選択肢を間違えたなら、分岐点に戻ってやり直せばいい。
修正するのはそんなに簡単じゃないし、ものにもよるだろうが余程のことがない限り、やり直しのきく可能性は高い。けれど今、私が選び取ったほんの少し先の未来とやらは、ハズレと称するにはあまりにも重々しいものだった。修正テープで塗り潰しても濃ゆすぎて消えやしないのだ。
その人の手の甲に刻まれた文字を見たとき、どうして逃げなかったのだろう。刺青であることは一目瞭然だった。
煙草を吸うその仕草からは余裕のようなものが滲み出ていた。深入りしてはならないという危険な信号を見逃し、非日常にいっときの特別感を見出した私は抗うことをしなかった。
大学生になったばかりで浮かれていた。ど田舎にいればやはり都会への憧れは膨らむものだ。その憧れていた東京の地に足を踏み入れ、不安の種だった友達もでき、サークルにも入った。
専攻している分野について見識を深めつつ、アルバイトをして学費を稼ぎ、時には息抜きに友達とお洒落なカフェに行く、といった具合に充実した大学生ライフを送る予定だった。
全てが総崩れになったのは、同じサークルに所属していたある先輩のせいだった。
恋愛経験が全くない私は「かわいいね。 食べちゃいたいくらい」という胸焼けを起こしそうな言葉と、下心満載の優しさに免疫があるはずもなく、すぐさま攻め落とされた。
大学生になれたことと、恋人が出来たこと。浮かれない理由がない。最初は良かったのだ、最初の一ヶ月だけは。
「自分で買いに行け! 私は家政婦でもなんでもない!」
夕方と夜の色合いが混ざった空に恨みがましい視線を向ける。人通りがないのをいいことに私は先輩への不満を吐き出して、怒りで滲む涙を堪えながら歩いていた。
両手には買ってこいと命じられた物が詰まったビニール袋を提げている。
すぐに化けの皮が剥がれた先輩のあまりの横柄さ、理不尽さを友達に相談したら「別れるの一択でしょ」と簡潔明瞭な解答を頂いたので実行に移したいのだが、こういう時は察するのが早い先輩は、優しさをチラつかせつつ私を丸め込む。それをだらだらと繰り返している。
小路から少し大きい通りに出た。途端に溢れかえる人の量に気後れする。
ビニール袋の取っ手が、両手にくい込んで痛かった。お気に入りのスニーカーはすっかり草臥れて、拗ねたようにくすんでいる。先輩とのデート用にと用意していたパステルカラーのパンプスは、箱に入ったままクローゼットで眠っている始末だ。
足裏に感じる固いアスファルトの感触に、実家の庭の砂利や苔の生えた土の柔らかさを思い出して急に寂しくなった。
こうしてたくさんの人がいるのを見るたびに、ここは大都会なのだと改めて思う。誰も私に興味がない。無関心はときにありがたく、ときに虚しさを助長させる。私は一体何をしているのだろう。
じわじわとぼやけていくかに思えた視界は、その場にスラリと聳え立つ人物と目が合った途端クリアになった。左耳にある細長いピアスが車のヘッドライトを受けてキラリと反射している。
煙草の先からくゆる紫煙、吸い込まれた煙がその人の肺に充満して吐き出されるまでの過程を見ながら、自分には縁のないものだと思った。けれど直後に、果たして本当にそうなのだろうか、と考えを否定したくなった。その間お互いに目を逸らすことはなく。
私は自分自身で視野を狭めているだけではないだろうか。選択肢だとてきっと目の前にいくつも並べてあって、無意識に排除しているだけかもしれない。
煙草やお酒も未成年だから吸わない飲まない、と決まり事を粛々と守っているだけで。そう、男の人だってなにも先輩だけではないのだ。
煙草を持っている『罰』と書かれた右手が緩慢に下ろされる。決して優しくはない瞳が私に興味を示したのが分かった。
「なあにお姉さん、オレと遊びたいの?」
声を出す代わりに、私の首は縦に小さく動いていた。
