「ねぇ君、これ治せる?」
 一切の恐怖が省かれた、凪いだ湖のような女の瞳に映るのは、呆気に取られた竜胆の、少々間抜けな表情だった。
 六本木はもちろん、ここら一帯で灰谷兄弟を知らない不良はいない。それは周知の事実だ。けれど堅気の世界の人間に対しては、自分たちの世界の常識が通用しないのも分かる。それでもその人物独特の雰囲気――それはときに恐怖にもなり得る――というものを、本能が感じ取ることがある筈だ。
 触らぬ神に祟りなし、大体の人間は竜胆や兄の蘭を見れば不良、堅気問わず深く関わらぬよう空気と化し、そそくさとその場を後にする者もいるというのに。下手なごますりは命取りになると知っているからだ。
 深夜の公園にて、竜胆は今しがた自分へ無礼を働いた男に、得意の関節技を決めたところだった。街灯が数本立っているため完全な暗闇にはならない。ちょうどそのうちの一本の近くだったため、それはさながらスポットライトのように竜胆と男を照らし出している。何ともくだらないショーだ。
 一人の女がこちらを窺っているのは知っていた。ただの野次馬にしてはやけに静穏な気配が漂っていたし、竜胆が男の骨を折ったときの音が夜闇に浮かび上がって響いても、視線を動かすことがなかった。
 堅気の人間にしてはあまりにも異質だ。その女のものだろう、コツコツとヒールと地面のぶつかる音がして、それはどこか涼やかささえ感じさせた。そして躊躇いもなく真っ直ぐに向かってくるから、知り合いだろうか、と即座に脳内でアドレス帳を開く。だが、思い当たる節がない。
 熟考する必要性もなさそうだ、と探すのをやめたとき、その女は竜胆の傍へ歩み寄ってきたかと思うと、あろうことか膝を折って目線を合わせてきたため、面食らってしまったのだ。
「肩、脱臼しちゃってね。自分じゃ怖くて出来ないし、痛いし」
「……はァ? いきなりなんなんだよオマエ」
「関節のことを熟知してるっぽい君に、治してもらえたらと思ったんだけど」
 初対面にも関わらず、世間話でもするみたいにして、ごく軽い調子で女は竜胆へ語り掛けてきた。ともすれば旧知の間柄のような口振りと、竜胆の苛立ちを宥めすかして相手の機嫌を底上げするような笑みを携えて。
 見れば、左腕がだらりと垂れ下がっている。痛みを気にしているらしいが、女の表情は至って普通だった。冷や汗ひとつかいた形跡がない。
 竜胆に対して全く恐怖を感じていない女は、やはり堅気ではない気がした。では『こちら側』なのか? それもなんだか微妙に当てはまらない。そもそも『男』である自分に対して警戒する様子が見られないのも不思議だった。
「お礼はちゃんとする。ね、お願い! ちょちょいのちょいって!」
「簡単に言うけどなあ、オレは折ったことしかねぇの」
「折るのと反対? じゃないか、なんて言えばいいんだろ……ほら、私の言いたいこと分かるでしょ? 君なら出来る! というかこのくらい出来なくてどうするの」
「めちゃくちゃだなオイ」
 反対のことをする、という言葉に含蓄された意味を理解は出来る。要は感覚でやれ、と言っているのだ。自分の体をぞんざいに扱いすぎやしないだろうか。
 竜胆が治す保証などどこにもないのに、この女はなにをもって言い切ってしまえるのだろう。初対面で、互いに正体も知らぬ男女の間に信用も信頼もクソもない。
 興味が湧いた。ただ、それだけだった。水のように形がないから掴めない気味の悪さも確かに感じるが、自分に治療まがいのことをさせる面白い女だと思った。
 どうなってもしらねぇぞ、と前置きをして竜胆は気絶している男を放り投げると、女の左腕と左肩にそれぞれ触れる。
 服越しに感じる肌のやわさと、細くて、薄い頼りなさ。ほのかに漂う香水の匂い。このまま力を入れてしまえば簡単に折れて、女の表情がいよいよ苦痛に歪むんだろう。
「(緊張、しているのか……このオレが)」
