朝が始まる薄いベールのような気配と、意識を優しく揺り起こす光によって、瞼の上に乗っていたまどろみが取り払われていく。三ツ谷は瞼をふるりと震わせ、二度寝に興じようとする意識を手繰り寄せた。
 今日もまた、一日が始まる。
 遠くから微かに三ツ谷の鼓膜を刺激していた音――ギーコギーコ、と自転車が悲鳴を上げている――がだんだんと近づいてきた。
 ほぼ毎日この辺りを通るその自転車も寝起きなのだろうか。そんなことを思ってしまうくらい、調子が悪そうな悲鳴を上げていた。
 決まって毎朝五時頃に、颯爽とは言い難いスピードで自転車に乗った彼女は現れる。たまたま早く目が覚めた日、自転車の悲鳴が気になり窓から外を覗くと、新聞配達をしている彼女を見つけたのだ。
 自分と同い年くらいの女の子。濡れ羽色の髪を耳に掛けていて、あらわになった健康的な色の頬と首筋に、喉がひくりとおののいた。薄ぼんやりとした朝の景色の中で、彼女の肌の輪郭がやけに鮮やかだった。
 女子で新聞配達をしているのは珍しいと思ったから、特に印象深かったのかもしれない。そしてあとは単純も単純で、窓から覗いていた三ツ谷の気配を察したのだろう、こちらを向いた彼女の視線と自分の視線が手を取りあうかのように合わさった瞬間、『この子が欲しい』と思ってしまったのだ。いわゆるこれが一目惚れなのかと、冷静に分析している自分がいた。
 髪と同じ色の瞳が三ツ谷を捉えた時、自分の見た目に対して良くは思わないかもしれない、と予防線を張っていたのに彼女は忌避することなく軽々とそれを突破した。
 『おはようございます』と確かに三ツ谷の耳に聞こえる声量でおずおずと挨拶をしてくれる。三ツ谷も思わず普段は絶対しないような軽い会釈を返した。挨拶の言葉はつっかえて出てこないままに。
 地面を踏みしめるごとに響く彼女の足音に耳を澄ます。昨日は爆睡していたから分からないが、一昨日よりはバタついている足音からして、おそらく寝坊でもしたんだろう。時計を見ればいつもより十五分遅い。
 三ツ谷家は新聞を取っていない。だから彼女が毎朝うち以外のポストを開閉する音を聞くこの数十秒と、彼女の気配をドア越しに感じるこの時間を繰り返すたび、興味もない新聞を読んでみようか、などと考えてしまうのだ。
「(あーあ……今日も声掛けらんなかったな……)」
 きっと彼女はこの部屋に住んでいるのが三ツ谷であることを分かっているはずで、コンビニへ買い物に行くという名目で時間を合わせて外に出れば良いだけだった。
 きっかけや理由は驚くほど簡単に作れてしまえるのに。喧嘩ならこんなに情けなく右往左往することなく、勇ましく突っ込んでいけるのに。
 心臓がやすりで削られるような心地がする。自分がそういう行動を取ったら迷惑だと思われやしないだろうか、と。人を好きになる、というのは幸せなことだけじゃない。
 初めて彼女を見掛けてから二ヶ月が経とうとしている。
 何回バレないよう窓から外をおそるおそる覗き見したかは覚えていなくて、バレた回数は三回だというのはしっかり数えていた。しまった、と思って、彼女からの挨拶にどもっている間、彼女は早々に次の配達へと向かってしまうので、三ツ谷はずっと不完全燃焼を抱えたままだった。
 そして四回目にしてようやく、三ツ谷はあの日つっかえて出てこなかった『おはよう』を言うことが出来たのである。それも妹たちに便乗した形で。
 その日もいつものように自転車の音に合わせて起き、窓に身を寄せていた。すると後ろからダダッと二つの塊が三ツ谷の横を通過していった。身長が足りないから窓には届かないと判断したのだろう、幼く丸っこい塊たちはドアを小さく開けてしたり顔をする。
「たまーに早くおきてなに見てるかと思えば! おはようこざいまーす!」
「おはよーございまーす!」
「オマエら! こら、やめろ!」
「お、おはようございます!」
「……はよ、ございます」