そこからの記憶は駆け足すぎてどこか夢うつつだ。体を預けていた壁からのそりとその人が動いて、歩幅の大きい一歩を重ねながら私の方へやってくる。
煙草の匂いの染みついた指先が伸びてきて、私の頭に指から着地し次いで手のひらも乗せられる。屈められた体に身長差を感じて急激に恥ずかしくなった。
見ず知らずの人とこれから起こるであろう未来を期待してはいけない。だが、目の前のこの人との出会いを無かったことにして、先輩の元へ行く、と考えただけで鳴っていた警鐘は聞こえなくなった。
ふっと手が軽くなる。痛みが消えたと思ったら、彼が私の手からビニール袋を取って中身を吟味しているところだった。
「色々食いもんあんじゃん。早く帰って食べようぜ」
さも当たり前のように私の家へ行くと言い出したその人は、初めて会ったとは思えないほどの馴れ馴れしさで一気に距離を詰めてきた。「腹減ったー、家どっち?」と言いながら長い足をさ迷わせている。
帰路を伝えるため口を開きかけたとき、ポケットに入れていた携帯が震えてその振動が太ももに伝わってきた。先輩からの着信でわんわんと喚く携帯がうるさくて電源を切ろうと取り出したが、迷ったすえ電話へ出ることにした。
別れる前に万が一この人とのことがバレて、浮気だのなんだのと後から喧しく言われるのはごめんだった。
「もしもし」
「遅すぎだろ! いつまで待たせんだよ!」
「もういい加減疲れました」
「は⁉ いきなり何言ってんだ?」
「別れてください、さようなら」
「おいっ! てめ」
そこにはいない先輩に向かって中指を突き立てた。別れをなあなあにしていたのが嘘のように、相手に丸め込む隙を与えずピシャリと言い放つ。力を込めて通話終了を押した。
電話口での開口一番が物語っている。先輩に対して残っていたわずかな情が綺麗に消え去る。人さし指で心の隅を拭っても、指には何も付かないくらいに。
「面白いことになってんね」
「あなたのお陰です」
「わぁお! オレ良いことしたんだ?」
「少なくとも私にとっては」
別れを切り出す勇気を、ここ最近は常時お腹の下の方に貯めていて、使い時をずっと見失っていた。何が契機になるかは人それぞれである。来るべきその場面は重苦しい空気が漂うと思っていたから、案外軽くて拍子抜けした。
どのお菓子から食べようか、ジュースはどれを飲もう。自分にとって一番のストレス原因を排除できたからかとてもすっきりしている。見掛け倒しの優しさにたやすく騙されていた私はもういない。
「お姉さん、ナマエは?」
こちらを見もしないで、とりあえず呼び名がないと不便だろうくらいの雑さの問いだった。傷心していると言えばしているのだろうが、別に丁寧に扱ってほしいわけじゃない。同情も甘い言葉も優しさも今はいらない。ただ身のうちで暴れるこの寂しさをどうか抱き締めてほしくて、雑踏の中でも埋もれることのないその存在感に救いを求めてしまった。
隣を歩く彼のペタペタという足音を聞きながら、先輩は荷物を持ってくれたこともなければ、歩幅も合わせられない男だったことに気づいて虚しくなる。大学を卒業するまでも、就職してからも二度と会いたくない。
家に着きお菓子を食べながら、気づけば私は先輩にされた仕打ちを泣きながら半間くんに喋っていた。ほとんど聞き流されていたが、女はただ話を聞いてもらえるだけでも満足する生き物だ。
強い感情が堆積しては、涙となって頬を滑り落ちていく。あらかた吐き出したところで、抑圧されていた寂しさが顔を見せた。
「オレにどうしてほしいの?」
ローテーブルを挟んで少しだけ高い位置にある彼の目から、とろりと欲が溢れている。待ってましたとばかりに伸びてきた手が後頭部に回った。食べかけのクッキーを食べさせてもらえないまま、口が違う甘さで塞がれる。
例えそれが、黒歴史を黒歴史で上書きするようなものだとしても、今の私には必要なことだった。
