもむろに自分の方へと身を乗り出してきた彼女に、狗巻は内心ぎくりとしてしまう。
 濡れ羽色の瞳が、狗巻のまつ毛に付着している何かを捕捉するように僅かに見開かれる。それを見届けてから狗巻はそっと瞼を下ろすと、懸命に意識を外野へ追い出そうと躍起になっていた。彼女の細い息遣いが生々しく鼓膜を撫で上げてくる。体感時間が恐ろしく長い。そうして、左目のまつ毛に彼女の指が触れると、ごく優しい手つきで滑っていった。
「はい! 取れたよ。棘くんのまつ毛はちゃんと機能果たしてるね! 私短いから何かがくっつくとか無いなあ……」

 ゆるりと瞼を上げると、いつもよりだいぶ近距離に彼女の顔があった。それにしても本当に長いね!と、まじまじと観察に勤しんでいる彼女は、瞳も頬も唇もどこもかしこも瑞々しさで溢れている。
 この距離で顔を背けるでもなく、熟れた苺のように頬を赤らめるでもなく、純粋な興味を一心に注がれて狗巻は思わず半眼になってしまった。こちらばかり、心臓が刻む拍動を狂わされている。とち狂った電波時計さながらに。男としても複雑極まりない心境だ。
 すでに手に入れている信頼では、もう、足りない。
 血色の良い薄く色付いた花弁のような唇の端、彼女の努力の一部は、その努力を台無しにする風情で間抜けさをいざなっている。狗巻はそこへふいと手を伸ばすと目当てのものをつまんで、彼女によく見えるよう少し顔を離した。

「……ご飯粒だ……」
「しゃけ」
「あ!と、棘くん……!?」
「すじこ」
「すじこじゃなーい!!」
 何かを言われる前に、ティッシュか何かで拭われてしまう前にと、狗巻は人差し指に付いているご飯粒を、口元を覆っている服をずらして自らの口に含んだのだった。ようやっと彼女の顔や首までもが健康的な肌色を脱して熟れ始めていく。
 はくはくと呼吸が途端に下手くそになった彼女は、どうしていいのか分からないという表情で、狗巻に視線を向けていた。けれど、これくらいでは彼女はきっと、狗巻の気持ちには気付かないだろう。
 仇を討つためだけに、たったひとりで費やした心はまだ本来の彼女の形を取り戻せてはいない。今は呪術高専で、狗巻たちと切磋琢磨し合う中、呪術に関してはもちろんだが、人として当たり前に持つべき感情も学んでいる最中なのだ。
 好き、に種類があることを彼女に教えるその役目は自分がいい。少しずつ、少しずつこの思いを伝えていこう。初手は成功と言える。互いのことでまだまだ知らないことがあるのだから、最善を求めるのはいささか急すぎるだろう。ならば次善の策を練らなければ。
「すじこ」
「……⁉」
 照れ顔が見られて得をした、という意をおにぎりの具に込めれば、それを感じ取ったのだろう彼女は困惑と羞恥の混じった何とも言えない顔をした。
 彼女が狗巻の気持ちを完全に理解したとき、一体どんな感情を発現させるのだろうか。そして、その感情の発露は、心の中にじんわりとあたたかな陽だまりを生み出すものであってほしいし、舌の上に乗せたら氷砂糖のようにゆっくり溶けていく、甘やかなものであってほしいと願っている。