背中辺りまで伸びていた髪を、ばっさりと切った。担当の美容師さんと相談して、肩につくかつかないかくらいのボブにしてもらった。
生まれてこの方ずっとロングだったため、なかなかに勇気がいったけれど、すっきりしていて可愛らしいボブにも前々から憧れがあった。
圭介くんはきっととても驚くだろう。髪を切ることも、それを思わせることも特に伝えていない。昨日も「また明日ね」といつも通り別れただけだ。
いちばん仲の良い子にも伝えていない。もしかしたら失恋だのなんだのと誤解される可能性はあったが、後から説明すれば良いだけだ。友人らの反応も楽しみだが、特に気になるのは圭介くんの反応だ。最初から種明かししていては面白くないだろう。
二の句が継げなくて口をポカンと開けていても可愛いし、むっと唇を引き結んで何か言いたげな顔もしそうではある。
こういう時は良い意味で期待しないことだ。口下手な彼に求めすぎるのも酷な気がする。口にしなくても構わないから、心に浮かぶ言葉のなかに褒め言葉のひとつでもあったらいいのにとは夢見てしまうけれど。
圭介くんとは高校で出会った。学年は同じだがひとつ年上だ。
彼にとって中学での留年は情けないこととして心に仕舞ってあるのだろうが、こうして巡り会えた私にとっては思いがけない幸運だった。
圭介くんが迎えに来てくれる時間よりも、三十分早く家を出て彼の家へ向かう。急いで朝ご飯を詰めた胃は、私の荒技に文句を付けているかのように苦しいと訴えている。
ガラリと変化した自分を披露するのが楽しみで、口元の緩みを抑えるのが難しい。彼の迎えを待ちきれなかった私の歩みは鼻歌まじりに弾んでいる。
前方からランニングをしているお兄さんが近付いてくる。おかしく思われないよう、慌てて表情を引き締めた。
目的地に到着した私はなかなかインターホンを鳴らせずにいた。
圭介くんは私が傷つくような反応は示さないと分かっていても、いざとなると緊張してしまう。どんな表情で出迎えてくれるだろうか。考え出すとキリがない。このままでは早めに家を出てきた意味がなくなる。時間に追いたてられる形でようやっとインターホンを鳴らした。
「……」
「……」
そうして出てきた彼に挨拶するのも忘れてしまった。圭介くんが私を見て驚くのは分かる。けれどまさか私も驚く側になるなんて。だって、そんなことあっていいのだろうか。
彼も私も穴を開ける勢いで互いの顔を凝視しながら沈黙している。
肩口からさらりと流れる髪、たまに寝癖が付いて背中でぴょんと跳ねていた毛先、彼が髪を結ぶ仕草。どれも別れ際に交わしている「また明日」以降も見られると思っていた。
「お、はよう」
「お、おう」
「髪、圭介くんも切ったんだね、びっくりしちゃった」
「いや、こっちの台詞だわ」
口をポカンと開けた私はなんとか朝の挨拶をひねり出す。間の抜けた顔を晒したのも私になってしまった。
長い髪でいつもほとんど隠れていた彼のうなじと耳が見えている。私を驚かせようというサプライズ性は感じられない。思い立ったが吉日を実行しただけだろう。
事前に教えてほしかったという不満は微塵もなかった。不満を感じるどころか感謝したいくらいである。
それよりも同じタイミングで髪を切っていたことにこそ驚きが隠せない。あれだけの長さを切ることに躊躇いはなかったのだろうかと思ったけれど、私の方が目線で問われている気がした。
ボブに憧れがあったから、そのうちまた伸びるから、頭がちょっと重かったから、ドライヤーで乾かすのが地味に時間かかるから。理由の半分はこんなもので、もう半分は髪の短い私のこともかわいいと思ってほしかったから。惚れ直してくれたら大満足だ。おつりがくるだろう。
「え、どうしよう髪の短い圭介くんもすごくかっこいい……好き!」
「は、なん、! ばっ!」
「ふふ」
照れて形にならない「何言ってんだバカ!」を補足する。途端に心が期待の芽を出してしまう。「私は? かわいい? 似合ってる?」と確認のていできっかけを作って言葉をほしがる自分がいる。喉元まで出かかっている本音をすんでのところで食い止めた。
期待しないことはほぼ不可能で、やはり本音をいくら閉じ込めようとも隙間から漏れ出てくる。言葉をもらえないことを残念がりたくないし、期待していたことを悟らせたくもない。明るくいなければと思う心とは裏腹に表情が曇るかと思ったけれど、初めて長髪以外の彼を見ることができた嬉しさで上書きされたため杞憂に終わった。
むしろ少しでも油断すると緩みを通り越してにやけ顔になりそうだ。
人は意外性を見せられると弱い、とよく言うけれど身をもって経験するとよく分かる。
「こんな偶然あるか普通?」
「気が合うね私たち」
「……合いすぎだっつの。ちょっと待ってろ、カバン取ってくる」
急いで部屋へ戻っていく圭介くんの背中が広く見えるのは、長い髪が揺れていないからだろう。
リビングの方から、かすかに言い争うような声が聞こえてくる。いきなりの来訪は迷惑だったかもしれない。そう思い肩を落としていると、またもや赤い顔をした彼がズンズンと玄関へ向かってきた。
涼子さんが壁から顔を出して笑っている。茶化されていただけだとわかり、安堵した私は彼とよく似た快活な笑顔へと笑顔で返事をした。
照れを紛らわしたいのか、圭介くんは私が涼子さんに挨拶をしていたわずかの間さえ待たず、視界から消えてしまった。慌てて階段を降りていく。すると階下から「ちゃんといるからゆっくりでいい」と少し大きめの声で気遣いが飛んでくる。はーいと返事をしながら下る速度を緩めた。
待ってくれていた圭介くんの表情はすっかり元通りだ。
おもむろに伸びてきた手に、機嫌の具合を盗み見たことを見咎められたのかと思ったけれど、予想に反して彼の指先は私の肩口にある毛先へと触れた。
「似合ってんじゃねーか」
「ほ、ほんと⁉」
「オレが嘘下手なの、オマエが一番よく知ってんだろ」
勢いよく顔を上げた先「おそろいだな」と少し恥ずかしげに歯を見せて笑う圭介くんがいた。一度は堰き止めて、無かったことにしようとした本音が実現して嬉しい。
首元がスースーするのも、軽くなった頭に新鮮さと戸惑いを感じるのも、つい癖で髪を後ろへ流そうとしてしまうのも。切る前だって長さがだいたい同じで、だから仕草も似ていた。
短くしてもきっと私たちは同じ仕草をするのだろうし、その度に共有した気持ちを積み重ねていく。
ヘアアイロンで軽く内巻きにした毛先から指を離して、彼はくるりと体の向きを変えた。
「あー……ちゃんとかわいいって思ってんだから、んなツラすんな」
彼から見た私はもしかしたら、どことなく沈んだ面持ちをしていたのかもしれない。すかさず前に回り込んで、圭介くんの照れ顔を拝んだのは言うまでもなかった。
そのまま勢いよく抱き着いて背中に手を回したところを、珍しく朝の早い佐野くんや龍宮寺くんに目撃されるまであともう少し――。
愛おしい偶然がもたらした幸福ごと、強く強く抱き締める。