「ぜんぶ、消して」
拙い気持ちが吐息と共に押し出され、空気を揺らした。呂律もきっと上手く回っていなかった私の心の叫びを彼は受け止めてくれるけれど、すぐに放り出す。理解とは縁遠いところで笑う彼にただ身を任せた。
私に巣食う寂しさを抱き締めてくれた人。その事実があれば傷ついた心は癒えていく。
「……? ……え……あ……」
「おはよー、ナマエちゃん。爆睡してんのウケる。まあ昨日は三回戦くらいしたしね」
下半身に残る異物感と鈍痛に、昨日のことがまざまざと思い起こされる。気持ち程度に備え付けられたベランダへと続く窓を開け、彼は起き抜けの一服を堪能している。
どっちがナンパをしたのだかよく分からない状況で一夜を共に過ごしたのちの、なんてことない朝の風景のはずだった。機嫌よくかけてくれた挨拶に答えたいのに、状況がそれを許さないこと以外は。
なぜここに、昨日別れを告げた筈の元恋人が倒れているのだろうか。しかも顔面は口にするのも躊躇われるほどの惨状である。
思わず目を背けたくなって背けた先、白い壁に筆で書き殴ったみたいにして赤色が飛び散っていた。ちょっと待って、血ってどうやったら落ちるんだっけ? 回らない頭でまず考えたのは部屋の掃除をどうするかだった。
これは傷害事件になりかねないのでは、と妙に冴え始めた思考のまま赤を追ってぐるりと見渡せば、少し奮発して買ったアンティーク調のジュエリーボックスにも被害が及んでいるのを見つけてしまった。
お気に入りのアクセサリーを仕舞っているこの箱の方がよほど酷い状態である。なんせ嫌いを通り越し、毛ほどの興味も失せた先輩の血が付着しているのだ。悲しみと怒りで頭の芯がぐらぐらする。
半間くんは、期待していた反応をなかなか返さない私に業を煮やしたのだろう、不満げに首を傾けつつ疑問を投げかけてくる。
「代わりにお返ししといたのに、なんで引いてんの?」
「えっ、と……情報が渋滞していて……しかも寝起きだし、整理出来ない」
「仕方ねぇなあ」
ダリィと言いながら簡単に説明してくれたけれど、状況の深刻さとは正反対の半間くんの明るい声音に平静を保つのが精一杯だった。
彼によれば、事が済んだあとアラームを掛けるために一度電源を入れた私の携帯へ、懲りずに朝方着信があったのだそうだ。私は夢の中だったため、面白がって半間くんが電話に出た。
新しい男だの裏切りだのと好き勝手捲し立てたのだろう、先輩は「今からそっちに行くからな! 覚悟しとけよ!」という台詞を吐いて電話を切り、実際に来たらしい。そして迎え撃ったのが半間くんで、先ほど起きて私の視界に映ったのがその結果という訳である。
「ナマエちゃんて意外と肝が据わってるよな、普通悲鳴とかあげねえ?」
「びっくりしすぎてあげる余裕もないですね」
感謝を示せと言ったり、悲鳴を上げないのを面白がったりと矛盾している。寝起きの頭は完全に覚醒し、厄介なことに恐怖を自覚しつつある。半間修二というこの男はとんでもない人物だ。
恐怖を感じていても悲鳴をあげないのは、ある種の防衛本能だろう。ここでヒステリーとパニックを起こせば面倒くさそうな表情をして、腹パンでもしてきそうだった。私への興味が失せればさらに危うくなる。
怯えは表情に出ていないらしい。「お! そうだ」と言いながら自慢げに指さしたのは、百均で見つけたシンプルでお気に入りのゴミ箱だった。壁同様ところどころに血が付着している。
下着姿を見られるのも今更な気がしたが、恥ずかしいものは恥ずかしい。長めのキャミソールで良かったと思いながらも裾を下に引っ張る。覗き込んだゴミ箱を見て後悔した。
「なに、これ」
「見ての通り歯だけど。オレの得意技」
信じられない。これは笑ったらダメなやつ? それとも褒めるべき? こんな物騒な得意技があっていいのだろうか。手品でも披露するみたいに、無邪気な笑顔を見せている。だから先輩の口元が特に酷かったのかと納得した。
