平凡な自分には、決して振りかからないだろうと高を括っていたら、見事に超ド級のとばっちりを喰らった。回避不能な事態に心は挫けるしかない。氷のように冷えている視線が全身を拘束する。
 物理的な冷たさを持った警棒が私の肩をとんとんとリズミカルに叩いたかと思えば、瞬間口元に痛みが走る。警棒で殴られたのだと理解するまでに数十秒を要した。
 一切の逃げ道が手元から消え、諦めろと囁くジョーカーだけが残される。打ち上げられた魚のようにパクパクと口を開閉するしかない私へと、住む世界の違うであろう危険人物が、薄ら笑いを浮かべながら不可思議な死刑宣告を寄越した。
「アンタ、あのクソ野郎の女だろ?」
 きっちりと綺麗に編まれた三つ編みが肯定を促すように揺れる。
 自分で結っているのだろうか。顔の造形がいやに整っているこの人が三つ編みしている様を、なかば現実逃避するように想像してみた。暴力を紡ぐ指先が馴れた手つきで髪を編み上げていく。私よりも長くて太い指がそれを作り上げていく過程を思うと、与えられたばかりの恐怖が米粒ひとつ分くらいは薄れたような気がした。
 生まれてこの方、『恋人』はおろか『好きな人』さえいたことのない私には、男の言葉は寝耳に水だった。侮蔑している『クソ野郎』が誰なのかを聞けば、彼の口から出てきたのは同じクラスの同級生のナマエだった。
 その同級生があまりにも評判が悪いのは知っていたし、気に食わないことがあれば平気で人を傷付けるような人物だ。皆、いつ自分へ災難が降りかかるともしれないため、遠巻きにしている。
 関わったことすら無いにもかかわらず、なぜ私が彼の恋人であるという信じられない事態になっているのか謎だった。拒否したとて聞き入れてもらえないかもしれない。それでも違うと声を張り上げなければ。凍てついた喉は音の出し方を忘れたらしく、私は首を横に振るので精一杯だった。
 首を振ってだんまりを決め込む。私たちの間に漂う、ただならぬ雰囲気に幾人かの通行人がこちらを窺っている。
 もしかするとどこかに連れて行かれるかもしれない、という予想の通り、ここでは悪目立ちすると思った男の人は、有無を言わさず私をしょっ引いていく。完全な冤罪だ。私は何もしていない。
 痛いと文句など付けられるはずも無く、とりあえず骨が折れなければいいか、と無理やり楽観視することにした。
 薄暗い倉庫の中、窓から差し込む光によって埃がちらちら舞うのが見えた。男の人は資材に腰掛け、地面に正座している私へと目を向ける。ここで目を逸らせば私が彼の女であると認めてしまうようなものだったので、怖かったがとにかく耐えた。
 いつまた振るわれるか分からない暴力に怯えながらも、問いかけに正直に答えていけば、段々と表情が剣呑になっていく。
 ラン、と名乗った――というか自分のことをランちゃんと呼んでいた――この人の探している人物に心当たりがあった。私の中である仮説が浮かびつつあって、それはきっと正しいのだけど、やはり信じてもらえるかが肝要だった。
「ミョウジとナマエが私とほぼ一緒の人がいます。一文字違いで……」
「……おいおいおい」
 間違いであると分かった途端、冷たい威圧感が消える。
 クソ野郎と言っていたあたり、彼はランさんに対して何かとんでもないことをしでかしたのだろう。だから私は間違えられ、あまつさえ人質の立場になっているのだ。
「まあ、命を握られてる場面で嘘を付ける人間なんて、そうそういねぇよなあ」
 触れられてはいないのに首にゆるく手を掛けられ、いつでも絞めることが出来るような重みと殺気がのし掛る。涙が伝うどころか、全身の毛穴が一斉に開いて汗が伝う。
 平衡感覚さえ失いそうな恐怖に晒された私の顔色は、真っ青を通り越して土気色かもしれない。
