わたし自身はサプライズすることを、なんら特別なことだと思わなかった。もちろん今日がその人の誕生日であることは、特別な日であると思っている。「祝う」という行為に対して、そのために準備する手間を手間だと感じない。わたしの中での普通。むしろ楽しい。どんな反応を示してくれるだろうか、と想像すること。自分を取り巻く人々や環境がこの価値観を形成したと言っても過言ではない。喜んでもらえたらとても嬉しいけれど、嫌そうな顔をされたらそれはそれで、甚爾の情報として心に記しておけばいい。ぴったり同じ価値観なんて無いのだろうし、似ているだけで重ねたら少しはみ出ていたりするんじゃないだろうか。人の数だけ心があるのだから価値観だって同じ数存在している。影響し合って、また新たに発見することもあるだろう。ただあなたの生まれた日をお祝いしたい、という気持ちが僅か――米粒くらいの小ささでも伝わってくれればそれでいいと思っている。
わたしが抱えている、今しがた冷蔵庫から出した箱を見て甚爾が面食らったように瞬きをしたために、余計なことをしてしまったかもしれない、と体に緊張が走った。けれど、炬燵に入りながら寝そべってテレビを見ていた体をのそりと起こしたのを見て、わたしは止めていた呼吸を再開し、体から余計な力を抜いた。
「それ、お前が全部食えよ」
箱を見ただけで中身がケーキだと検討を付けるのと、少々粗暴な物言いと、一応は見てやろうと体を起こすその行動が、反抗期の男の子が母親に接するような態度だと思いながら、笑わないよう我慢した。祝いたいというわたしの気持ちを否定する気はないらしい。
壁掛時計に視線を向けると時刻は午後五時四十五分だった。夕飯にはちょっと早いかもしれないとは思ったけれど、食べるのは後でもいい。とにかく力作を早く披露したい気持ちが勝ってしまった。
「その台詞撤回させてあげる」
「やれるもんなら、」
「じゃーん!」
「お、すげぇなこれ」
「その名も、お肉ケーキです!」
甘いものが得意じゃないことはよく知っていたのでもちろん対策済みだ。商店街の馴染みのお肉屋さんに少しだけまけてもらったちょっといいお肉たち。それらをたまたま見かけた、記念日特集記事に載っていたお肉ケーキの形に似せて飾り付けし、用意していたケーキの箱に入れた。完全にケーキには見えなくとも、ケーキの箱に入っているという先入観が形の崩れている部分を補正してくれる。
よほどお腹が空いていたのか、お肉ケーキを気に入ってくれたのか、すぐさま前言撤回した甚爾は珍しく自分からいそいそとホットプレートを取りに向かった。どこに何があるかを教えた記憶はないのに、勝手知ったる動きで戸棚からホットプレートを取り出し、テーブルに乗せる。
「まさか肉だとはな」
「ろうそく立てる? 一応たくさん買ってきたけど」
「何本?」
「え……年齢分……かな」
「だから何本買ってきたんだよ」
「よ、よんじゅう…」
「ほう……四十、ね」
「だって誕生日は教えてくれたのに……年齢は教えてくれないし、不詳なんだもん!」
見た目からして二十代後半か三十代前半、絶対四十代ではないだろうなとは思ったものの、もしかするともしかするかもしれないため、足りないよりは良いだろうと多めに買ってきたのに、まさかそこを追及してくるとは思わなかった。それに、余ったら来年の分に回せばいい。来年もわたしは甚爾の誕生日を祝いたい。
あたふたと言い訳を並べるわたしをからかいながら、至極楽しそうに甚爾が目を細める。滅多に瞳の表情が変わらない彼が破顔している。遠目からなら掴めそうだけれど、近づけばすり抜ける雲のような性質を持つ彼が、こうして感情を見せてくれるのはほんとうに珍しい。だが瞬きの間にそれは消えてしまった。
