※高専非常勤講師パロ



 精一杯の恋心と、少しの虚勢と嫉妬が混じったチョコレートはやはり美味しくないのだろう。鼻が利いたのか、勘で分かったのか。彼によって粉々にされてしまったチョコレートは見るも無惨な姿をしている。けれど、それを溶かして二度目の――自分好みの形と甘さを与えるのもまた彼なのだから、私の頭は随分と侵されているようだ。

 一年のうちで最もチョコレートが香り輝く日。形も味も包装もすべてが可愛いを纏ったチョコレートたちがそれぞれの想いを乗せて、贈り主へと渡りゆく。時にはぶつかり合いながら、甘くて熾烈な火花を散らすのだ。
 そんなバレンタインデーの今日現在、目の前で女の子たちがバチバチに火花を散らしている真っ最中である。正面切って言うのではなく視線や態度、言葉でそれとなく牽制し合っている。渦中の人物は何処吹く風といった様子で、面倒そうにしていた。
 最初のうちは、彼にしてはまあ割と丁寧に接していた方だが、人数が増えていくと付け焼き刃の優しさは剥がれ落ちる。彼女らの牽制に気付かないほど鈍いわけではないだろうに、仲裁のようなことをするのさえ面倒なのか、鎮火するまで高みの見物ときた。
 彼らから距離をとって、私はふう、と肺の中に溜まっていた息をすべて吐き出した。胸の中でわだかまる苦しさは依然取れないまま。
 生徒から教師へのチョコレートと、同じ教師である私から彼へと渡すチョコレート。"贈る"という行為に変わりはないのに、ハードルの高さが違う気がしてならない。授業でお世話になっているから、強さに憧れているから、純粋に好きだから。彼女たちは様々な理由を武器にするし、そして自分が一番可愛く見える方法も知っている。対して私はと言えば、ぶっちゃけてしまうとそんなに接点はないのだ。だから、義理だと言って渡すのも無理がある。可愛く着飾るのにも慣れていない。生徒たちの次は女性補助監督の皆さんだろうか。高専所属の医師となってから日も浅いため、今は家入さんの元で日々学んでいる。現を抜かしている場合ではないのだと自分に言い聞かせていたものの、手にはなぜか手作りのチョコレートが握られていた。
「あほらし……」
 赤いリボンで彩られた、手のひらよりも少し大きめの四角の缶。白衣だと見えてしまうため、それを恋心もろとも、洋服のポケットに入れた。備品のチェックをしてから帰ろう。そう思い、その場を離れるため歩きだそうとして、くん、と何かに引っかかったような感覚を覚えて後ろを振り返る。
「せっかく待っててやったのに、そりゃあないんじゃねえか?」 
 女性たちが目をとろんとさせて、ほう、と溜息をつくだけのことはあるその顔が目前に迫っていた。透明人間かと思うくらいに彼は存在感を消してしまえる。生徒らの取り巻きからどうやって抜け出てきたのか、はたまたチョコを適当に受け取り解散させたのか、勝手に憶測を始めた脳に彼が終わりをくだすように腕を引き、手近な空き教室へと連れ込まれた。
「ちょ、っと! いきなりなんですか!」
「どうして逃げた?」
 私の思考をくぐって答えを見つけるようにスっと細められた視線が、心臓に突き立てられる。罠にかかってしまった小動物の気分だ。
 あの距離で私の存在を認識していたのだとしても彼ほどの人ならばなんら不思議ではなかったし、何事もなく立ち去れるなんて考えを持っていた私が甘かっただけのことだ。
 第一印象は最悪だった。備品庫で補助監督の人と真っ最中のところに出くわしたのだ。腰をさすられたみたいにぞわぞわとする疳高い声と、粘着質な音に私はたまらず耳を塞いで退散した。
 以来、何かと絡んでくるわけだが果たしてこれを接点と呼んでもいいのかどうか。
 恋に落ちる、というよりは、心に蒔かれていた種が何かしらのきっかけで芽吹いた、と言った方がしっくりくるかもしれない。
 観察眼が優れていて、洞察力に長けている彼の口から出てくる無意識の言葉は媚びも悪意も含まない。たまに、意地悪なことを言ってくるが、それは故意である。だから、仕事の出来なさに落ち込んでいた時に掛けられた褒め言葉が心の底から嬉しくて、知らず蒔かれていた私の種は呆気なく芽吹いた。今はどれくらい育っているだろう。第一印象を覆すくらいには、私は彼という人物を知ることができた。