 相手を確実に痛め付けるためだけに使ってきたこの技術を、治療するために使う瞬間が訪れようとは、つゆほども思っていなかった。蘭がこの場に居合わせていたなら、なんと言っただろうか。
 兄弟で息の合ったプレーをすることはあれど、考え方や性格はそれぞれ違う。竜胆は、得体の知れない女が醸す雰囲気を面白いと感じた。蘭はもしかしたら有無を言わさず殴っていたかもしれないし、竜胆と同じく面白い、と頼みを聞くことを許したかもしれない。どっちにしろやるのは竜胆なのだし、決定権も自分にあるのだけれど。
 あからさまな深呼吸は出来なかった。緊張しているのがバレたくなかったからだ。細い糸を吸い込むみたいにして、酸素をゆっくり肺に溜めてゆっくりと息を吐き出していく。
 骨が通常の位置に無いことは触れば分かる。元に戻すだけだ。息を全て吐き切ったとき、竜胆は女の腕を握る手に力を込めた。骨の動く音とゴリ、とハマった感触が、手のひらから竜胆の全身へと広がって、波が引くようにはけていく。
「っ」
「終わったぞ」
「ふー、あー……痛かったあ……ありがとう、助かったよ。今日に限って先生捕まらなくてさ、どうしようかと思っちゃった」
 肩が元に戻ったのを確認した女の白い額の表面に、汗が滲んでいた。笑みを作っていてもどこか不気味で能面のようだった女に温度が感じられて、竜胆は、つい、と手を伸ばすと人差し指で軽く女の前髪を持ち上げて汗を拭った。
 もう女の瞳には、間抜けな自分は映っていない。あるべき位置へ戻って安心したのか、陶器にじんわりさしている薄紅のような、その頬の赤らいに視線を滑らせる。
 その気は毛頭なかったが、礼とやらをくれるならこの女の内側を暴いてやりたい。そのまま顔を近付けようとすると制止が入った。
「礼は?」
「今はダメ」
「なんで」
「こんなところでキスしたくないんだけど」
 指さした先に転がっている男を認めて、竜胆は確かに、と女の不満と非難を受け止めた。女はやたらとムードに拘りがある。機嫌を損ねて礼を無しにされるくらいならば、多少の融通は効かせるべきだろう。
 力づくでも出来ないことはないが、なぜかそれは女に通用しないと思った。女の何が竜胆の中の暴力を押しとどめるのか、それもいずれ分かるだろうか。
 再会の約束は後日取り付けることになった。ヒールの音が響くたび、夜闇がそこだけ道を開けるようだ。見えなくなる手前、振り返った女がニコリと笑みを乗せて軽く手を振った。竜胆は僅かにズレた眼鏡を定位置に戻して、女とは反対方向に歩き出す。
 一人の女によって加えられた演出で、陳腐なショーも退屈なものではなくなった。折るのとはまた違う感触が、残り香のように手のひらにまとわりついている。

 竜胆がどこで何をしているのか、彼女は把握しているようだった。対して竜胆が把握しているのは、ナマエと年齢が上、ということくらいである。情報量が圧倒的に違う。
 わざわざ調べるために出向く程でも、命じて調べさせるほどのものでもないのが微妙なところだった。
 また肩を脱臼したのだと、あのとき同様軽い調子で「治して〜」と行きつけの店に現れたときは、流石の竜胆も臓腑の縮む思いがした。
「オマエ……なんでオレの居場所分かるわけ?」
「竜胆のことはなんでもお見通し!」
「……ストーカーかよ、キモ……」
「あ、ちょっとそれ傷付くんですけど! さっきのも冗談だから本気にしないで!」
 竜胆の若干引き気味な視線を受けて、彼女は見るからに慌てて否定を並べ始める。
「そこらの不良くんたちに、灰谷竜胆くんどこにいるか知りませんかー? って声掛けたら教えてくれたの」
「へぇ……」
 彼女の言うそこらの不良がどんな人物たちを指しているのか謎だが、竜胆は蘭と行動を共にすることが常だ。自分らの居場所を知っている輩は限られてくる。目撃証言でも拾ってきたと言うのだろうか。やはり彼女は普通ではない、というのも明白になった。