とにかく他の窓も開けて換気をした方が良いだろう。鉄臭が充満していて気分が悪い。
先輩が気を失っているだけであることは、胸が上下しているのを最初の方で確認している。一瞬死んでいるのかと思って冷汗が出た。それにしても私はこの大騒動の中、爆睡をかましていたというのだからたいしたものである。
血や傷、歯のことなんかを深く考えると胃がひっくり返ってしまいそうだった。どうにか他に意識を向けようとしていると、ふいに彼の愉悦に歪みが加わる。
「ナマエちゃんも歯、折っとく?」
「……得意技と愛情表現を一緒にしないで」
「ばはっ! そりゃそうだ」
凶暴性を知ってしまった今、身の安全も確約されていないため、会話も気軽に出来やしない。間違って機嫌を損ねでもしたら、という不安は彼といる限り付き纏うのだろう。
あえて「愛情表現」という言葉で試したのは、今私が安全地帯にいるのかどうかを確かめるためだ。自身の出した警鐘はきちんと当たっていた。無視をしたのだからこれが当然の結果なのだけれど。
それに、感謝の気持ちも多少はある。私が受けた傷や理不尽さを全部ひっくるめて、桁違いの純粋な暴力で倍返ししてくれた。清々しかった。涙と鼻水と血でぐちゃぐちゃに塗れた先輩の汚い顔に、私は確かに胸中でざまあみろと吐き捨てていた。
「半間くん、ありがとう。ちょっとやり過ぎかなとは思うけど」
「浮気だーとか、あらぬ疑いをかけられたらムカつくでしょ」
窓という窓を全開にしたあと、再びベッドへ腰掛けていた私の方へやってきた半間くんは、子宮あたりを満足気にやわやわと撫でている。ものすごい圧迫感に耐えつつ全部を迎え入れたそこを労うように。
「ナマエちゃんは稀咲ほど鮮やかじゃねぇけど、色付けてくれるんだよな」昨夜の会話で確かそう言っていたのを思い出す。
半間くんの中できっと何かしら基準があり、それを満たした人には割と従順なのかもしれない。私はどの程度満たせているのだろう。
彼といる間に、パステルカラーのパンプスの出番はあるだろうか。髪をおろしている彼が少し幼く見えてなんだか可愛らしい。私もいつか彼に影響され、ツーバイカラーをしたいと思う日がくるかもしれない。先輩のお陰で繋がった縁は穏やかとは言い難く、むしろ波乱の影がチラついている。
「とりあえず、この人どうにかしないとね……」
「廊下に転がしとけばいいんじゃねぇ?」
「それはダメ」
まずやることはもろもろ含めた掃除だ。先輩も早く起こした方が良いかもしれない。早急に治療が必要だろう。もし慰謝料を寄越せと脅してきても、半間くんが間髪入れず顔にパンチをお見舞いしそうではある。先輩のプライドが粉々になっていることを祈るしかない。
彼のやる気を出させるための条件を考え出した私は、なるようにしかならない、という精神のもと恐怖に対して若干開き直り始めていた。
首元に擦り寄る彼の、左耳のピアスがちろちろと当たってくすぐったい。身を捩れば強く腰を引かれる。大きな体に敵うはずもなく、私たちはそのままベッドへ身を沈める。
「二度寝しよーぜ」
「寝てる間に報復でもされたらどうするの……」
「もっとボコッとく?」
「だからそれはダメだって」
二つの瞳が鋭利な光を放つ。口元は楽しげだ。意外にも彼は私との縁を手放すつもりはないらしい。
普通じゃないことが起こっているのに、白昼夢が意識全体を柔く包んでいるみたいだった。感覚が麻痺していく。
誰かを不用意に巻き込むことなく、迷惑をかけないふたりだけの身軽な楽しさなら、しばらくは身を浸してみてもいいかもしれない。できれば脆い安全地帯を強固にしたい。
日常と非日常がそっくり入れ替わる音がする。日向の世界が遠ざかって、やがては影が濃くなってゆく、そんな気がした。