捧げたいものは、両手で持ちきれないくらいたくさんある。形あるものも無いものも、全部。引くことを知らず、満ちるばかりのこの気持ちの終着点はあなた以外にない。

「好きだ、ナマエのことが」
 ホームルームが終わって生徒らがはけたあと、喧騒も遠のいた教室にて圭介くんから唐突に告白された。
 普段は遮られている分厚い眼鏡の奥、ひどく真剣みを帯びた瞳がわたしに向けられている。
 仕舞い忘れていた教科書を鞄に入れようとしていた手が止まって、思考も同時に停止した。聞き間違えようのない好意が、楔のようにわたしへ打ち込まれる。
「いきなりわりぃ……けどずっとタイミング計ってんのもキツくてよ」
 告白された後だと、彼の言葉の端々から感情を拾って背景を考えてしまう。
 いつから言おうとしてくれていたのだろうか。そもそも、いつからわたしのことが好きだったのだろうか。わたしはそんな彼に対して、無神経な態度や言動を取っていなかっただろうか。
 返事をしたくとも適切な言葉が出てこない。この場をひとときでも、慣れ親しんだいつもの空気に出来たら死に物狂いで動いている心臓は、落ち着きを取り戻すはずだ。
 焦りがだんだんと恥じらいに変化する。圭介くんからの好意がじわりと胸にしみてきて、咄嗟にその場から逃げ出してしまった。
 教科書が地面に落ちる音が、わたしの余裕の無さを表していた。
 体育の授業でもこんなに全力で走ったことはない。逃げたからといって時間が止まることもなければ、戻ってくることもないのに、わたしの足は疲れを忘れたかのように家に着くまで速度を緩めることはなかった。
 勢いよく開いた玄関の音に驚いた母が顔を出したけれど、ただいまと急いで返して部屋へ向かう。
 壁にかけてあるハンガーに手を伸ばす前に、糸が切れた操り人形のようにその場に座り込んでしまった。
 先ほどの場面が頭をぐるぐると巡っている。高揚と落胆を繰り返す。互いを意識し合わない友達としての、心地の良い時間が終わりを迎えてしまうのが惜しかった。だからわたしはあえて、圭介くんへ抱いている気持ちを封じ込めていた。
 わたしは彼のことが好きだ。すぐに返事を返せなかったのは、友達としての関係をまだ望んでいたのと、自分に自信がなかったから。本当はとても、とても嬉しかった。
 吊り上がり気味の眉は少し垂れていて、頬も耳も夕陽が染み込んだみたいに赤くて、低い声も仄かに緊張していた。
 恒常的な日々を壊す勇気を、彼は持っていた。彼と同じ熱量の好きを持て余している。ずっと封じてきた気持ちが報われる瞬間を待ちわびていたはずだ。けれどわたしは驚いて、すぐには受け入れられなかった。いくじなしの自分に嫌悪した。
 教室を出る手前、彼から呼ばれた自分のナマエに付加されていた感情は確かに「恋」と呼ばれるものだった。少女漫画や恋愛ドラマで培った知識はあれど、いざ自分がそうなると考えただけで気恥ずかしく、とても冷静ではいられなかった。
 手を繋ぐ? キスをする? どれもハードルが高い。けれども、こうやって彼と触れ合うことを想像してはのぼせているのだから、答えは出ているようなものだ。
 新たな関係性に尻込みしてしまうのは致し方ないとしても、よくよく思い返してみれば、自信が持てないと事あるごとにぼやいていたわたしを励ましてくれていたのは、他でもない圭介くんだった。
 矢印の先は互いを向いている。幾度も逡巡したあと出た結論を今度は反芻する。きっと誤解しているだろうから、まずは誤解をとく必要がある。
 今度はわたしからちゃんと気持ちを伝えたい。あの分厚い眼鏡を借りて、二つの小さな壁を作ったら少しは緊張がほぐれるだろうか。
