当たり前になっていることは、案外気付けないものだ。
私が任務に赴く三十分前に傑が部屋を訪ねてきたため招き入れれば、彼はごく自然な流れでベッドの淵に腰掛けた。膝の上をポンポン、と軽く叩いた彼の意図を瞬時に汲み取って、私はその膝の上に向かい合うようにして腰を下ろす。
身長の高い傑の顔がすぐ目の前にあることが、くすぐったくて嬉しかった。背伸びをしなくてもいいし、私に合わせて屈んでもらわなくてもいい。心の準備はとうに整っている。ほんのりとした彼の温かさに、気恥ずかしさでかしこまっていた私の温度も溶けていく。合わさった唇を伝って好きがたくさん伝わりますように。
二回目に備えていたのだけれど、一旦離れた唇が角度を変えて再度触れてくることはなかった。いつもならもっと味わうように、そして少しの取りこぼしも許さない、といった艶めかしい動きで吐息や声を平らげてしまうのに。熱で溶けたアイスクリームが、コーンを伝って落ちるのを阻止するみたいにして。
首を傾けつつ目の前の傑の顔を覗き込めば、何とも複雑な笑い方をしていた。やだ、もしかして口が臭かったとか?昨日同期と食べに行った豚骨ラーメンの残り香がした?ケアが甘かったかな。それとも、と食べ物以外でもいくつか原因であろうと思われる事柄を並べて、ルーレットのように脳内でぐるぐると回す。けれど、私のそれを止めるみたいにして傑が額を寄せてきた。
「足りない、って顔してたね」
「……私をこんなふうにしたのは傑でしょ」
くすくす、と嬉しそうに目じりを下げて笑う彼の額に、私も自分の額を少しだけ強く押し付けてみた。無意識にねだっていたキスを見透かされた腹いせである。彼と付き合うようになってからだ。初めの頃は至近距離で目を合わすことすら困難だったというのに、気付けばとてもナチュラルにスキンシップを図れるようになっていた。私の限界値を傑はじわじわと高めていっているのだ。当の本人には気付かれぬように。
私と同じ黒い瞳をじっと見つめていると、眉が困ったように下がり、嬉しそうだった笑みが、また先程の複雑な表情に戻ってしまった。
「したいのは山々なんだけど……その、舌をちょっと火傷してしまってね」
ふと昨日の夜ご飯のことを思い出した。そういえば、寮母さん特製の具沢山お味噌汁を勢い良くかき込んでいたのではなかったか。熱くないのかなと密かに様子を窺っていたのだが、やはり火傷していたらしい。何食わぬ顔で食事を進めていたから大丈夫だと思っていた。硝子にわざわざ治してもらう程でもないと思ったのだろう。
動かす度に鈍い痛みが走るからキスに集中出来ない、と申し訳なさそうにしている傑がなんだかしおらしくて可愛い。私の胸の内にふつふつと湧き上がるのは、好奇心と自分が優位に立っているという感覚。いつも交わしている甘い睦み合いのはじまりは綿あめみたいに軽やかで繊細だ。互いに主導権を委ねてはいるけれど、甘さはだんだんと私が飲み下せないくらいの粘度になり、やがてそれは彼へと移っていく。余裕が無くなるのはいつだって私の方だ。でも今は違う。舌を火傷した傑から、私の余裕が奪われることはない。だから、私から彼へと触れる程度の軽いキスを何度か贈ってみた。
「随分、可愛らしいことをしてくれるね。私のこと試してるのかい? いや、遊んでる?」
「足りなかったんだもん。これから任務頑張るためにチャージしとかなきゃ」
「……昨日、空腹に耐えかねて味噌汁にがっついた自分をこれほど恨めしいと思ったことはないよ」
これみよがしに残念そうな溜息をつきながら、傑の大きな体温が私を抱き締める。気を付けて、と言葉にしなくとも伝わってくる。応えるように彼の背に腕を回して、「うん」と一言頷いた。
「君が帰ってくるまでに、全力で治しておかないと」
「ええ、明日だよ? そんなに早く治るもの?」
「治るさ。男の下心を甘くみちゃいけないよ」
「それじゃあ、期待しとくね」
一度じゃ終わらないキスは当たり前になったけれど、この幸せは当たり前のものじゃない。心配はずっと尽きないだろうから、後回しにはしないで、その時その時をめいいっぱい愛するのだ。明日の自分に託すのは、面倒な報告書くらいだろうか。