冬が終わりを迎えつつあり、季節が春を待ちわびているこの時期は、まだ暖かいとは言えない。薄らと寒さの残る東風が吹く中、教室へ戻る途中視線をふと左へ向ける。夏油の視線の先には、教室とは反対方向へ歩いている彼女の姿があった。あっと思った時にはもう、自分の口は勝手に開いていた。反射的に夏油の口から躍り出た音に反応した彼女の歩みが止まる。
 名前を呼んで振り向いた彼女は、夏油の手のひらよりも小さいその額を赤く腫らしていた。近付いてその赤みを確認するも、幸いなことに血は出ていない。よそ見をしていたら強かにぶつけたのだと、潤んだ瞳が情けなさそうに笑う。これが対呪霊であれば首が飛んでいたかも、と軽い調子でのたまう彼女に夏油は嘆息した。
「冷やした方がいい」
「そうしたいのは山々なんだけど、これから任務なんだ」
 額って青あざが出来るのかなあ、と呑気に呟いている。道中にでも冷やしておけばいいだろう、と言えば、うーんと面倒くさがる。共用の冷蔵庫には水を補充しておけば氷を作ってくれる機能がある。そこから氷を取るくらいの時間はあるだろう。打ち身だから傷は残らないし大したことはない、と思っているのか彼女は自分のことには無頓着だった。夏油や他の二人のことになると血相を変えるくせに。等しさにケチをつけるつもりはないが、無意識に特別を欲してしまうから、表情や態度に出ていないか不安になる。
 言うことを聞かない彼女に、いっそ露骨に態度に出すべきだろうか、と思った。君が好きだから、心配なんだ。いやこれはもう告白も同然じゃないか。タイミングはきちんと図りたい。ならばほんの少しだけ、友情の縁に足をかけてみるのはどうだろう。
「そんなに大きなたんこぶ作っといて……冷やさないって言うなら私の部屋に連れて行くけど」
「え」
「湿布でも貼ってあげようか?」
「湿布はちょっと……というかあの、ちかいよげとうくん……」
 下に降ろされた彼女の両手首を握りながら、体勢を低くして目線を合わせる。今まで取ったことのない距離の近さに、案の定彼女は顔を真っ赤に染めて狼狽えている。離れてほしいという訴えをスルーしながらも冷やすと答えるまで笑顔は崩さない。もはや「え、あ、う、」と母音しか発せていない彼女があまりにも可愛くて、恥ずかしさからか目の前で目を瞑ったのには参ってしまった。彼女にそういう意図がなくとも、勘違いを理由に甘い柔らかさに触れてしまいたくなる。
「……君、無防備すぎやしないか。食べられても知らないよ?」
「の、のぞむところです……!」
「え?」
 あまりにも愛らしい宣戦布告がなされて夏油は一瞬身動きが出来なくなる。自分に都合の良い幻聴だろうか、とも思った。
「夏油くんこそ、無防備すぎだよ! わ、私に食べられても知らないんだからね!」
 畳み掛けられた彼女の台詞に幻聴でも夢でも無いことを知る。思わず手のひらで目元を覆い隠した。どうやらタイミングを図る意味はなくなってしまったらしい。
「……うん、食べて……」
「えええ!!」
 葛藤も何もかも、彼女は花びらを掬うようにすべてをさらってしまった。精一杯余裕ぶって、背伸びをして、それでも夏油の身長には程遠いけれど、心はずっとずっと近くに引き寄せられた。自分が彼女を手繰り寄せて腕の中に閉じ込めておく予定だったのに、それをいとも容易く手折られるとは。
 彼女の言葉の意味を確かめる前に、彼女は夏油の動揺の隙をついて任務へと向かった。弁舌にも圧の掛け方にもわりと自信があったのに、こうも簡単にまかれてしまうと、彼女には敵わないなあと笑みが零れる。帰りを待つのも惜しい。代わりに自分が祓ってさっさと任務を終わらせてしまいたい。
 緩やかに、鮮やかに彼女への好きが増していく。想いの重さは等しくなくともいいのだ。ただ彼女の一番傍に居ることを許してさえくれれば。