久しぶりに再会した甚爾は、初めて会った頃と顔付きが変わっている気がした。一緒に仕事をしていたあの頃、どこまでも寒々しく冴え渡る、氷山のような雰囲気を纏っていた。余計な事は喋らない、馴れ合いもご法度。それは仕事をする上で重要だったし、彼のそういうところは別に苦手でも何でもなく、むしろ私とて仲良しこよしするつもりなんて微塵もなかった。怜悧さを備えた甚爾は顔も良かったからそれなりにモテたのだろう。女の人のところを転々としているらしく、その話を時雨から聞いた時、意外だと思った。養われる立場に甘んじるイメージはあまりなくて、むしろプライドが高いのではないかと思っていたからだ。それに、私に対してはやけに冷たかった。女性に優しい、というのは嘘だろうと内心で憤慨してもいた。甚爾から女扱いされるのは鳥肌ものだ、と自分でも分かっていたのに、女の性とはかくも面倒なものである。
ぱったりと姿を現さなくなったことには驚いたが、拠点でも変えたのだろう、くらいにしか思っていなかった。もとより仕事でだけの関係だ。互いに踏み込む理由もない。
行きつけの屋台に行った時、色褪せた暖簾をあげてすぐ、ラーメンを啜る甚爾と目が合った。見覚えのある黒髪とラーメンを咀嚼するのに合わせてもぐもぐと動く口元の傷。一度溶けて、また冷えて歪に固まったような、どこか物悲しいそんな印象を受けた。何が、とは説明しにくく、明示出来ないけれど。にやり、と懐古の気配を瞳に映して、甚爾は空いている自分の横の席を顎でしゃくった。
「久しぶり」
「変わんねぇな、オマエ。皺のひとつでも増えてんじゃねぇかと思ったけどよ」
「……失礼な。そういう甚爾こそ変わらないね」
指定された甚爾の隣へ腰を下ろすと豚骨ラーメンの良い匂いが間近でする。ぐっと顔を近づけて私の肌の粗探しをしたかと思えば、それを瞬時に終えた甚爾はまたラーメンを啜っている。
数年ぶりの再会。随分と砕けたものだ。こんなに簡単に至近距離を許す男ではなかったのに。
「豚骨ラーメン一つください」
私もいつものようにラーメンを注文する。屋台の店主は寡黙な人だ。今まで男の気配ひとつなかった常連の私に気安く接する甚爾のことをどう思っているだろうか。常連と親しく会話をするタイプの人ではないから、冷やかしをして来ないのは救いだった。そう思っていたのに、五分ほどして目の前に置かれた豚骨ラーメンを見て私はげんなりしてしまった。煮卵を追加した覚えはない。それにこころなしかメンマの量も多い。男の気配が全くなかった私に春が訪れたとでも思っているのだろう。私と甚爾の会話を聞いてどこをどうねじ曲げて解釈すればそうなる。我関せず、という表情をしているくせに無言で冷やかしてくるとは。常連想いと言えば聞こえは良いが、ややお節介気味ではある。否定して説明するのも面倒なので、私はそのまま「ありがとうございます」と小声でお礼を言って割り箸を割った。
しばらくお互い無言でラーメンを啜っていた。朝から仕事が立て込んでおり、食事を摂る暇さえなかったため食べる手が止まらなかった。今までどうしていたの、その問いを口にするのは簡単だったが、聞いていいのかどうか分からなかった。甚爾から口火を切るだろうか。興味津々と思われるのも癪で、私は誤魔化すようにひたすらラーメンを食べ、合間に水を飲んだ。
「ごちそうさまでした」
食欲も満たされ、秋の風情漂う空気で冷えていた体も温まった。満足した私は店主へ二人分の料金を支払う。甚爾はそれを確認すると、先に暖簾をくぐって出て行った。
「ごちそーさん」
「久しぶりの再会なので。それに前奢ってもらったし」
「よく覚えてんな」
人通りのまばらな歩道を並んで歩きながら、私は甚爾の顔をちらりと盗み見る。等間隔に立てられた街灯が私たちを照らしている。今夜は新月だから光が少ない。聞くタイミングを図りかねていると、甚爾が唐突に口を開いた。
「オマエ、俺といて良いのかよ?」
「そういう人はおりませんのでご心配なく……それに私は、誰も好きになりたくないの」
甚爾が私を馬鹿にしている気配はないのに、自分の口から出てきた台詞は言い訳じみていた。でも本心でもあった。恋愛と幸福が直結するとは断言出来ないし、必ずしも私にとって良い面だけではないはずだ。心の機微を積み重ねて相手と擦り合わせていくことはそんなに簡単じゃない。相性次第では内面を豊かにしてくれるとしても。例え将来を約束してくれる人が現れたとして、私の仕事上守れないリスクが高い。夢見るくらいでちょうど良い。それか、一夜限りか。意外にも甚爾が私の恋愛事情に対して気遣ってくれたのが可笑しかった。相手のことを慮るということからは、かけ離れた人物だというのに。だからこそ以前とは違うと感じたのかもしれない。
「……随分と無駄な悪あがきだな」
ぽつり、とまるで身に覚えでもあるようにそう言う彼の表情は暗くてよく見えない。或いは見せたくないのかもしれなかった。甚爾の顔をまじまじと覗き込んでしまいたい衝動をぐっと堪える。屋台から出て街灯を三本は通り過ぎた。四本目の街灯はもう少し先にある。その時にはもう、言葉に付随する感情は表情からすっかり消え去っているだろう。けれど、言葉の裏側を知られたくないのならもっと選ぶべきだ。私は見逃したりしないから。うっかり滑らせた言葉から想いが滲む。
「甚爾にもいたんだね」
