※暗め


 渋谷のスクランブル交差点を初めて見たときは、声も出せないほど驚いた。生まれ育ったところでは、すれ違う人は皆知り合いばかりだったし、滅多に車も通らないから車の往来をあまり気にすることなく自転車で悠々と走れた。都会のように自転車や車を停めるためにお金を払うこともなかった。過疎と過密。学校の授業で習った言葉がこんなに現実味を帯びたことはない。それから、呪霊の数も桁違いだった。
 ずっと四級止まりだった私がようやく昇級できたのは、ある人のおかげだった。今はもういない。明確な離反の意志だけを残して、私の同級生であり、恋人でもあった夏油傑は姿を消したのだ。もう何回目かも分からないスクランブル交差点を歩きながら、道行く人と肩がぶつからないよう、忍者よろしく避けていく。

『すっかり板に着いたね』

 こちらでの生活に慣れてきた頃に彼から掛けられた言葉が、鼓膜の内側で木霊する。すっとしている目元を感心したようにさらに細めて、人で出来ている好き勝手に動く荒波を避けている私に向かって向けられた笑顔。初めて降り立ったあの地で、あまりの人の多さに圧倒され驚き固まってしまった私の手を引いてくれた、大きな手の熱さや厚さ。呑まれまい、と気を張っていた私を、呪術師として伸び悩んでいた私を導いてくれたのは傑だった。だから、人の波の中にいるといつも思い出してしまう。もらった気遣いと優しさを。そして、面影を。身長が高くて、黒髪で、お団子で。そんな人を見かけるたびに、私の心臓はざわりと疼く。古傷になんてしたくないし、そう思ってもいないのに。記憶と感触が一瞬にして想起されて、傑の存在の大事さを思い知るばかりだった。あの涼し気な表情からは想像も出来ない、彼と交わした蜜語の数々だって何一つ忘れちゃいない。
 信号を渡りきる手前、人の列を隔てて『何か』とすれ違った私は、それを追いかけて人の波を泳いでいる最中だった。思い切り振り返るとそれは見覚えのある呪霊だったから、反射的に体が動いた。その呪霊は私を誘い込むようにして、私が見失わないギリギリの距離を保っている。この先にいるのが誰なのか、容易に想像できた。
 傑がいなくなってから私の心境に起きた変化に、私自身戸惑い、恐ろしくなることがある。彼が引き受けていた膨大な任務は割り振られ、等級が足りなくとも格上の呪霊を祓わなければならないこともあった。来る日も来る日も祓い続けて、それでも終わりは見えないどころか季節によってはまた蛆のようにわいてくる。傑が離反したであろう理由を聞かされた時、私は妙に納得してしまったのだ。根本的な原因を取り除かなければ、このイタチごっこはいつまでも続くのだと。
 私の仲間がお前たちを助けるために死んだのに、なぜ罵倒されなければならないのか、お前たちが生きていたって呪いを生み出すだけじゃないか。仲間が死んだのはお前たち――非術師のせいだ。重く鈍った思考で何度かこんな風に考えたことがあって、とても恐ろしくなった。私らしくもない。連日の任務で疲れているのだ。しっかり寝て、美味しいものをたくさん食べれば元に戻る、きっと。いくつもの建物を通り過ぎ、人がまばらになり、どんどんと狭くて薄暗い路地へ向かっている呪霊を追いながら、追うというよりも道案内をされているようだと思った。私が来ることを件の人物は見越しているのだろう。角を曲がってすぐ、目の前に現れたものが邪魔で一振りする。けれど視界を確保してすぐに呪霊は役目を終えたかのごとく、消失してしまった。刃を振り抜いたときの違和感を追求したかったが、今は残穢を追うのが優先だ。集中するため目を閉じようとした時、それより早く私の視界は突如として暗闇に閉ざされてしまう。
「つかまえた」
 丁寧に発された、喜悦に満ちた言葉のひとつひとつが見えない鎖のように、全身を縛り付けるみたいだった。捕まえる側が捕まるとは実に滑稽だ。氷に手を翳した時のような冷気と、蛇が絡みついて喉元に喰らいつこうとする手前のねっとりとした何か。それらを纏った人物が私のすぐ後ろに立っている。背中越しに分厚い布の感触があり、残念ながら私のよく知る体温を感じることは出来ない。だがその気配が痛いほどに存在を訴えてきている。私はその人から、右手によって目隠しをされ、左手は首元に添えられ、動きを封じられていた。
「薄情者」
「……裏切り者、とは言わないんだね」
 自然と出た私のその非難の言葉に、高専の教室で交わした言葉と全く同じ声の高低で返事をして寄越す。まさか呪詛師となった傑と、こうしてまた再会することになろうとは。
「いまさら何の用?」
「迎えに」
 私を使って高専に何か仕掛けるつもりだろうか、と予想していたのにまるで違う目的に反応が遅れてしまった。私を連れて行くという明確な意志を示されて、心臓が痛む。
「帰るから離して」
「ごめんね。君に関しては選択肢をあげられない。どうしても置いていけなかった」
「なに、それ……!」
「時は満ちたんだ。だってほら、あれを見てごらん」

 彼の右手が目から外される。危害を加えるつもりも、殺す素振りもなく、私の言うことには全く耳を貸さない彼を不審に思いながらも、つい、と傑の長い人差し指が示している方へ顔を向けて、直後戦慄した。人が真っ二つになっていたからだ。そこを中心にして地面には黒い水溜まりが広がりつつあった。目と首から外された彼の手が、私の両手をそれぞれ優しく包んだかと思えば、目の前まで持ち上げられる。まるで自覚することを促すように。あれ……? なんで私の両手、こんなに赤く染ってるの?

「潜在意識に干渉出来る呪霊を手に入れていてね。君の意識に少し細工したのさ。君にとって人間だったものが、もう猿にしか見えないだろう?」
「ち、ちが、ちがう……!わたし、は……」
「ああ、やっと、君と一緒にいられる。この日を待ち侘びてたんだ」

 私がさっき邪魔だと思って斬り捨てたのは、紛れもなく人間だった。呪霊を初めて祓った時とは違う気持ち悪さに襲われる。吐き気が込み上げてくるのを必死で抑えながら、その場に力なくうずくまる。斬ったときの肉を断つ感覚が手に残っている。人を殺したという事実に震えがきた私の背を、いっそう優しく撫でる彼の手を振り払えない。最初から連れて行かなかったのは、傑なりに計画があってのことだった。私が恐れた自分自身の変化は、彼が呪霊を使役したことによる結果だ。完全に私が傑の思考に染まって覆せない過ちを犯すのを待っていたのだろう。私の帰る場所を強制的に自分の元へすげ替えるために。
「君だって本当は、私が迎えに来るのを待っていたんだろう?」
「そんな、自惚れてなんかない、よ」
 そうまでして私を傍に置いておきたいだなんで、狂っているとしか言い様がない。種明かしをされたところで、私が人の命を奪ったことも、私の視界に映る非術師が彼の言う猿にしか思えないことも消えようのない事実だ。友も、実績も、尊厳も全て奪って、これ以上何を搾り取ろうと言うの。
「新しい家族は皆、良い子達だよ」
「いっそ、ころして……」
「酷いことを言わないでくれ、私は君を愛してるんだ」
 ああ、あの言葉だけはあなたが離反してからも時効ではなかったんだね。
『私は君を一生離すつもりはないよ。覚悟はいい?』

・・・

・ミョウジナマエの担当区である■■区にて一般人の遺体発見。遺体の切断面と残穢からミョウジナマエの犯行と断定される。僅かに夏油傑の残穢あり。結託して逃走したものと見られる。