 美人さんだね、覚えた! と意気揚々と三ツ谷に向かって言い放った妹たちに、感謝すべきなのか否か。
 口から出たのは、彼女が乗っている調子の悪い自転車に負けず劣らずのぎこちない挨拶だった。恥ずかしさを通り越して無の境地に達しそうだ。だがそれでも確実に、スタートラインより一歩は進んだのだった。

 ここのところ愛美愛主とのいざこざがあり、疲れ果てて朝早く起きられないという日が続いていた。何がどう変わるというわけでもない。睡眠は大事だ。大事な場面で力を発揮するために。
 ただ、せっかく彼女を見られる機会があるのだから、やはり三ツ谷としては姿を収めたい、という欲があるだけで。彼女を見られた日は心持ち学校へ行く気だるさが半減している。
 今日は早くに目が覚めた。妹たちは爆睡しているから面白がって小突き回されることはない。あどけない表情でたっぷりと睡眠を取っている妹たちの寝顔に、まだしばらく起きないでいてくれ、と願をかけた。
 この時間にしてはあまりにも暗すぎる、そう思い窓へ近寄ると、ちょうど雨粒がガラスをノックしたところだった。
 水滴が細かい水玉模様を描き、その領土を広げていく。これはひと雨くるだろう。彼女は雨具を身に着けているだろうか。瞬時にそんな心配がよぎる。
 カラカラ、と雨があまり入らない程度に窓を開けて、彼女が来るであろう方向へ目を凝らすと、その姿を捉えることができた。捉えたのち三ツ谷は、弾かれたように洗面所へ向かい、戸棚からタオルを手に取る。それから、先日上の妹用にサイズを間違えて買ってしまったキャラ物のレインコートも掴むと、迷いなく外へ出た。
 自転車の悲鳴が雨音を縫うように聞こえてくる。
 ちょっと可愛らしすぎるだろうか、いやでも彼女自身も可愛いから大抵なんでも似合うだろう。つらつらとよく分からないことを考えてしまうのは惚れているからだろうか。幸いまだ雨は本降りではないため、そこまで濡れてはいないだろうと思う。
 アパートから数メートル先、そこには窓から見ていた彼女がいた。何歩か歩いて手を伸ばせばすぐに触れられる距離にいるのが、未だに信じられない。
「あ……」
「これ、良かったら使って」
「でも、あの」
「ちょっと派手かもしんねぇけど、濡れるよりはマシ、だと思うから」
 戸惑いから彼女はなかなか手を伸ばしてこない。そりゃそうか。数回挨拶した程度の、何の関わりも持たない脆い関係性だ。
 いきなりレインコートを差し出されても困るだろう。けれど雨に濡れて彼女が風邪を引いてしまう方が、三ツ谷は嫌だった。例え迷惑がられたとしても。
 待っていられない、と焦れた三ツ谷は妹たちにしてやるように、タオルを彼女の頭に被せた。それから自転車のカゴに入っている新聞を六つ取って、その上にレインコートを置く。さすがに髪を拭いてやる、なんてことはしない。
「あ、あの!」
「新聞入ってんの見た事あるからさ。入れとくよ」
「お気遣いいただいた上に、そこまでしてもらうのは……!」
「いーって、ついでだし。次の配達先行きな」
 窓枠から見ていたときはまるでテレビ画面越しのようだった。
 驚いて戸惑って焦って、表情と感情がドタバタと動き回る。妹たちが家の中で走り回っているのを思い浮かべた。挨拶しか交わしたことのない二人が、確かに挨拶以外の言葉を交わしている。彼女の声を沢山聞けたこと、夢幻ではなくてしっかりと彼女の存在を感じられたことが嬉しかった。
 ほぼ毎朝ポストの開閉音を聞いていれば数は分かる。以前帰りが朝方になったことがあり、彼女が配達を終えてすぐだったのか、八つあるポストのうち、新聞が入っていたのは六つだったのを覚えていた。
 それじゃ、と手をあげて三ツ谷はその場を離れる。雨の日の登校も、湿気で髪がいつも以上に広がりアホ毛が目立つのも死ぬほどダルいのに、今日はそれが全く気にならなかった。

 風がなく、カラリと晴れてやや強めの陽光が降り注いでいる。この前の雨とは打って変わって雲も見当たらない。
