※場地が留年していない設定


 今日に限って天気予報をしっかり見ていなかった。
 自然が人間の都合に合わせてくれる筈もないのに、雲が気持ちよさげにふわふわと泳いでいる晴れ渡った空を過信してしまった。麗らかさを与えてくれたかと思えば、この世の終わりのように風が吹き荒み、鞭のような雨が容赦なく体に打ち付けられることもある。それくらい自然は豹変する事を知っているのに。
 まるで手のひらを返された気分だった。いつなんどき雨が降ってもいいように、折り畳み傘を鞄へ入れていなかった自分の落ち度なのだけれど。ここまで濡れ鼠になるとは思わなかったのだ。
 学校を出てバス停に向かう途中で降りだしたのは、助走のないシャワーのような雨だった。降り出した瞬間私は諦めたし、全身が濡れるのには数十秒もあれば十分だった。
 視界が不明瞭になるほどのこの雨にはいくつものナマエがある。一体なんというナマエが当てはまるのだろう。
 いつも乗り降りしているバス停には珍しく誰もいなかった。夏真っ只中であれば強い日差しから逃げるように人が集まり、影を奪い合うこの狭苦しい屋根。一部の人しか恩恵を受けられないなら無い方がマシとさえ思っていたが、今は私を雨から守ってくれている。手のひらを返して屋根に感謝している自分に苦笑が漏れた。
 バスが来るまであと何分くらいだろうか。
 水分をたっぷり含んだスカートの裾を持ち上げ、興味本位で搾ると水がぽたぽたと落ちて笑ってしまった。このまま座ればバスの座席が濡れてしまう。だが今日は幸いにもフェイスタオルを持ってきていたから、それを敷けばなんとかなる筈だ。
 誰もいないだろうと油断し憚らず好き勝手していたら、視界の端で何かが動いた気配がする。
 ギクリとしながらそちらを見やると、見てはいけないものでも見たかのように、うろうろと視線を泳がせている松野くんがいて驚いた。いつの間にそこにいたのか。雨の音で全く気が付かなかった。
 雑巾絞りをしたままなのもあれなので、とりあえずスカートから手を離す。
「す……スパッツ履いてるから」
「そういう問題じゃないです!」
 恐らく、というか十中八九太ももが見えるくらいにはスカートを上げていた。下に履いているから別に見られたところで、と思っていたが松野くん的には納得いかないらしい。スカートの皺を直していると、泳がせていた視線を私に定め、窘めるように彼は少し大きめの声を出した。
 松野千冬くんは、クラスメイトである場地くんとよく一緒にいる子だ。
 場地くんと席が近い私は彼に請われて勉強を教えたり、居眠りしていた教科のノートを貸したりと交流があった。松野くんは場地くんを心底尊敬しているようだった。何故かは分からない。とても嬉しそうに場地くんの傍にいて、当たり前のように松野くんもまた彼に勉強を教えている。不思議な関係だ。全く気にならないわけではないが、詮索しようとも思わなかった。
 ただひとつだけ気になっていることは、ある。
 私と同じように濡れ鼠になった松野くんの瞳が私を見ている。やけにゆっくりと彼の瞼が下ろされて、ゆっくりとまた瞼が上がり、少しだけ細められた。
 声を出していないのに何かを囁かれている。これから秘密の話でも始めるんじゃないか、そんな気さえしてきて私は彼から視線を逸らすことが出来なかった。
 依然、雨足は強くなるばかりだ。

 松野くんが私たちの教室へ来る目的と理由は場地くんだと思っていたし、それは限りなく正解に近かった。近かった、というのはそうじゃないことが起きたからだ。二週間前の火曜日、松野くんの目的は『私』だった。
 場地くんを介さない直接の彼の声音と態度は、いつもとはまるで温度というか質のようなものが根本的に違った。
「ナマエさん、これ良かったらどうぞ」
 彼の手に握られていたのは、私が大好きな洋菓子店のお菓子だった。
 学校にお菓子を持ってくるのは勿論よくないのだけれど、見覚えのある紙袋を見た瞬間嬉しさが胸の内を満たしたし、松野くんがどこか不安そうにしていたから早く安心させたくて「ありがとう」にたくさん気持ちを詰め込んだ。
「私がこのお菓子好きなのよく覚えてたね」
「その……オレ、記憶力いいんで」
 一度だけ好きな食べ物の話になったことがあって、けれどその話題は別に深く掘り下げたりもしなかった。
 店名も、一度聞いただけでは覚えにくい横文字だし、何より遠方だ。近くに行く用事があったから、と頬をかきながらついでを装う松野くんの好物を覚えていないことに若干の罪悪感を抱きつつも、心臓が少しの甘さを伴って疼いた。
 彼にとって私の存在と言えば、場地くんのクラスメイトの一人、くらいの認識だったと思う。当たりさわりのないファーストコンタクトを経て何度か話をするうちに、警戒心を徐々に解きはじめた松野くんは、色々と話し掛けてくれるようになった。
 勝手に心の中で、彼のことを可愛い後輩だと位置づけてしまうくらいには仲良くなれたと思っていた。
 後輩とはとても都合の良い表現だ。気づかない振りが出来る。自分や相手の気持ちに鈍感でいられるのだから。

