負い目というのは場地にとって、シミのようなものだった。真っ白なティーシャツについたシミ。それが大きくても小さくても、そこにあるだけで心が竦んでしまう理由になる。
不良に対してはなんともないのに、彼女の前になるとどうしてか本来の自分でいることを躊躇ってしまう。
純粋で無垢なその様にいつだって心を焦がしては、つき続けている嘘を自覚して、上辺だけを固めた今の自分にどうしようもない憤りを感じることもあった。
他校にいる彼女には、自分の口から告げない限りは、とどこかで安心しきっていた。だから、無茶苦茶な理由をつけて絡んできた奴らをのしたあと顔を上げた先、驚いて言葉を失っている彼女を見つけた瞬間、心臓が軋んで取り込むはずだった酸素が逃げていった。
ありとあらゆる最悪が脳内を巡り巡って、目眩を起こしそうだ。
どう取り繕えばこの状況を打破出来るのか。握りしめた拳には暴力の残滓がべったりと付着している。急いで制服のズボンで力任せに拭っても赤は消えない。
喧嘩を売られたという理由はあれど、人を躊躇いなく思い切り殴ったことも、本当の場地はガリ勉でも何でもないのだという事実も、きっと鮮烈に記憶されてしまっているはずだ。
こんな形でだけはバレたくなかった。
正解を追い求めるあまり何も言えずに立ち尽くしている場地の元へ、彼女が一歩踏み出した。それに気圧されるように場地は一歩後ずさる。近づいた距離がまた元に戻る。
「知ってたよ、わたし。だから怖がらないで」
「いつ、から」
「場地くんが七歩、わたしの方へ歩いてきてくれたら教える」
歩道橋の階段を踏み外した彼女を助けたのが、たまたま後ろにいたガリ勉姿の自分だった。どうしてもお礼をしたい、しないと気が済まないからと言われ、一度は断ったけれども押しに負けた場地は、彼女と再会の約束をした。
千冬にだけ相談したら、「デートじゃないっすか!」とふざけたことを抜かしたから軽く殴った。次の日には、性懲りも無く恋愛のいろはが書いてある本を持ってきたから、今度は少し力を入れてまた殴った。
とりあえず熟読はしたが、彼女と会った当日結局それらは何の役にも立たなかった。緊張もあったがボロを出さないよう気を張っていたため、場地は自分から話し出すことが出来なかったからだ。
気まずい沈黙がたびたび流れても彼女は全く気にする素振りも見せず、自分の通う学校のこと――進学校だから朝から晩まで缶詰状態であること、休日は勉強の合間になんとか時間を見つけて趣味を楽しんだり、何もしたくないときはひたすら家でごろごろしていることも話してくれた。
「初めて人に話したなあ。わたしが部屋でだらっとしてるって、お母さんたちも知らないの……わたしの部屋引き戸なんだけどね、内側から突っ張り棒で鍵かけられるんだ。いきなり部屋に入って来ないようにしてる。見つかったら『なんで勉強してないの!』 って絶対怒られるから」
笑顔で内情をあっけらかんと話してくれたが、窮屈な日々にいだいている不満は隠せていない。場地だったらおそらく早々に逃げ出しているだろう。
そして場地のことについても色々と訊ねてくれたから、たどたどしくとも会話を繋げることが出来た。それらには、嘘が織り込まれていたけれど。
帰る時分にはすっかり彼女の飾らない明るい人柄に魅了され、好きになってしまっていた。恋愛には興味ないと豪語しておきながらこれだ。それから数回、彼女の塾が無い日は一緒に帰った。
「もう、いいだろ。これ以上は近づけねぇ」
「あとはわたしがそっちに行くよ」
大きく一歩を踏み出した彼女は、その後も一歩一歩と踏み出し、綱渡りでもするみたいにして場地の前へとやってきた。