 会う度、怪しさに磨きがかかる彼女のことを、竜胆は意外と気に入っていた。蘭は毛嫌いすることはなかったが、一定の距離を保っているようだった。
 きっと今見ている彼女は表層部分なのだろう。何枚捲れば彼女のことを知れた、という実感が得られるのか。
 誰の色にも染まらない、無色透明で形を持たないから掴みようがない。それでも、魅せられ、引き寄せられる。パーソナルスペースが割と広い彼女は軽く垣根を超えてくるけれど、絶妙な距離で一旦停止するから恐れ入る。不用意に、不躾に踏み込んで荒らすようなことはしない。竜胆に対しても、蘭に対しても。
 デパ地下で並んで獲得したという某高級パン屋の紙袋を「本日のお礼です」と言いながら差し出してくる。以前に現金を差し出されたが、流石にもらう気は湧かなかったため断ると、こうして食べ物を渡してくるようになった。
 会うのが数回目ともなると、幾分か笑顔に親しみが増している。
「今日はもう帰んの?」
「肩治してもらったし、この後用事があって」
「ふーん……」
「もしかして……寂しいのかな竜胆くん?」 
 立ち上がって帰り支度をしながら試すように問いかけてくる彼女の腕を即座に引き、腰に手を回す。個室だから他の客に見られる心配もないし、逃げる理由も与えない。
 彼女の心臓が竜胆の目の前にある。鼻先をそこへグッと沈めれば、程よい柔らかさに包み込まれ、柑橘系の爽やかで控えめな匂いが肺を満たす。竜胆は彼女の反応を見るべく視線を上げた。
「いつまでオレに待てさせる気? そんなに気長くねぇんだけど」
「そこまで溜まってるように見えないけどな……私じゃなくてもそういう人、いるんじゃないの」
「話の論点ずらさないでくんない?」
「……私がお礼って言ったから単にあの場のノリかと思ってたんだけど、もしかして楽しみにしてくれてる?」
 実に食えない女だ。無色透明かと思えば、こういう時は瞬時に濁って手の内も心の内も見えなくするのだから。ミョウジナマエのその心を暴いて手に入れたかった。
 グロスでコーティングされた唇が妖しく閃く。ベタベタするからと敬遠されがちだが、ふと竜胆は思い至った。
 全ての女がそうとは限らないが、彼女に限っては防壁の役目も果たしているのではないかと。だとすればとんだ誤算である。胸元から顔を上げた竜胆は彼女の腰に回した手はそのままに、椅子から立ち上がった。
「ダメ、はもう無しだ」
「一回だけ、あと軽いやつにして」
「……」
「ふふ、そんなむくれないでよ。嫌とかじゃなくて」
 ゆるゆると彼女の手が登ってきて、竜胆の首の後ろで交差される。そのまま背伸びをすると耳元で吐息の音がした。
「私が止まらなくなるから」
 耳の輪郭を、熱がこもりかけの吐息でなぞりあげて、彼女は竜胆の唇をあっという間に奪った。リップノイズもしないほどの軽いキスの証左は、自分の唇に付着したグロスだ。
「竜胆とはまだもう少しだけ、このままの関係でいたかったなあ」
「ヤッたって変わんねぇだろ」
「次会うとき、答え聞かせてね」
 濁った視界の向こう、彼女の表情の裏側はもちろん見えないし、『答え』の意味も分からない。恋人になるかならないか、というすぐに察せてしまうような理由じゃないことだけは分かった。
 絡まった体が解かれる。気安い関係と距離が瞬く間に遠いものになる感覚を覚えた。振り返ることなく個室を後にした彼女を追うことも出来ず、竜胆は蘭が後からやってくるまで、立ったままその場を動けなかった。

 彼女からの電話で指定された場所へ足を運べば、そこは六本木でも有名な五つ星ホテルだった。
 さすがはスイートルーム、見るからにベッドの質や調度品の質も違うのがわかる。広々とした窓からは夜景を一望できた。それを背景に彼女が笑顔で手招きをしている。