 屋根のギリギリ隅で雨宿りをしている松野くんの背中は、現在進行形で雨に濡れている。
 狭い屋根だから距離を取ろうにも取れないし、おそらく私に遠慮しているのだろう、彼がこちらに来る気配はない。だが、このまま雨に打たれたままというのも忍びないので、私は松野くんに近付いて瞠目している彼のシャツの裾を掴んだ。
「濡れちゃうでしょ、もっとこっち来て」
 そのまま私が一歩下がると松野くんが一歩踏み出す。一先ずこれで雨に打たれっぱなしにはならない。重なった視線はまたもあからさまに逸らされた。
 お菓子をくれたあの日以来、私は松野くんの細やかな変化を捉えられるようになっていた。いや、きっともっと前からそうだったのかもしれなくて、私だけが何も知らなかったのだろう。
 場地くんへ一心に注がれていた視線や気遣いも、いつの間にか私へも配られていた。先輩を敬うと言った類のものでないのは、向けられる視線に絡まって見え隠れする例え難い感情が物語っていた。どう解釈していいのか、解釈したそれは自意識過剰じゃないのか、難問もいいところだった。
 その場しのぎを繰り返して目を瞑るのはもう困難であり、彼の焦がれた視線が私の瞼をこじ開けようとしてくる。松野くんにそんな自覚はなくともだ。
 指先が触れ合う瞬間というのは、日常のなかに散りばめられていて、それは例えば消しゴムの貸し借りだとか、同じものを取ろうとしたときだとか、無意識で偶然の産物だ。いつものように勉強会をしていて松野くんと私の指先が僅かに触れたとき、刹那を名残惜しむような目をされたことがある。
 目を合わせてはいけない、と直感的に思った。
 その熱が浸潤したら私は彼のことを『可愛い後輩』とは思えなくなってしまう。別にいけないことじゃないのに、胸がざわめいて仕方なかった。鎮め方なんて知らない。甘酸っぱくて青々とした若葉みたいなこの気持ちに付けるナマエを、彼はきっと知っている。
 不自然に逸らされた視線の理由を問いたくて彼の顔を覗き込むと、今度は顔を斜め上に向けられた。
 私はふと自分の制服を見下ろしてみる。濡れたシャツが肌に張り付いて、肌色やキャミソールの色が透けて見えていた。
「私は気にしないけど……ってあ、そっか! そうだよね! み、見苦しいよねこんな、私ってばほんとごめ」
 松野くんが私へ抱いているであろう気持ちから察するに、と思ったけれどそれはとんだ勘違いかもしれないと思い直し、矢継ぎ早に自らの軽率な行動に対しての謝罪を口にしようとする。
 シャツの下は人においそれと見せるものではない。むしろ見えていたら品がない、と生活指導の女の先生からはチクチクと指導が入る。無論短すぎるスカート丈もしかりだ。
「それ、本気で言ってます? 目に毒だって言ってんですよ」
 謝罪を遮り、呆れと怒りが綯い交ぜになった声音で松野くんがそう言った。
 意を決したように下ろされた視線はしっかりと私を捕らえている。合わさった視線を通して熱が浸潤してくる。彼の前髪の毛先から雫が今にもしたたり落ちそうだ。
「……これでも必死に我慢してるんで、あんま煽んないでください」
「は、はい……」
 何を、と聞くのは野暮だった。手の甲を口にあて、蓋でもするように松野くんが絞り出した言葉に絡められた意味や感情も、今ならば簡単にほどけるのだろう。
 不用心な行動と言動を窘められてばかりいる。松野くんの本音を聞けたことだけは功績と思っていいだろうか。
 むせ返るほどの好意に、周囲の酸素が蒸発でもしてしまったように感じる。僅かに身じろぎした彼の前髪から雫がぱたぱたと落ちた。
「ナマエさんに掛けられるの、何か持ってたら良かったんですけど」
 失態ばかり見せている私に幻滅するどころか松野くんはずっと優しい。私が感じている息苦しさを彼も感じているかのように話題をさりげなく変える。
 バス停の屋根の下で無防備な姿を晒していた私を見つけた松野くんは、守るように慌てて近寄ってきてくれたのだと知った。
 降り注ぐ雨粒が地面を叩いていて、その度に飛沫が上がっては舞い散る。雨の音が私と松野くんを閉じ込めている。狭い軒先の下に出来た空間のもどかしさと、たった数センチの距離に心が翻弄される。
 肌に吸い付くシャツが気持ち悪いはずなのに、体のすみずみまで駆け巡る熱によってそこまで気にならない。緊張とは裏腹に、規則的に刻まれる心音はひとつひとつがやけに大きくて耳に響く。
 もし赤い糸があるなら、そしてそれが最初から繋がっているものでなくて、自らの意思で結ぶものだとしたら。私はこの糸を彼と結びたい、と思った。
 まだ、バスが来なければいい。少しでも長くこの時間が続けばいい。
 けれど濡れたままの体でいては、彼も私も風邪を引いてしまう。暖かくなってきたとはいえ春先は冷える。矛盾した気持ちが膨らんで胸を圧迫している。
「オレ、ただの後輩でいるつもり、ないです」
 酸素がまた急速に奪われていく。ゆっくり閉じてゆっくりあげられた瞼。そのまばたきに隠されていた秘密の囁きを、彼は今度こそはっきりと言葉にした。
 私にはもう『松野くんの先輩』でいる気はなくなっていた。
 けれどまだ気付かれたくはないから、もう少しだけこの気持ちに目を瞑らせていて。