優しさには気を付けなさい、それは母親の口癖だった。
 存分に受け取って良いものと、上手くかわすもの。何度か人に裏切られた経験のある母は、ナマエに辛い思いをさせたくなかったのだろう、小学校にあがる少し前から、毎日の絵本の読み聞かせに加えて、よく言い聞かせられた。
 子供社会を渡り歩いてきた高校生の今は、その意味が何となく分かるようになった。子供同士の裏切りも大人同士の裏切りも、誰かに傷を負わせ悲しませる部分は同じだ。どっちが酷いかなど瑣末事だった。
 変に冷めてしまったこの性格で別段困ったことはない。けれど今は。好きな人がいる今は、この性格が少しだけ難儀だと感じている。
「生理で動けないって、言わなかったっけ……?」
「知ってるよ」
「ゲームならあるけど、する?」
 しない、と返事をして、同級生である半間はナマエが愛用している人をダメにする大きなクッションへ、その大きな体をダイブさせた。クッションが半間の体に添うように形を変える。沈み具合が自分とはまるで違った。
 当たり前だが、体格も体重も男である半間の方が遥かに上だ。それは今、ナマエが寝ているベッドの上でも思い知らされている。
 滅多に登校してこない半間と、明確な名称を持たない関係になったのはいつからだっただろうか。『会える?』『会えない』一見そっけなく見える文面は、仲睦まじいから簡素になるものではなくて、互いが必要な時のみやり取りするというドライな関係だからだった。
 なんとなく寂しいとき、人肌に包まれたいとき、ひどくしてほしいとき。ひどく、と言うと何だか語弊があるが、上手い表現が見つからない。消えない傷と痕を付けてほしい、次に半間に触れてもらえるそのときまで覚えていられるように。
 好きという言葉の熱と、冷めた関係性の温度差にいつだって耐え難くなる。好きなのに、好きと言ったら彼はきっと面倒になって離れていくのではないか、という恐怖が常にあった。
 クッションを堪能したらしい彼はむくりと体を起こした。自分が寝ているベッドへと近付くと、腕をベッドのふちへ乗せてそこに顎を置き、ナマエの顔をじぃっと見詰めてくる。
「なあに」
「ナマエちゃんの顔、こうしてじっくり見たことなかったと思って。やっぱ顔色悪ぃね」
 気まぐれに戯れてくるのは本当にずるい。やる事をやったらさっさと退散する彼のその言葉は正しかった。行為中だとて見詰めあう時間は少ない。
 煙草は壁に臭いがつくため、この部屋で吸ったことはなかった。いつもなら「会えない」と返事をすれば絶対来ないのに、今日はどうしたというのだろう。このままキスしてくれないかな、と生理痛に顔を顰めながら心の中でねだっているとお腹に重みを感じた。
「いたいのいたいの飛んで行けー」
「……」
「なんちって」
「すごい、痛いのマシになった」
「マジか」
 数時間前に飲んだ痛み止めの薬は効きにくいのもあるだろうが、好きな人の手の方が何倍も効果がある気がした。掛け布団の中に入れられた半間の手がお腹を撫でていることに、嬉しさよりも動揺の方が大きい自分がいて感情が迷子になる。
 普段優しくない人が優しさを見せると、ついつい疑いを抱きがちだ。これはナマエの悪癖だった。
 母親からの教えもあり、ありのままを受け取れば良いものを、無意識に選別して大部分の優しさを見逃してしまうのだから、結構もったいないことをしていると思う。だが、長い時間をかけて形成された思考の癖を直すのはなかなかに骨が折れる。
 ふとナマエは、未だに半間の口からある言葉が発せられていないことに気付いた。それはナマエにとっては悪癖が先行するのを阻止するものとして、十分な効力を秘めていた。
「どした?」
「ダリィ、って言わないんだとおも、って」
 ナマエの言葉に、半間は自分でも驚いたように目を瞬く。大抵は彼の都合でナマエのところにくるけれど、自身の欲求を満たせなかった場合は、口癖である「ダリィ」をこぼすはずなのに。
 面倒くさければ即座に口をついて出る。出ないということは、半間にとって現状はそうではない、ということ。彼が口癖をこぼさなかった理由に表裏がないことに思い至って、乱高下した感情が唐突に溢れてしまった。
 気まぐれを起こしてナマエの傍に寄り添い、あまつさえ体を気遣う素振りを見せた。見返りなど必要としない、いたって単純な優しさを逃すことなく、ナマエは大切に受け取った。半間自身はこれが『優しさ』に該当するとは思っていないだろうけれど。
「……なんで泣いてんの」
「今日の半間くん、優しいから」
「嬉し涙ってやつ? いいねえ、たまにはそういうの」
「一体何人の女の子を悲しませてきたんだか……」
「知りてぇの?」
「暇で仕方ないとき聞いてあげてもいいよ」
 生理中の情緒不安定さも相まっていつもより感傷的になっている気がする。それでも。
 ねえ、お母さん。この人の優しさには何の裏もないから今だけは信じてもいいよね。いつか傷つく日がくるとしても、薄っぺらい利害の外で利用されることがあろうとも、彼を好きになれて一度でも心から信じられたことを後悔する日はやって来ないと思うから。
 この関係性に少しでもぬくもりが宿ればいい。煙草のように消費されて消える、期限付きのぬくもりであろうとも。
 半間がナマエに飽きるのが先か、好きだと伝え面倒くさがられて終わるか。はたまた、その期限を延長してくれるのか。
 繊細さなんてかなぐり捨てたい。いちいち動揺しないよう、ぜひとも胆力を練りたいものだ。
 余談だが、半間の形を覚えたクッションを自分の形で上塗りしてしまうのがもったいなくて、しばらくナマエはクッションにダイブ出来なかった。