「よぉ、婆さん今日も元気だな」
「ん」
 喉に圧をかける、とでも言えば良いのだろうか。私に対して掛けられた挨拶に、普段の声よりも大分低めに応じて、ひらがな一文字で返事をした。けれど、常連客の一人である彼ことドラケン君は特に気にとめた様子はない。髪を三つ編みで纏め上げていて、頭の横に龍が鎮座している彼は確か有名な不良らしい。らしい、というのは祖母から聞きかじったからだ。
 緊急の代打で任された仕事は、祖父母が昔から大切に続けてきた昔ながらの銭湯の番頭だった。祖父はもう他界しており、祖母と他の従業員の人たちのおかげで今日も元気に営業出来ている。
 今回、祖母が腰を痛めたことにより、急遽私が呼び出しを受けた。腰の具合を見るに、一ヶ月は絶対安静なのだそうだ。慌てて駆け付けた私に祖母は自分の真似をしろ、と言い放った。髪型に服装やメイク、座っている時の姿勢等――まずは形から、と豪語する彼女に逆らうと怖いので素直に従った結果、パッと見は祖母、会話をすれば即バレてしまうという、ハリボテの祖母が出来上がった。
 祖母と体格が似ているからつとまるような物だ。少し喉の調子が悪いという名目でマスクをつければ顔の大半は隠れてしまうため、メイクの意味はあまり無いのでは、と思ったが黙っておいた。
 定休日と出産前後を除いて一日も休まず続けてきた番頭の仕事に穴を空けられない、そして常連客から変に心配されたくないのだろう、この仕事に誇りを持っている祖母らしいプライドにより、私はこうして番台に座っている。
「婆ちゃん」
 次に声を掛けて来たのは、もう一人の常連客であるマイキーと呼ばれている少年だった。最近はもう一人――タケミッちと呼ばれていた気がする――も加わって、賑やかさが増した。それは良いのだが、このマイキー君とやらは、私のハリボテ祖母に違和感を覚えているのか、あの無気力そうな瞳からは想像出来ない盛夏の日差しのような、じりじりとした視線を送ってくることがある。そういう時は無言で追い払う仕草をしている。これはよく祖母も絡まれたくないときにしているから、たぶん大丈夫だろう。
 渋々といった様子でドラケン君から引き摺られていくのを視界の端に収めながら胸を撫で下ろした。
 あと数日で終わるこの番頭の仕事は、なかなかに楽しかった。代打とはいえ、とても良い経験をさせてもらったと思っている。誰にもバレることなく遂行しなければ、後で祖母から何を言われるか分からないため、気は抜けないが。
 番台は高い位置にあり、男湯女湯のどちらも見下ろすことが出来るのだが、まあ言ってしまえばもろもろ見えてしまう。できる限り見ないよう、けれど番頭の仕事として視界の端には入れておかなくてはならないのが結構キツかったりする。
 特にマイキー君御一行のような中高生の男の子は特に。やましい気持ちは全くないが、やはり気まずいのだ。祖母がいつもサングラスを掛けているスタイルで良かった、と思わずにはいられなかった。
 お客さんの出入りを見ながら、祖母がぼやいていたのを思い出す。今は均質かつ綺麗に整備された温泉が増えたから、客足が昔に比べて遠のいたのだと。某温泉施設には、銭湯に無いものが色々とある。広い休憩室、ずらりと並んだマッサージ機、沢山の漫画や本、雑誌。温泉だけじゃなく、岩盤浴や砂蒸し風呂に入れるところだってある。顧客の満足度を満たすために、あらゆるサービスを提供する施設が魅力的なのは自明だ。
 それでも昔ながらの、お客さんと距離が近くて、知り合いのような親しみさえ感じさせてくれる、そして人との繋がりの温かさに触れることの出来る銭湯も、とても魅力的だと思うのだ。
 そう、改めて銭湯の魅力を反芻していたのだが、目の前で腰にタオルを巻きながら腰に手をあて、風呂上がりの一杯を飲んでいるマイキー君にかなり困惑していた。
 私の方をじっと見ている。さっき雑な扱いをしてしまったことを根に持っているのだろうか。
 湿気た空気が漂う中、彼の視線はふやけて硬度を失うことなく、真っ直ぐに私を射抜いていた。
 何か言いたいことがあるなら伝えてもらいたいが、いかんせん会話が出来ないし、何よりも早く服を着てほしい。正直、中学生にしては鍛えられた上半身だなと思う。
 そんな私の思いが通じたのか、マイキー君はフルーツ牛乳を飲み終わると着替えを始めた。
 毎回彼がここに来る度、バレるのではないかと心臓が冷や冷やして落ち着かない。何事もなく帰ってくれますように、と祈るしかなかった。