手を伸ばして甚爾の頬に触れてみる。あたたかくて、少しだけ乾燥している。保湿重視のパックがあと二つ残っていたのを思い出し、あとで一緒にしてみようか、などと別の方向へ意識が向いてしまった。とにもかくにも、甚爾が楽しそうなら多少小馬鹿にされたって、それがいちばんなのだ。
焼肉のタレと取り皿とお箸、その他もろもろを用意するためわたしも腰を上げる。すると「ピー」とちょうど白米が炊けた音がして、わたしはさらに嬉しくなった。早めに炊飯のスイッチを押していて良かったと思った。
お肉の四分の三を平らげた甚爾は満足したのか、また炬燵にすっぽり入って横になっている。大きな猫だなあ、と思いながらわたしはテーブルの上を片付けた。
スポンジで食器を洗っている間は我慢していたが、水ですすぐとなるとさすがに寒すぎたのでお湯で洗おうとしているのだけれど、どうしてお湯になるまでこんなに時間がかかるのだろう、その間触れることのない出しっぱなしの水がもったいない、とじれったく思いながら蛇口をじっと見詰めていた。しばらくしてほのかに湯気が漂ってくる。指先で温度を確認しながら熱さを調節する。洗うためお皿の一枚を手に取ったとき、後ろから甚爾の右手が伸びてきてレバーを下におろすとお湯を止めてしまった。
手を洗いたいなら少し避けてほしいと言えばいいだけだ。わたしの作業をわざわざ止めるということは、何か今すぐ伝えたいことがあるのかもしれない。泡の着いた手をとりあえず洗わなければとレバーに手を伸ばそうとして、いきなり視界が変わった。
甚爾の左手がわたしの顎を掬う。塞ぐのではなく、そっとくっつけてわたしの唇の形を確かめるような、優しい口づけが降ってきた。あっけに取られたわたしが何も言えないでいると、今度は体の向きを変えられ、正面に甚爾の顔がくる。わたしの手から甚爾の黒いシャツに泡が移る。白は黒にすぐ吸い込まれて濃い染みを作った。わたしの耳たぶの柔らかさなんて知っているだろうに、歯を立てないで唇で食んでくる。
「あ、あの、お皿洗いしたいんだけど……」
「んなもん、あとでいい。ちっと早ぇけど姫始めでもすっか」
「……いや、まだ十時だよ」
「日付け越えるまでやってりゃいいんだろ」
脳内であれこれと心配の種が植え付けられるような暴論をかざして、甚爾は上機嫌に笑う。これは、あれだ。なんか嬉しいんだきっと。ちなみに年末の締めとしては「姫納め」という言葉があるらしいけれど甚爾は知らないのだろうか。知っていたら、わたしがへそを曲げるとでも思ったのかもしれない。否応なしに今までの女性遍歴を思い浮かべてしまうことになるから。
厚い胸元にあてていた手を甚爾の太い首へと回す。わたしの腰をゆるやかに甚爾の手が撫でているのが擽ったい。泡はもう透明になってわたしの肌と馴染んでしまった。傷も跡も記憶も、彼の背負う昏い感情ごとわたしが綺麗に洗ってしまえたらいいのに。
誕生日という特別な時間が過ぎ去るのは惜しい。静かにふけていく年の瀬に未来への願いを込める。
倖せとは永遠に無縁だと言って瞼を伏せた彼。その睫毛の影に積もった寂しさに唇を寄せたことを、わたしはずっと覚えている。無縁じゃなかったな、といつかその言葉を撤回してくれる日が訪れますように。
お皿洗いだとか、溜まっている洗濯物をどうにかしないといけないだとか、家事を中途半端にするのは嫌だけれど、もう心が完全に彼を向いて、迎え入れる準備をしてしまっているから諦めるしかない。明日の午前中は――下手すると一日、布団の中でのんびり寝て過ごすことになりそうだ。後回し確定である。
軽く触れる大人しいキスを受けながら、嵐の前の静けさのようだと、早くも及び腰になりつつある。