 悪くいえば女性にだらしない、よく言えば優しい。ただし面倒だと思った場合は即切り捨てる非情さもある。
 こうしてちょっかいを掛けてくるのには何かしら理由が伴うわけだが、一体どんな心持ちで毎回近付いてくるのか。思わせぶりな言動にはもう慣れたからいちいち反応することもないけれど、この状況はいただけない。
「……ここ、じゃねえな。どこに隠したんだよ」
「セクハラ反対!!」
 背中にがっしりとした逞しい腕が回され、逃げることは困難だったが、何とかしようと試みる。恐らく私がさっき隠し持っていたチョコレートを探しているのだろう。白衣のポケットをまさぐっている。私は気を取られている彼の足を思い切り踏み付けた。
 わずかに拘束が緩んだため、回されていた腕を解くと、じっと彼から見詰められる。
「……俺宛じゃないってか」
「……自意識過剰ですね。そもそも私はチョコレートなんて持ってないんですが」
「誰がチョコレートだ、つったよ?」
「⁉ カマかけるの卑怯!」
「引っかかるオマエが悪い」
 ぎゃんぎゃんと抗議の声を上げると、指で耳を塞ぐ仕草をしてみせる。私が黙ったのを確認してから、彼は自らのズボンのポケットに手を入れると、赤やピンクがふんだんにあしらわれて好意が滲み出ている小箱を取り出した。先程の生徒たちから受け取ったものの一つだろうか。少々雑に包装を破ると、箱の蓋を開けて中のトリュフを一粒摘む。まさか。
「今は甘ぇのが食べたい気分なんでな」
「……っ、」
「なんだよ?」
「その、甘いのは苦手だと、前に仰っていたので……」
 見せ付けるように大きく口を開けた彼の赤い舌がテラテラと光る様がなんだか艶かしい。その舌の上にトリュフが乗せられる。
 出張でお土産を買ってきた時も、家で作りすぎたからとお菓子を差し入れたときも、彼は一言「甘ぇのは好きじゃねぇ」と受け取らなかった癖に。だから甘さをギリギリまで控えたものを作ってきたのに。私からの甘い物は食べないけれど、他の女の子たちから贈られた、見るからに甘そうなミルク色のそれなら食べるのか。
 みっともない、あほらしい、情けない。年下の女の子たちに、年甲斐もなく、勇気が出なくて中々認められない自分が。
 どのタイミンで渡そうか、と笑みすら浮かべていたのに今の心境はどんよりとした曇り空である。水分を貯めに貯めた心の内側は濁っている。少しでも力を抜いてしまったら彼の前で失態を演じるのは目に見えていた。
「俺は、どうでもいい女に構ってられるほど、暇じゃねぇんだ」
「……あ……え?」
「もう一度だけ聞く」
 嫉妬にまみれて隠した本心を探し当てるような鋭い視線が向けられた。チャンスをやる、とでも言われているみたいなその台詞には、紛れもなく私への好意が滲んでいたから、口から間抜けな声が出る。
 定規で引いた、直線の上を歩いているような人生だった。最初から何もかも決められていたし、特に疑問にも思わなかった。私の関心はすべて呪術に対して注がれていたから。
 直線が乱れて直線でなくなったのか、直線の横に別の線が出来て、その先に彼がいるのかは分からない。ただ、分かるのは。
「誰宛だ?」
「……あなた宛で、本命、です……」
「堅物で有名なオマエに惚れられるとはな」
「どの口が……、っ⁉」
「この口」
 瞬間、視界に黒が広がって、甘いミルクチョコレートが舌の上に乗る。彼の舌が私の舌に擦り付けられて離れていった。先程彼の赤い舌に乗っていたのと同じ味。
「たまには踏み外せよ、つまんねぇだろ。俺が受け止めてやる」
 堅物だと、嬉しくない評価のくだる私のレッテルを剥がしてくれる物言いに思わず瞬きをした。引き上がった口角は不遜極まりなくて、自信に満ち溢れていて。不躾に触れてくる手のひらは女癖が悪くて。
 からかいに来た時に言っていた、私があの場に鉢合わせた日以来、女性とは関係を持っていない、と。きっと冗談だろうと受け流していたけれど、本当なのかもしれない。そう信じてみたくなる程には、私は頭だけでなく、爪先まで、すみずみ彼に侵されているに違いなかった。
「今日の夜、空けとけよ」
 鼓膜に溶けて残る彼の囁きには、どんなチョコレートだって、敵いはしないのだ。