 着替えを終えた順にまずはドラケン君、次にタケミッち君が番台の横を通過して出て行く。最後にマイキー君が番台の横まできた。そのまま通り過ぎるかと思いきや立ち止まったために、私も正面を向いたまま思わず固まる。
「いつまでここいんの?」
「……(え? 嘘バレてる⁉︎)」
 期間限定で番頭をしていることを知っている筈はないが、核心をついた口振りに動揺を隠せない。畳み掛けるように彼の唇がまた動く。
「あ、おっきい虫いる」
「やだ……! どこ⁉︎」
「うそ」
「……」
 問いかけの真意を吟味する間もないままに、私は自分の正体に関して彼に確信を与えてしまった。語尾にハートが付いているのがはっきりと見える。引き攣った表情のまま、マイキー君に視線を向けると尚も笑顔だった。
 見事に彼の術中に陥った私は、内心で歯噛みする。完遂の道は絶たれ、祖母からの叱責が飛んでくる未来が目の前に広がる。彼以外のお客さんが脱衣所に居なかったことだけが救いだ。
「なんで分かったの?」
「んー、背格好とかは似てたけど首とか手とか、肌が見えてる部分が違ったから」
「……よく見てるね」
「そりゃあ、気になる人のことは見ちゃうでしょ」
「ん?」
「たぶん、オレ、あんたのこと好き」
 してやったり、な笑顔から一転して真面目な表情になったマイキー君に圧倒される。自分なりに祖母っぽさを出すために頑張っていたつもりが正体がバレていた上、敗因を聞いたのに告白まがいのことまでされて絶句してしまう。
 間髪入れない彼は私に確かめる猶予をくれない。そもそもだ。私はマイキー君とここ以外で会った記憶がなかった。会話もほぼ交わしていないに等しい。どこに私のことを好きになる要素があったのか甚だ疑問である。直近で心当たりを探すも該当する記憶に覚えはない。うーん、と呻く私を見た彼は首を傾げながら問うてくる。
「覚えてない? 夜中ここの前でお腹すいてうずくまってたオレに食いもんくれたの」
「そんなことあったっけ……?」
 直近でないとすれば祖母が怪我をする前だろう。このハリボテを見抜いたのは今のところ彼一人であるし、いくら私のことを好いてくれているにしても他の人より観察眼が抜きんでているのはわかる。
 母から頼まれて祖母の様子見に行くこともあったが、元々祖父母のことは大好きであるため、時間が空けば足を運んでいた。
「オレの顔、けっこう血がついてたと思うんだよね。すごい慌てて拭いてくれてさ……あとからヒリヒリしたけど」
 頭の中のどこかが情報を得て微かに反応する。
 営業がとっくに終了したこの銭湯の前をアルバイト帰りに通りがかった際、げっそりした顔の男の子を見つけ、世話を焼いたことを思い出した。
「あの時の男の子、君だったの⁉︎」
「まあ何回かあんたのこと見掛けたんだけどね。変装してないときに」
「変装って言うのやめて……」
 怪我をしているのかと思ったが、今思えばきっと返り血かなにかだったのだろう。たまに聞こえる会話から推測するに、マイキー君も不良であるようだし。実力の程は未知数だ。
 持っていたウェットティッシュで顔を拭くと、そこにはつるりとした肌があるだけで傷跡らしきものはなかった。
 か細い声で「お腹すいた……」と言われれば放っておくことはできない。アルバイト先の馬の合わない社員のせいでストレスが溜まっていた私は、コンビニで爆買いしていた。
 食べ物以外も入っていたような気がするが、その場で仕分けるのが面倒でそのまま渡したはずだ。
「気付いたらあんたのこと考えててさ、また会えたとき嬉しかったんだよね。下手くそな変装してたけど」
「だからもう抉らないで……」
 両耳を塞いでこれ以上は聞きたくない、と拒否の姿勢を見せれば彼は真面目な表情を崩して、ふはっと淡く笑う。思っていたよりもころころ変わる彼の表情に、一瞬見入ってしまった。
 サングラスで視界が暗い。あの時も夜中で暗かった。マイキー君が右手でちょいちょい、という仕草をしたため少し身を乗り出せば、伸びてきた手がサングラスに掛かって目の前が明るくなる。
「見上げるのも悪くないけど……やっぱ正面からちゃんと顔が見たい」
「見ても面白くないです」
「ねえオレの裸、どうだった?」
「誤解を招きそうな言い方しないの……!」
 番頭の仕事として、問題が起きないよう、もし起きたら迅速に対処するために目を光らせているに過ぎない。人を視界に入れない方が難しいのだ。それを分かった上で、彼は悪戯と本気を調合した問いを投げかけてくるから困る。
 一直線すぎる好意にたじたじなのは認める。けれど私は微塵も彼に対してそういう感情は抱いていない。たった今、恋愛対象として認識されていると知ったばかりだ。