 手芸部へ見学に来た女子たちへ軽く指導をするつもりがついつい熱が入ってしまい、帰りが遅くなった。妹たちは腹を空かせているはずだ。
 スーパーの袋には、安売りという名の勝負で勝ち得た野菜たちが誇らしげに入っている。嘆息しつつ空から視線を戻すと、三ツ谷が住んでいるアパート前に彼女が佇んでいた。
「こ、こんにちは! すみません、こんな待ち伏せみたいなことして。お借りした物をお返ししたくて」
 濡れ羽色が夕方の陽の色を受けて茶色に変化している。光が散ってキラキラとした瞳が気恥しげにこちらを窺っていた。
「風邪とか、引かなかった?」
「大丈夫でした。あの後、雨脚が若干強くなったんですけど、レインコートのおかげで最後までちゃんと配達できました。本当にありがとうございました。タオルは洗濯してあります。あとこれも、図書カードなんですけど」
 一度会話したからだろう、どもることなく三ツ谷は、心配していた旨を伝えることが出来た。綺麗に畳まれたレインコートとタオルが入った袋と、シンプルながらもプレゼントだとわかる程度にラッピングされた図書カードを彼女から受け取る。
「お菓子にしようかとも思ったんですが、甘い物が苦手とかアレルギーがあったらいけないと思って、わたしがもらったら嬉しい物にしてしまいました」
「ありがとう。ちょうど欲しい服飾関係の本があったんだ」
 近々買おうと思っていたのは本当だが、妹たちにも聞いてみて、もし欲しい本があるなら今度一緒に買いに行けばいい。
 このお礼は三ツ谷のことだけじゃなく、きっと妹たちのことも考慮してくれたのだろう。顔見知り程度の自分の家族にまで気を遣ってくれるのか。
 この時間がもう終わってしまうのかと思うと、ひどく後ろ髪を引かれる思いだった。何でもいい、何か繋ぐもの。話題を探せども焦っているときほど出てこない。
 ふいに彼女が髪を耳に掛けた。右、左と順番に。ゆるりとしたその動作が妙に色っぽくて、三ツ谷は見惚れてしまった。そして、気付く。彼女の耳朶にある透明なそれに。
「開けたばかりなんです。あなたと共通点作りたくて……ピアスしか思いつかなかったんです。不純な動機、ですよね」
「……じゃあ、オレも十分不純だよ」
 彼女を欲しがった時点で、三ツ谷が起こした行動もそれに付随する想いも、彼女が自身の行動を不純とするなら、自分の行動だとてそこへ帰結する。
 このタオルとレインコートだって、返却は必要ないとあえて言い渋ったのだ。「タオルは元々もらい物だし、それもサイズ間違えて買っちまって、妹たちにはでかいんだ」そう理由を説明すれば彼女は納得したのだろうに、こうしてまた会話できる可能性に賭けてしまった。
 透明な樹脂ピアスが存在を秘匿するように彼女の耳朶と同化している。よくよく見ると、もう一箇所あって三ツ谷はまたしても瞠目した。
「軟骨にも開けたのか?」
「可愛いなと思ったので、ついでに」
「ハハッ! ごめんオレ、アンタのことぜってぇこんなことしない、大人しそうな子だって決め付けてた」
「こんな……まるで自分じゃないみたいな行動するの、三ツ谷さん絡みだけですから!」
 彼女から三ツ谷へと注がれる感情によって、削られた心臓が形を取り戻していく。血がものすごいスピードでめぐり出す。
 一生忘れられない、と思った。普段見ることの出来ない制服姿だけじゃなくて、彼女が言った言葉も見せた表情も全部。記憶に、心臓に、なんなら全身の細胞に刻みつけたい。忘れるなんてもったいないこと、絶対にしない。
 学校帰りの、何とも言えない疲れをひと息で吹き飛ばしてしまう衝撃を、まさか彼女が持ってくるなんて。こうして三ツ谷を待っていたという事実だけでも驚きものだというのに。
 ツヤのある黒髪が、掛けていた耳からサラリとこぼれ落ちて、彼女の大胆さを隠す。
「なあ、いつからオレのこと男として意識してくれてた?」
 もう一度確たる証拠をみたくて、三ツ谷は彼女の髪を再度耳にかけながら、悪戯っぽく囁いた。