 どうやら件の人物である彼を締めたあと、その彼が気を失う直前に呟いていたナマエに興味を抱き、うちの学校まで来たらしい。その辺の生徒を捕まえて聞いたらたまたま近くを歩いていた私を指さしたそうだ。なんてタイミングの悪い。ナマエの聞き間違いが重なって不幸を呼び寄せるとは。
 殺してはいない、と軽く言うけれど、それは最後に見たときはまだ生きていた、という意味だ。悪びれた様子など微塵も感じられないランさんの台詞ひとつひとつが、首に食い込んでいくようだった。
「割と近くだったし、挨拶でもしとくかって思ったんだよ」
 完全に遊んでいる。彼自身をボコボコにしただけでは足りなかったのかもしれない。調子に乗って吹っ掛けてきたクソ野郎の女の面を拝んでおくか、そんな台詞が聞こえてきそうだった。
 例え危害を加えるつもりがなくとも、ビシバシ放たれる殺気だけで十分暴力と言える。
 パチン、と小さな音がして、楽しそうにしていたランさんの髪が突如ほどけた。綺麗な三つ編みが崩れていく。髪ゴムが切れたようだ。
 私は聞かれてもいないのに、ポーチの中に髪ゴムがあることを心の中で確認した。
「めんどくせぇ……三つ編み出来るか?」
「で、できます……それくらいは割と簡単なので」
 やっと動いていい許可が出た。鞄からポーチを取り出す。さすがに自分の櫛を使うわけにはいかず、手櫛で軽くととのえ三等分にする。
 クラスの女子たちも髪の長い子が多いけれど、ランさん程の長さを持っている人はいなかった。指が髪の間を通るのを見ながら、私は今クラスの女子の髪を触っていると己に自己暗示をかける。今の状況を冷静に分析でもしたら発狂したのち気絶しそうだった。とにかく綺麗な三つ編みを完成させ、満足のいく結果を出さなければ命が危ない。死亡理由が『結び方が汚かったから』、というのは滑稽すぎる。
 ランさんの正面に立って髪を編む図は異様な光景に違いないなと思いながら、彼から香る香水の良い匂いだけが私の意識を混濁させて色々と保っていた。
「簡単つっても、出来ねぇ奴もいんだよ。人によっちゃ嫌味にもなる。気をつけねぇと友達に嫌われるぜ」
「……その点は心配に及びません」
「なんで?」
「と、友達と呼べる人はおりませんので……」
「……あー、なんかそんな感じするかも。暗いもんなアンタ」
 至極真っ当なことを言われて頭が混乱した。私は今、自分の言動を諌められたのだろうか。倫理観なんて不味くて食えねぇよ、と吐き捨てていそうなこの人に。
 変に同情されなかっただけまだいい。根暗認定されたのは腹が立ったけれどその通りなので異論はない。
「なってやろうか、友達に」
「へ」
 耳を疑った。名案だろ? とでも言いたげな顔をしている。暇つぶしに良い玩具を拾った、これでしばらく退屈しない、という心の声が丸聞こえだった。わざとだろう。資材に置かれていた右手が私の顎を恭しく持ち上げる。
「良かったなあ、こーんな良い友達、なかなかいねぇぞ」
 嘘だ、なにが友達だ。どうせ友達と書いて下僕と読むに決まっている。意地悪なんて比じゃない、私の生き方そのものを歪めてしまう沼のような笑みがそこにはあった。
 人違いだったさようなら、で済む話ではないか。根暗の私に楽しさを求めないでほしい。
「案外可愛い顔してんじゃん。可愛がりすぎてうっかり殺さねぇようにしないとな」
 明日に胡座をかいていた。蛍光灯が切れるのを予見することが難しいように、当たり前は突然に奪われて真っ暗になる。明日以降の私はちゃんと呼吸ができているだろうか。人前では元々笑わない質だけど、より一層表情筋が仕事をしなくなりそうだ。
 彼の親指がゆっくりと唇の傷をなぞる動きに合わせて、絶望という文字が少しずつ侵食していく。割れて砕けた希望の行先は分からない。
 神様は乗り越えられるであろう困難を与えると言うけれど、ハードルが高すぎて立ち尽くすしかなかった。
 どんなホラー映画より眼前の危険人物の方が数百倍怖い。
 こんなの某映画の井戸から出てくる彼女も逃げ出すに決まっている。