艶やかな黒髪が風になびいて、絹糸がさらりと空を流れる。まるで陽光を纏っているみたいだと思った。一切の穢れを知らない純白を体現したような微笑みに、胸の奥がズクン、と軋み粘着質で破壊的な感情がせりあがってきたのを感じる。
 ああ、この手で穢してやりたい。純白を余すことなく塗り潰してしまいたい。自分の全てを使ってこの輝きに翳りを与えたい。そして。
「そないなとこで何してるん?」
「え、と」
「ええ趣味しとるね」
「ち、違います……! だって直哉さんが、」
「俺が、何?」
 木の影に隠れていた彼女を見つけて声をかけると、びくりとしたのが気配で伝わってくる。
 おずおずと姿を現し「何でもありません」と俯きながら消えそぼる声で述べる彼女に気付かれないよう、直哉は恍惚とした笑みを浮かべた。けれどそうだな。俯いたら見えない、彼女が今どんな悲愴な表情をしているのか。どこぞの名家の、微塵も興味のないお嬢様とやらに、つい今しがたまで触れていた手で彼女の顎を掬い上げる。自分以外の女に触れていたこの手で宥められる気分はどうだろう。気位が高い訳では無いから噛み付きはしないけれど、我慢のさせすぎも良くはないから上手いこと収めなければ。
 彼女には理解できまい。常に強さを求められ、比べられ、少しの弱さも許されない世界のことなど。悪意のあの字も知らない澄み切った笑顔を見れば、周りから花と愛でられ、傷一つなく守られてきたのだとひと目でわかる。
「ああ、そう言えば一緒に出掛ける約束しとったの忘れてたわ。堪忍な」
「いえ……」
「俺かて楽しみにしとったんやで?」
 泣く寸前――うっすらと目の表面が潤って目尻に水溜まりが出来つつある。楽しみにしていたのに何故忘れるのか、と口には出さず、目で語りかけてくる彼女に直哉はいつもの台詞を口にした。
「大事なお得意様やから無碍にもできひんし……君なら分かってくれるやろ?」
 あくまでも相手から迫られたのだと、そしてその相手は禪院家にとっては利益をもたらす存在であるのだと言えば、これを上回る文句など出て来ようはずもない。
 婚約者以外の女に触れていたことを無理やりに正当化してしまえば、彼女は上唇と下唇をきゅっと合わせて震える声で「はい」と返事をした。
「あ、そうそう。さっきの子"秋の調"弾けるんやって」
「……それは、凄いですね」
「君よりも一年あとに始めたらしいで。覚えがええんやろなあ」
 習い事である筝の話を前回会った時にしていた。難易度が高く、なかなか上手く弾けないのだと。自分よりもあとから始めた、それも婚約者にちょっかいを掛けている女の方が上手いとなれば――そしてそれを他の誰でもない直哉の口から聞かせられて、彼女の心の内では嫉妬の炎がごうごうと音を立てているに違いない。
 わざと他の女と会っているところを見せ、今にも奪われるのではという緊迫感を煽り、比較して劣等感を植え付ける。こういったことをしたのは一度や二度ではなかった。
 好いた男からの裏切りに近いような行為さえ、恋に盲目な今の状態では許すも何も無いだろう。誤解のないよう言っておくと、直哉も彼女のことをきちんと愛している。まっさらで穢れを知らない温室育ちの彼女と、絵に描いたような優勝劣敗の世界で生きている自分。夫となる直哉のことをもっと理解してもらうために、少しずつ同じ気持ちを味わってもらわねば。禪院家に入るからには今から教育しておくのがいいだろう。というのは建前でもあって、ただただ自分の挙動で彼女の感情が乱れる様がたまらなく愉悦をそそるというのもあった。
 もっともっと溺れて、俺以外見えなくなればいい。直哉に嫌われまいと努力をする姿はどこか滑稽だが愛おしくもある。甘やかされて育ってきた割には、意外にも彼女自身は自立しているため、依存される心配は今のところなかった。あまり依存されても鬱陶しいだけだ。それに、男の立て方は母親にしっかりと仕込まれているはずだからこちらから言わずともいい。ああ、でも。自分がいないと何も出来ない彼女を見てみたい気持ちもある。だが、それは置いておこう。あとの楽しみに取っておく。
「俺は君が一生懸命頑張ってるとこ好きやで」
「あ、ありがとうございます直哉さん……! 私頑張ります!」
「ええ子。今日は君にうんと似合う着物と簪買いに行こな?」
 直哉がそう言えば、彼女の表情が華やいで安堵と嬉しさが滲んだ。そして頬に透明な二つの線が出来る。まばたきした際に先程の水溜まりが流れ落ちたようだ。心を刃物で切り裂かれたような顔をしていたのに、少し宥めただけで傷口はあっという間に縫われてくっついてしまったらしい。包帯を幾重にも巻いて隠してはいるけれど、傷跡は残っている。その傷跡が増える度に愛おしさも増していくのだ。うっすらと紅のさした唇に吸い寄せられるようにして、己の唇を合わせる。
 いくら清らかで眩しい優しさだろうと、直哉はそんなもの望まない。互いに理解も出来ない気持ちの押し付け合いなど無意味であり、直哉にとってそれはただの虚蝉でしかなかった。
 純白が濁りつつある。そうして輝度も失われていく。そして、いつになるだろうか。
「楽しみやね」
 彼女が直哉の歪みに染まる日は。自分でも屈折しているとは思うが、こんな世界にいて純粋でいるなど不可能だし、捻くれなければやっていけないというものだった。
 光の部分ではなく、影の部分で繋がっていたい。
さぁ次は、どんな傷を付けてあげよう。考えるだけで心は踊るようだった。
 少し力を入れてしまえば折れそうな手を取り、次の演出を考えながら直哉は彼女に笑顔を向けた。