「鈍くせぇな、こんだけ狙われてたら少しは警戒心ってもんが芽生えんだろ」
 最初は子守りでもさせられている気分だった。死ぬほど億劫で今すぐにでも放り出して、誰よりも大切にしている自らの王の元へ馳せ参じたかった。けれどその死ぬほど億劫な――『コイツの護衛を頼む』――という命令をくだしたのは紛れもなく王である佐野万次郎その人であったから従うしかなかった。
 万次郎の幼馴染である彼女は、彼の弱点として機能すると敵から認識されているため、こうして度々命を狙われる。抗争中の今は特に。他にも問題事が山積しているが、三途に課せられている『彼女を護る』という命令は最優先事項だった。
 じろり、と責めるように睨めつければ、今しがた本日二回目の命の危機に晒された彼女は見るからに萎縮して、三途を自身の視界から追い出すように下を向く。視線が合わさった時間は、およそ二秒にも満たない。
「ご、ごめんなさい……一応催涙スプレーは持ってるんですけど」
「遠距離に対してリーチもねぇ近接でどうこうできるわけねぇだろ! しかもスプレーって舐めてんのか!」
「ひいい!」
「ひいい! じゃねぇ! オマエに何かあったらオレの首が飛ぶんだよ!」
 どこか抜けている。というよりも危機意識があまりにも低すぎて話にならない。だから万次郎は三途を護衛として宛がったのだろうか。まあ考えようによっては、この女の護衛を頼まれた自分は、十分信頼されていると言える。
 梵天の首領としてその実力を遺憾なく発揮している万次郎の唯一の弱点。王に弱みなど必要ないし、付け入る隙さえ与えたくもない。
 だから、こちら側の世界に縁もゆかりも無い、ぽわぽわとして能天気そうな彼女に対して良い印象など、爪の先ほどもなかった。というのに、いつの間にか彼女に危機が迫ると大変に癪であるが、体が反射的に動くようになってしまっていた。
 万次郎はなぜ彼女に執着するのか。恋人関係であったという話は聞いたことがない。
 互いのために命を懸け、まばゆい友情と泥臭さに塗れた青い春を駆け抜けた大切な仲間――東京卍會創設メンバーでさえ、非情に切り捨ててしまえる側面を持つ彼が、なぜ。
「はぁ〜、オレがいなかったらオマエ何回殺されてんだろうな?」
「……すみません、いつも護っていただいて」
「マイキーの命令だ」
 腑に落ちないことを彼女にぶつけて、自分が納得できる答えが返ってくるとは思えない。だが試してみてもいいかもしれない。万次郎本人には流石に聞くことが出来ないからだ。体に穴が大量に開く可能性が極めて高い。腕組みをしながら首を捻っていると、察したらしい彼女が口を開いた。
「万次郎は『私が最後の砦だ』って言ってました」
 彼と彼女が最後に会ったのはいつだったろうか。二、三言話して終わりだったと記憶している。会話とも言えないような言葉を交わして。
 いつもはへらりと力の抜けている顔に力が入り、そこだけ空気が歪んだ気がした。見る間に悲しさが沸き立っていく。次々と零れる涙を拭うこともせず、ただただ立ち尽くしていた。握り締めた拳に悲しさが募っていて、少し震えている肩がやけに弱々しいと思った。
 万次郎、と悲哀の滲んだ声に彼は一瞬だけ動きを止め、そして振り返ることなく車に乗り込んだ。そのドアを閉めたのは三途だった。表情を滅多に変えない万次郎の眉間には、彼女の感情に感化されたかのように、寂寥を帯びたシワが深く刻まれていた。
 彼女の言った『最後の砦』とは。まだ中学生の頃、彼が彼女といるときによく見せていた柔らかな笑顔に、その理由が見え隠れしている気がする。
「たまに、電話するんです。ほとんど無言だけど……でも、私と喋っていると足元がよく見えるんだ、って」
 どこにいるのか、何をしているのか、沈んだ意識を浮上させてくれるただ一人の存在。兄も妹も、幼馴染の場地もいなくなって残ったのは彼女だけだった。