 高揚が冷めてくると、つい心が後ろ向きになりがちだ。圭介くんがくれた好意と勇気を握りしめる。
 わたしの向こう見ずな行動のせいで、どうか彼が傷付いていませんように、と願うばかりだった。
 満潮を迎えていた思考の海が引いていく。帰宅して光源を入れていなかった部屋はもう真っ暗に近い。
 ふと階下から自分のナマエを呼ぶ声が聞こえてくる。焦り気味な母親の声音に、何度か呼ばれていたのかと慌てて階段を駆け下りる。
「ごめんっ! ちょっと寝てて……あ」
「……これ落としてったろ。明日の数学、宿題のとこ当たるって言ってたじゃねーか」
「ありがとう……その」
「じゃーな」
 後ろ手にひらひらと手を振って圭介くんは玄関を出ていく。
 煮え切らない態度のわたしに何かを感じ取ったのか、母親に背中を軽く押された。一旦閉まった扉を押し開けて彼の背中を追う。
「うそだ、いない……」
 歩いていたなら絶対姿が見えるはずだし走れば追いつく。だが左右を見てもどこにも彼の姿は見当たらなかった。
 全速力でわたしの家から遠ざかったのだろう、圭介くんはしっかり傷付いていたようだ。それでも教科書をわざわざ届けてくれた彼の優しさに、わたしは泣きそうになってしまった。

「好きな奴に目の前で逃げられることほど辛いもんはねぇ」
「その件については本当にごめんなさい」
 恒例行事のようになったこの押し問答へ、毎回心から謝罪している。
 告白の直後に、しかも両想いだから二つ返事だろう、と意気込んでいたら背を向けられたのがよほどショックだったのか、ちょっとした言い合いでわたしが優勢になると、彼はこうして劣勢を覆そうとしてくることがままあった。
 告白されたあとの数日間は実に大変だった。誤解を解こうとしてもあの手この手で逃げられるものだから、しばらく勝ち目のない鬼ごっこ状態だった。
 振られるのはごめんだ、という気持ちで逃げ回っていたらしい。
「……はぁーあ、よくねぇよな、こんな確かめ方」
「え?」
「オレばっかナマエのこと好きなんじゃねぇか、って不安になる」
 解いた髪ゴムをポケットに入れ、眼鏡を律儀にバッグへ仕舞いながら、圭介くんが吐露した本音と不安に、わたしは目を丸くさせた。
 不器用な優しさで一生懸命包んでくれて、気を許したひとにはとことん心を砕いてくれる。互いに照れ屋なところがあるから、外で手を繋ぐとかそういったことはあまりしていない。二人きりのときは時間が許す限りは、羞恥のギリギリ手前を行ったり来たりしているが。
 彼が奥底に秘めていた不安をどうにかしたかった。
「どうしたら伝わる? いっぱいキスしたらいい?」
「な、に言ってんだオマエ! オレが変態みたいじゃねぇか!」
 圭介くんの手を取って、しっかりと目を合わせる。きっとこれだけでは足りない。
 想いが可視化出来るのなら安心出来るよう、わたしは常に彼へと贈り続けたい。言葉を紡いだ瞬間、音として消え落ちてしまう前に何度でも届けたかった。
「変態じゃないよ! 好きな人同士はいっぱいキスするんだよ!」
「はぁ⁉︎ じゃあ何回くらいするんだよ!」
「ひ、百回くらい……?」
 わたしの提案に満更でも無さそうだったけれど、その後やけくそで答えた回数に、圭介くんはキリリとした眉を僅かに吊り上げた。
「普通に足りねぇだろ、これから何年一緒いると思ってんだ」
 そう拗ねたように呟いた彼の顔が目の前にある。ずっと先まで彼の隣を確約された嬉しさに、感情が溢れ出る。今は言葉を紡ぐよりずっと明確に、おずおずと触れ合う熱が教えてくれる。
 外の喧騒に負けないくらい心臓が叫んでいる。
 陽だまりを集めた幸せを噛み締めるたび、わたしは愛しいこの人の笑顔を思い出すのだ。