 自分と年齢はさほど変わらない筈だ。もしかすると名の知れた財閥の令嬢かなにかだったのか。それなら簡単に正体を明かさなかったのも合点が行く。
「ビビって逃げると思った? オレとしちゃ、こんな高級ホテルに泊まれるのラッキーだけどな」
「試したわけじゃないよ、私なりのおもてなしのつもりだったんだけど」
 手招きに応じて目の前まで行くと、彼女はくるりと竜胆へ背を向ける。
 アップにされた髪からのおくれ毛が扇情的で、竜胆は今すぐ首に痕を残したい衝動に駆られた。堪えつつもファスナーに手を掛けたとき、彼女の声が熱を冷やすように凛と響いた。
「君が選んで。怖気付いても私は絶対怒ったりしないから」
「この前から何わけのわかんねぇこと言ってんだ?」
「見ればわかるよ」
 抱きたい女を前にして怖気付く男がどこにいる。そう内心で憤慨しながらファスナーをおろしていくも、徐々に憤慨していた気持ちが萎れて行くのが分かった。
 最後までおろしきって現れたそれに、竜胆は固まったまま、止まりそうになる呼吸を意識してひたすらに繰り返した。
 傷一つない滑らかな肌の一面、余すことなくすべてに咲き誇るその花に圧倒される。
「この花ね、竜胆っていうの。そう、同じナマエ。三年くらい前に入れたんだけど、君のナマエ聞いてびっくりしちゃった」
 運命なんてあやふやな偶像は信じない。竜胆も彼女もそうだった。ただ目の前の刺青を見たらこの一回限りは信じてみても良いのではないか、そう思えた。
 東京の街は眠ることを知らない。夜が更けて行くに連れて煌煌しさが増していく。薄闇に慣れた目は刺青の細部まで見ることが出来た。
「私のお仕事なんですが」
「やっと言う気になったかよ」
「ヤの付く家業なんだよね」
「……逃げても怒らない、ね。随分嘗めてくれてんじゃん」
「ごめんね、私から近づいたのに。でも、私に守られることが許せないなら、今すぐ帰った方がいい。そして私のことは綺麗さっぱり忘れて」
 ただの不良が、ヤクザに適うはずがない。彼女の言っていることは正しい。くだらないプライドを優先するなら、竜胆には彼女を抱く資格がないのだ。キスも彼女なりの精一杯だったのだろう。
 守れるくらいに強くなるには、まだまだ足りないものが多すぎる。癇癪なんて起こしている時間さえ惜しい。彼女が与えたのは逃げ道なんかじゃなく、竜胆にとってはチャンスそのものだった。
 脱ぎ掛けの服はそのままに、彼女を横抱きにしてベッドへ横たえると、裸の唇に己のそれを深く深く合わせた。折り重なるキスに瞼を伏せる彼女はもう、竜胆を拒んでいない。止まらないのはお互い様だ。
「忘れろ、って都合良すぎ」
「君は蘭くんを巻き込んでしまうとしても、私の手を取るの?」
「わかってんだろ、オレはアンタに惚れてんだよ」
「いいよ、竜胆。私は好きな男には優しいの」
 彼女の全てに強烈に惹き込まれてしまう。手を取るか取らないか、どうする? と二択を与えられていても、結局は彼女の思う通りにことが運んでいる。
 竜胆はナマエが好きだ。そしてナマエもまた竜胆を気に入っている。抱いた違和感の正体は、自分たちと同じ『不良』と同じ括りにしようとしたからだった。まるで大人と子供のような縮図に、竜胆は笑うしかなかった。
 新たな幕が上がろうとしている。表舞台には立てないだろう。けれど、心の中で夢見ずにはいられない。自分たち不良の時代がくることを。理想の形とやらはまだはっきりとしないが、それでも描き出した物がいつか本物になる日を。
 ただ生きるだけではどうしたって物足りなかった。そして彼女はただ一言「いいよ」と言った。その言葉をどう解釈するかは竜胆次第だ。
 秘密の花園なんて可愛らしいものじゃない。竜胆の名を呼ぶ声、茶目っ気のある表情、時折見せる仄暗さ。肌の湿度を知ってしまった。
 遅効性の毒のような甘やかさを飲み込んだあの日から、竜胆にはもう、逃れる術はなかったのかもしれない。