「場地くんがわたしを助けてくれた日、あったでしょ? あの日約束できて安心しちゃったのか、場地くんの連絡先聞くの忘れてて、すぐ引き返したの。それで、喧嘩してるあなたを見た」
「……怖くなかったのかよ?」
「怖かったよ、すごく。でもそれであなたを避けたり、嫌いになるなんてこと絶対にない」
強く言い切った彼女の言葉が胸を打つ。予想していたよりも、随分と早くに気付いていたらしかった。
何を言えばいいか考えていると彼女の後方、場地から見て前方から、道幅の狭い住宅街を猛スピードで走ってくるバイクの姿を認める。
嫌な予感がした。
ずっとほどくことができずにいた拳は彼女に迫る危機へ瞬時に反応を示す。
「あっ、ぶねぇな……! 大丈夫か⁉︎」
「う、うん。場地くんのおかげでなんとか」
道の端にいたけれど、それでも場地が彼女を引き寄せ、体ごと下げさせていなければ確実にぶつかっていた。
スレスレの距離まで接近してきたバイクの男は自分らを目がけ、腕を振りかぶったのだ。通過したバイクと運転手の特徴を記憶する。見つけたらただじゃおかない。
先ほどのした奴らはすでに逃亡しているから、バイクの男は連絡を受けた仲間だろう。一刻も早くこの場を離れるべきだ。
状況が状況だったため、抱き込む形になってしまった。急いで離れようとすると、彼女が場地の胸元のシャツを掴んで離さない。
「また、助けてもらっちゃった。ありがとう」
「助けるのは当たり前だろ」
「……普段すごく頑張ってわたしと話してくれてたんだね。口調が全然ちがうもん。もう、無理しなくていいよ。わたしはどっちの場地くんも好きだから」
ガリ勉姿の自分と不良の自分。その頑なだった枠が彼女によって滲んで溶けて、ようやく合わさる。「痛くない?」と気遣いながら、彼女が場地の手に触れる。
「おい! 汚れんぞ」
「平気。出来ればこのまま手を繋いで帰りたいな。あ、でも嫌なら今すぐほどいてね」
「……ほどくわけねぇだろ」
彼女の細い五指が場地の指の間にするりと絡む。
平気なわけが、この状況が怖くないわけがなかった。あのバイクがまた戻ってくる可能性も捨てきれない。巻き込んでたまるか、と場地は少し震えている彼女の手をしっかりと握り直して立ち上がる。
自分の気持ちを伝えるのは彼女の安全を確保してからだ。向こうから先に告白されるとは男として情けないと思う。
千冬に言ったらどんな反応をするだろうか。アイツのことだ、笑うよりは真剣な顔をしながら躍起になって慰めてきそうでもある。余計に情けなくなりそうだ。いっそ笑い飛ばしてもらった方がいいのだが。
マイキーあたりにでも言ってみるかと考えたが、手を叩くか腹をかかえて指をさしながら、これでもかというほど笑ってきそうなのでやっぱりやめた。
繋がれた手から全身に熱が広がっていく。いよいよ首の後ろが変な汗をかき始めた。
負い目が完全に消えたわけじゃない。過去に犯した過ちも打ち明けるべきなのだろう。その時彼女はどんな顔をするだろうか。もし別れたいと言われたら、自分は彼女のためにきちんと手放してあげられるだろうか。
「場地くん、今度一緒にネコカフェ行かない? 新しくオープンするんだって」
「ネコがすげーたくさんいるとこか⁉︎」
いつだって守られてあやされているのは場地の方だった。
騙すようなことをしてごめん。怖い思いをさせてごめん。『好き』を言う前にちゃんと謝りたい。
幸せな未来と結末を願ってもいいのなら、自分の嘘を咎めることなく許してくれた彼女が、ずっと傍で笑っていてくれますように。
消えないシミごと全部受け止めて、また同じように手を繋いでくれますように。
これから束ねていくであろう約束と思い出を、ずっと忘れないでいてくれますように。