 中学生の男の子。頬についた返り血と小さな傷一つなかった姿、底知れぬ迫力のある視線、正体を見破った観察眼を思えば、彼はおそらくドラケン君よりも強いのではないかと感じた。
 そんな人が私のことを好きだと言う。たったこれだけのことで意識してしまうには十分なのだから、恋や愛の始まりとは鳥のさえずりみたいにささやかだ。それがきちんと実って花開くかは別として。
「悪いけど、簡単に諦めるつもりないから」
 手のひらにサングラスを返され、そのまま手を握られる。僅かに湿った熱さが手の甲に感じられて、自分の手のひらも呼応するように湿り出した。
 不覚にも年下の男の子にときめいてしまったのは秘密だ。
 銭湯の玄関先に植えられている、夜に花開く夜顔のことが唐突に頭に浮かぶ。彼と初めて出会った日、確かそれが咲いていた。
「思い出してよ、あんたがオレにくれた言葉」
「……早く帰っていっぱい寝て、とか?」
「逆」
「逆?」
「『ここ銭湯なんだけどね。私のおばあちゃんがやってるの。定休日は毎週月曜日、それ以外は十二時から二十二時まで開いてる。疲れた時は温泉に浸かるのがいちばん! 怪我の治りもよくなるし、またおいでよ』」
「記憶力いいね」
 一言一句間違いなく覚えている、と鼻を鳴らす彼に乾いた笑いが出た。
 私からすれば、ただの営業トークとお世辞に過ぎなかったはずだが、どうやら快く受け取ってもらえたらしい。確かに逆かもしれない。彼の来訪を歓迎する言葉だったから。
「どう見ても血がついてるヤツなんて怪しいでしょ」
「自分で言っちゃうんだ」
「なんで怪我の治りが早くなるって言ったの?」
 現在の自分ではなく、その当時の自分に聞いてほしい。頬についた返り血を見て、湯治を連想したのかもしれなかった。
「たぶんだけど、人を殴ったら拳が痛いからかな……」
「オレ、足技メインなんだよね」
「じゃあ足に蓄積してるダメージを癒してもらうということで」
 冗談半分で答えるとマイキー君は目を見開いたのち、どことなく不機嫌そうな顔をする。
「あんたさ、知り合いに不良でもいるの?」
「え、目の前にいるけど……」
 いつもは近寄り難い雰囲気でも出しているのだろうか。私の態度が、マイキーくんたち以外に親しくしている不良がいるのでは、と疑ってしまうくらいには砕けていて驚いたのだろう。
 すっかり常連となった彼らのことを番台からここ一ヶ月の間は見ていたのだ。そして私自身が割と順応性が高めである。
「とりあえずは『知り合い』から友達にならねぇと。というわけで」
「なに」
「よろしくナマエサン」
「なんで名前知ってるの⁉︎ というかいきなり名前呼びはダメです」
「オレは佐野万次郎。万次郎って呼んでいいよ」
「人の話聞かないタイプ?」
 自分のことを知ってほしいが、知ってほしくない。揺れる気持ちが透けて見えるような気がする。
 有名な不良ということしか私は知らない。彼自身がどんな人物で、どんな戦い方をして、どれだけ強くて畏れられているのかを知っていたら、冗談も言えなかったかもしれない。
 先入観がなかったから私はマイキー君を恐れなかったし、彼に悲しい思いをさせることもなかった。
「オレのこと知ってたら、こんなふうに話できなかったかもな……」
 知れば知るほど、私が離れていくかもしれないという一抹の寂しさを乗せた笑みに何も言えなくなる。
 他のお客さんに顔を見られたら危ない、と握られたままの手からサングラスを取ってかけたとき。
「おい! マイキー何してんだ! 待たせすぎだぞ。集会遅れちま、う……」
「ん? そうだった、ごめんケンチン今行く」
 律儀に外で待機していたドラケン君の苛立たしげな声がのれんをくぐってやってきた。そしてマイキー君に握られている私の手を見たドラケン君の表情が凍り付く。それはもう見事なほどに。
 絶対にあらぬ誤解を与えている。弁解した方が良いに決まっているが、これ以上他の人に正体をバラすわけにはいかない。失態を広げたくない。ダラダラと冷や汗をかく私をよそにマイキー君だけが楽しそうにしている。
「じゃあ、またね『婆ちゃん』」
「‼︎」
 とてつもなく何か言いたげなドラケン君と、秘密がバレずに済んでことなきを得た私だけが置き去りだ。
 次に会うのはここか、それとも。きっとなにか仕掛けてくるに違いない。かわいい悪戯、かわいい我儘と思える範囲で済めばいいけれど。
 人の話を聞かないとわかったばかりだ。諦めないと宣言されたからには、私もそれなりの覚悟を持った方がいいだろう。