 こうして護衛をするのは面倒だが、嫌じゃないのは確かだ。命令で彼女の人となりを知ることになったとはいえ、嫌いなヤツを毎回危険を冒しながら助けられるか、と言えば三途はそこまで器用ではない。
 嫌いなヤツのせいで死ぬくらいなら、万次郎に殺された方が絶対にいい。
「……尚更じゃねぇか。今度いいもん持ってきてやるよ」
 自分の価値をまるで分かっていない、きょとんとしている彼女の額を弾いてやりたい。その命を雑に扱うのなら、三途がとことん罵倒して自覚させるだけだ。優しい言葉でもって諭すような事は出来ないし、面と向かってそういう小っ恥ずかしい台詞を吐くのも気が引けた。
 だがもし、それを伝えたとして、そうしたら彼女は万次郎に向けるような満面の笑みの端くれを、三途にも向けてくれるのだろうか。怯えるか、落ち込むか、泣きそうになるか。そろそろ三途の存在にも慣れて来た頃だろうに。視線が合うことの少ない彼女を見る度、心臓が変にざわついて拍動が一定を刻めないのは、なんなのだろう。
 オレが欲しいのは謝罪なんかじゃない。

 護衛をする、と言っても限度というものがある。二十四時間一緒にいられるわけではないから、百パーセントその身を傷一つなく守りきるのは不可能に近い。先日『良いもの』と称したそれを彼女の目の前にずい、と差し出せば、表情がにわかに暗くなった。
「防弾チョッキ。服の下にこれ着てろ」
「……うっ、重い」
「自分で着れねぇならひん剥くぞ。ついでにちゃんと防弾するか試してみるか?」
「え、遠慮しておきます……!」
 三途がすかさず銃を構えると、血相を変えて防弾チョッキを身に付けた彼女の顔が面白くて、喉の奥で笑いを噛み殺した。
 抗争が沈静化すれば、ここまでの防備も要らなくなるだろうし、三途もまた彼女護衛の任から解かれるかもしれない。それは願ってもやまないことのはずだった。そして清々する、とさえ思っていなくてはおかしなはずだった。
 怯えながらも彼女は三途のことをちゃんと見ているのだと気付いてからは、億劫さが少し減った気がする。信念がブレることはなくとも三途も人間だ。
 いつも前を向いている自分の視線が下がり気味なとき、彼女は恐れを捨てて三途の視界に入る。『これ、どうぞ』それでも、声の微量な震えだけは隠しきれていないままに、彼女がよく食べているのど飴をくれるのだ。
「……別に喉、痛くねぇよ」
「……心が痛そうなので」
「頭でも打ったんじゃねえの?」
「三途さんよりは大丈夫」
「あ?」
「じゃないです! 私の頭がおかしいです……!」
 いつかのあの日、もげてしまいそうな勢いで左右に首を振る彼女が見せた気さくさに、三途は面食らった。
 黒い瞳の中で、波のように絶え間なく揺れている怯えと恐怖が自分へと向けられるのも、保身ゆえの条件反射だとばかり思っていた。相手の心の機微に添おうとする優しさに、最初こそ全身が総毛立つような居心地の悪さを感じたけれど、今はもう。
「のど飴ねぇのかよ」
「今日はですねえ、このシリーズにしました! どのお味がいいですか?」
 彼女がくれるものなら何だって良かった。こちらへ向かって大口を広げる袋に手を突っ込むと、適当に一つ握る。
 カロン、とのど飴が口の中で溶けだしていく。殺気や裏切りに満ちたこの世界で生きていれば、容赦なく心は閉じていくし、南京錠でもかけていなければやっていけない。
 彼女自身は分からないのだろうが、たまに見せるその阿呆なところに毒気を抜かれる。牙を抜かれることはないが、彼女といる時間だけは鋭さを研がれて丸くなだらかになっていくようだった。
 万次郎もきっとそうなのかもしれない。彼女への気持ちが染み出していくみたいにして、口内が甘さと清涼感で満たされる。
