一生のうちでこの身に降りかかる幸運と不運の比率はどれくらいなんだろう。
幸運の比率が高いに越したことはないけれど、10:0はあり得ないだろうなとは思う。それでも幸運の比率が不運を少しでも上回っていれば、とか。例えば5:5だったとして、今が不運続きでも最期にはちゃんと帳尻が合うんじゃないか、とか。
「どう、しよう……何か今の状況がやばすぎて現実味がない。わたし生きてる……?」
ここ数日で多発しているひったくり被害に自分が遭うなんて。警告は何度も目にしていたのに。正常性バイアスが働いた結果の無一文、貴重品類は全てバッグの中だ。給料日だったから頑張ったご褒美何にしようかな、などと浮かれていたところを見事に狙われた。警察へ通報しようにも近くに公衆電話は無く、借りようにも店は軒並み閉まっているし、人影も無い。
「近道を使ったのが仇になるとは……とことんついてない」
いつもなら定時に上がっているのだけれど、珍しく発生したイレギュラーな事態への対応とその後の雑務処理に時間を要して残業せざるを得なかった。
思考が停止しているというよりは、思考を停止させていると言った方が正しい。一種の防衛反応だろう。現実逃避と直視の境目で立ち尽くしている。たったひとつの悪意で今までお守りのように大事にしていた、今まで受け取ってきた数々の幸福へ亀裂が入った。命を取られたわけじゃない。けれど生きていくにはお金がかかるから実質命に手を掛けられたようなものかもしれない。心が折れるには十分な破壊力を有している。身分証、再発行しないとな。端末気に入ってたのにもう同じ機種は売ってないだろうな。財布もハンカチもポーチもリップも櫛も全部全部大切な物だった。優しさと善意の外で起こった不幸。本来ならば払わなくてもよかった代償だ。噛み締めた下唇がじくりと痛む。いつの間にか下を向いていた。普段は気にならないスニーカーの汚れがやけに目についた。よれているし、今の自分の状況を表しているみたいだった。
立ちっぱなしでそろそろ足がつらくなってきたため、ゆっくりとその場にしゃがみ込んで腕に顔をうずめる。そうしてやりきれない悲しみが飲み込めるくらいまで小さくなるのを辛抱強く待った。
気持ちが切り替えられそうなところまで来たとき、こちらへ近付いてくる足音を耳が拾った。腕から顔を上げると、
「いた」
「へ……?」
見覚えのある足元が目に入る。わたしが見上げるよりも早く目線を合わせるようにしゃがんでくれたのは、同僚であるカートさんだった。わたしの足元に広がっていた不安や心細さで出来ていた黒々とした水溜まりがさっと引いていく。
「あの、どうして」
「これお前んだろ」
「え! う、うそ……わたしのバッグ……」
「中身揃ってるとは思うけど、念のため確認し」
「ありがとう、ございます……! ほんとに、ほんとにありがとうございます……っ!」
カートさんの言葉を最後まで聞く前に、差し出されたバッグごと彼の手をぎゅっと両手で包み込んだ。僅かに彼の手が驚いたように跳ねた気がする。色んな疑問が瞬時に脳裏を飛び交ったけれど、今は安堵と喜びで胸がいっぱいだった。
「もう戻って来ないかもって、諦めてて」
「……だろうな」
言われた通り中身を確認する。欠けた物はひとつもなく、全てわたしの元へと帰ってきていた。強張っていた体から力が抜けていく。
「何から聞けばいいですか……?」
「お前の端末に掛けたら知らない男が出た」
「はぁ」
「問い詰めたらお前を人質にしてるとか抜かしやがった」
「ほぉ」
「すぐにバレる嘘で揺さぶりを掛けてこようとしたのが腹立ってそいつの場所特定して殴……バッグ取り返してきた」
「へぇ」
「終わり」
「終わり」
簡潔明瞭だけれどだいぶ端折られているのではないか。なんならちょっと事実を捻じ曲げてこちらに伝えているような気さえするけれど、大筋は合っているようなので深くは突っ込まないことにした。
「わたしのいる場所が分かったのはどうしてですか?」
「腹に一発」
「成程!
「ここ来る前に警察寄ってそいつ引き渡してきたから安心していい」
感情を削ぎ落した淡々とした語り口は冷たいとは感じなくて、むしろまだ心が落ちついていないわたしにとっては逆立つ毛を撫でられているみたいにひどく心地がよかった。何かお礼を、と思ったところで大事なことに気付く。
「そうだ、お金! いくらですか? きちんと払わせてください。すみませんでした、時間外労働させてしまって」
給料日だったから手持ちはある。バッグへ手を伸ばすと彼から制止の声が掛かった。
「……連絡したのは一言ちゃんと謝りたかったからだ。俺がヘマしたせいで、お前が残業する羽目になっただろ。それこそ時間外労働ってやつ。頼まれてやったわけじゃない。俺が勝手にやったことだ。だから金は要らない」
金さえ払えば何だってやる。言葉の通りカートさんとマックスさんは、私情を介在させずどんな仕事だってやってのけてきた。徹底したビジネスライク。それなのに。やっぱりだ、先日事のあらましを聞いたミルキーサブウェイ暴走事件から無事に帰還してからというもの、二人の雰囲気は今までと明らかに違っていた。その日、その場限りで成り立つ短い契約関係は刹那的ですらある。会社でも事務的なやり取り以外でプライベートなことはほとんど話したことがない。彼らは興味を持たれることも望んでおらず、相手に関心を示すことも無かった。急激に軟化した態度に戸惑いがないわけではないけれど。
「わたし、今の会社に就職できて良かったです。前職は人間関係に恵まれなくて……カートさん、わたしの大切なものを取り戻してくださってありがとうございました」
「いや、別に……」
目が合ったのは一瞬だけだった。うろうろと居心地悪そうに目が泳いでいる。上下左右に忙しなく動く目。カートさんてこんな顔もするんだ、とほうけていたら不意に視線が定まった。
「口……まさかやられたのか?」
彼の手が下唇に触れる寸前で止まる。どうやら傷になっているらしい。
「あ、ち、違います! これはその、自分の運の無さに打ちひしがれて思わず噛んでしまったといいますか……」
「何言ってんだ。あるだろ、運。こうやってちゃんと戻ってきたんだから」
彼の目がまっすぐにわたしを射抜く。彼に自覚はないのだろう。それともこちらが素なのだろうか。他意の無い、励ましにも似た肯定は優しさと言っていい。
「ふふ、そうですね」
堪えきれなくて笑えば、今度は先程よりも勢いよく目を逸らされてしまった。
流星のように降りそそいだたったひとつの幸運が悪意をしりぞけてくれたこと。この日の記憶がこの先もきっと、わたしの心を守ってくれると信じている。