「なにが?」
「大切なひと。心から愛してたひと」
誰かを愛しく思う日が来なければいい、と未来に願ってしまう私が聞いてはいけないだろうか。今もきっと愛している。この男が好きになるくらいの人だ。縋ることも許されなかったのだとしたら。一度手に入れた大切なものをそう易々と手放すような男でもない。手放していないならきっとここには居ない。その人と共に幸福を享受しているはずで、こんな悲愴な雰囲気を放ってもいない。ある時から姿を消した理由。甚爾も人並みの幸福をその手ひらに抱いていた。「悪あがき」という言葉ひとつで背景を察してしまう自分の聡さに溜息をつきたくなる。分厚い氷山を溶かしたその人と別れなければならない、相当の理由があった。甚爾が変わったとするならそれは、恐らく。
「いねぇよ、どこにもな」
大切な誰かが確かに存在していたことを否定しなかった。当たらないで欲しいことほど当たってしまう。ありとあらゆる社交辞令が頭の中に入っていても、今この場に相応しい言葉はついぞ出てこなかった。街灯が照らした甚爾の顔からは何も読み取れない。夜の中に聳え立つ木々は切り絵のようで、真っ黒な葉っぱたちが微かな風によってざわりと音を立てる。掴んだものが形を失い手のひらから零れ落ちて行く絶望を飲み込んで、そうして刻まれた胸の痛みにのたうち回って、どうして私の目の前に現れたのだろう。
「ただ何となくオマエの顔が浮かんだんだよ」
今までどこで何をしていたの、どうしてここにいるの、全ての疑問に答えた上で甚爾はよく分からないことを言う。仕事以外で親しくした覚えはないから余計混乱した。言葉の意図をなんとか探ろうと試みて動揺している私を見て、堪らず吹き出している彼を睨みつける。
「俺はオマエのこと案外気に入ってたぜ?」
「だから、なに。私に慰めろって?」
「話が早くて助かるな」
「……わざとそういうこと言ってる? 私のこと女扱いしたことなんてないくせに。最低って言わせたいんでしょ?」
その方が安心するから。くだらない世界だと見下していた甚爾がその世界で見つけた唯一のしるべを失った。もうきっと前を向く力も残っていない。だからそのまま暗闇に呑まれてしまった方が楽なのだろう。最低な自分にはすぎた幸福だったと。
「そういうとこは可愛くねぇな。黙って見て見ぬふりしとけよ」
先程よりもラーメンの匂いはしないけれど、まだ微かに残っている。至近距離で絡まる視線の昏さと矛盾する熱に呑まれる。甘さの欠片もない甚爾の冷たい唇の温度が私の心を掻き乱す。僅かに離れて今度は深く重なろうと迫る熱を掻い潜り、私は半ば訴えるように言葉を絞り出した。
「お断りします……! それに私明日も仕事だし、」
「それなら俺が片付けといた」
「え?」
ショルダーバッグに入れている携帯から、図ったように鳴り響くその電子音は時雨に割り当てたものだった。甚爾の顔を押し退け慌てて電話に出ると「明日の仕事は無しだ」と呆れたような時雨の声がする。どうして、と聞くまでもない。時雨もきっと驚いたはずだ。時雨の声音からして、彼と甚爾は仕事でたまに会っていたのだろう。私と組むでもなく単独で仕事をしていたのは相手の女性に対する気遣いだったのだろうか。嫉妬で甚爾を縛れる人? 否、幸福で甚爾を水浸しにしたすごい人。
時雨へいきなり連絡してきて、私の仕事を肩代わりする、と言ったことは想像にかたくなかった。不敵な笑みを浮かべている甚爾はどこまでも巧妙で、逃げ道を与えるつもりはないようだ。仮に私に恋人がいたとしても、先手を打たれていたに違いない。
「仕事以外は、って思ってんだろ。その仕事でオマエと過ごした時間どれくらいだと思ってんだ? オマエが望むなら、これでもかってくらい思い知らせてやってもいいぜ」
傍にいてほしい、ただその一言を素直にくれさえすれば、私より遥かに大きくて、己の強さと絶望の寒さを知るこの人の頭を抱き寄せるくらいはしてもいいんじゃないか、そう思ったのに。
やっぱり私に対しては優しくない。不遜で強引で、大きな体躯を遠慮なく預けようとする。私に支える力なんて無いのだから、そのまま沈むしか無いだろうことも、仕事仲間であるよしみを盾にすれば陥落することもお見通しなのだ。
私の面倒な女の性を、彼はきっと理解していた。それを心のどこかでほくそ笑んでいたのだろう。私には悟らせないで、自分だけが楽しんでいたなんて、どこまでも酷い人だ。けれど結局は心の奥底に知らぬ間に残されたしるしに導かれて、私は甚爾の深淵を思い知る。
『ご愁傷さま』と時雨の憐れみを含んだ声がして通話が途切れた。甚爾に目を付けられたら最後だって、私が一番分かっているじゃないか。
「……一つ貸しだからね」
「俺に恩を売るたァおもしれーこと言うじゃねぇか」
再び重なった熱が角度を変える直前、私は彼の唇に噛み付いてやった。
甚爾にばかり有利な条件を飲み込まされているのだ。効力なんてあってないようなものだとしても、これくらいの強がりは言わせてもらおう。
代わりになれるわけがない。それでも甚爾は次の棲家に私を選んだ。不用意に傷付く人も、これ以上甚爾の心が擦り切れることも、最後であればいい。幸福の残滓がどうか乾いてしまわぬよう、彼の心を守っていてほしい、と顔も知らぬ彼女に願う。
嘯く獣よ、虚像の愛をしらしめて。
企画「kindred」様へ提出