 自分の中の絶対的な王である万次郎の幼馴染で、その彼が大切に想う人。恋人ではなくて、おそらく家族に近いのだろう。そんな付加価値を持つ彼女の護衛にかこつけて、三途はこのポジションを誰にも譲りたくないなどと思っている。
 これが庇護欲、というものなのだろうか。自分より弱い存在なんて興味がなかった。『はず』という仮定の気持ちを自分の中で肯定してもいいのかさえ分からないし、色々と厄介すぎる。
「つーかオマエ、爪そんな色だったか?」
「え! あ、その! これは……」
「んだよ、言え。言わないと撃つ」
「こ、怖いじゃないですか……! 銃口向けないでくださいよ! 言う! ちゃんと言うから!」
 いつも青系のネイルで飾られている爪の色が、今日はどうしてか違った。意外と肌の色に映えて悪くない、と思っていると、口ごもっていた彼女の口が僅かに開く。
「さんず、さんの色に、してみたんです」
「は?」
「爪ってよく視界に入る、ので、元気をもらいたいときとか、ちょっと寂しいときとか、眺めてて……」
「……頭でも打ったか?」
「気持ち悪いなら気持ち悪いって言ってくださいよ……!」
 およそ信じ難い言葉の羅列が彼女の口から次々と飛び出してくる。
 ぱちくりとゆっくり瞬きをすれば、普段は全く感じることのない、まつ毛が上下で合わさる感触があった。爪を彩っているのはピンク色であり、それは三途の髪色と酷似している。
 三途だけは詳細な事情を把握しているとは言え、恋人関係の真相は当人たちにしかわからない。それ以外の連中からすれば、どこからどう見ても万次郎と相思相愛にしか思えないし、三途も同じように勘ぐったとてなんらおかしくはなかった。
 彼女がもし本当に万次郎のことを男として好いているなら、万次郎に応えない理由はないだろう。形を取りつつある三途の想いが報われることもない。吐露すれば三途に待つのは「死」のみである。
 むしろ違うと否定する方が難しかった。だから、ぬか喜びでないことを確認せねばならない。三途は思わず彼女の手首を掴むと、自身の目の前へと引き寄せる。
「お、まえ、これ……意味わかってんの?」
「万次郎のことはもちろん大切です。でも三途さんのことは違う意味で大切で……私は三途さんのことが」
「いい! 分かったから、それ以上言うな」
 とんだ僥倖だった。そして思い切りがいい。今が気持ちを告げる最良のタイミングだと思ったのだろう。
 弱いくせに、羞恥で今にも弾け飛んでしまいそうなのに、声は普段の何倍も力強かった。女という生き物を侮ってはならない。
 最初こそ、二人の間にある絆に万次郎をとられたような不快感さえ抱いていた。けれど、四季が巡るようにその感情もだんだんと姿形を変化させていった。
 入り込めない、二人にしか共有できないもの。たまらなく苛立ちを覚えたこともある。恐れながらそれは万次郎に対して抱いた『嫉妬』だった。
「オマエ、自分が簡単に触れられるような女じゃねぇの、分かってる?」
「万次郎の幼馴染だから、ですか?」
「分かってて言うところやっぱ普通の女じゃねぇ。常に生殺しってキツすぎ」
 三途の言葉の意味を理解したらしい彼女の紅潮具合がピークを迎えつつある。そのままのぼせてしまいそうだ。
 万次郎に見せる類の笑顔とは別の、むず痒くなるような好意の色を湛えた瞳が向けられている。食んだら柔いであろう彼女の唇の両端が引き上げられる。恐ろしく甘そうなその口許を凝視しながら、この煩悩をどう納めようか三途は思い悩むこととなった。
 彼女を死なせてもダメ、自分の女にするのも今までとこれからの働き、忠誠心両方合わせて足りるかどうかも怪しい。せっかく地獄に降りてきた彼女に見合うだけの時間は、何としてでも捻出したいところだった。
 醜さ溢れるこの世界に射した光芒に手を伸ばしても、バチは当たらないだろうか。
 どっちにしろオレの首飛んじまうかも。あー、今すぐキスしてぇ。