「灰原先輩……お元気で」
「ありがとう! 君も元気でね!」
『次に会えたらその時は』諦める理由にも、諦めない理由にもなり得る、どっちつかずのずるい言い訳を大事に持ったまま、ありきたりな言葉を彼に贈った一年後に、私は中学を卒業した。卒業証書の文言のように、恋愛も修了出来ていたら良かったのになあ、とすっきりしない感情が沸き立つ。立派にこの思いを伝えて成就させ新たな始まりを告げることも出来ず、きっぱり振られて終了させることも出来ず、この恋に関しては何も進展させられないまま、未だに停滞している。それならいっそ、あの日この幼い恋心も桜と共に散ってしまえば良かったのに。最初から好きになんてならなければ――悪あがきの常套句がいつも胸を占めてはため息が零れた。最早、解決の兆しを見せないこの押し問答は日常の一部と化してしまい、甘酸っぱさなんてものは萎れて見る影もない。
・・・
進学校なだけあって、来る日も来る日も勉強漬けの日々を過ごしていた。シャープペンシルの芯の減りが早い。僅かばかり黒板から意識を逸らせば、筆圧の違いによる音の大小が耳に入り込んでくる。窓ガラス越しに見る空が快晴であっても、その清々しさをゆっくり満喫する余裕もないままに、こうして日々が消化されていく。こんなことは抵抗にもならないのに過ぎ行く時間を留めるみたいにして、私は授業中に意識を逸らすことがままあった。
彼の進学先は知らない。同じ部活に所属していて、割と話す方ではあったと思う。けれど彼は生来の明るさからか、誰に対しても同じように接していたから、特別仲が良かったとも言い切れない。それが少し、悲しいところなのだけれど。
連絡先が手元にあったとしたら、勇気を出せていたのだろうか。卒業式後、あろうことか私のポケットに忍び込んでいた『これ』――家の引き出しに置いておくのも寂しい気がして今はブレザーのポケットに自らの意思で忍ばせている――が誰のものであるかが分かったのなら、勇気を出せるかどうかは、その真実次第かもしれなかった。だがそれ以前に『誰のものであるか』を聞く段階でも勇気を振り絞らねばならなかったし、聞くに聞けなかった疑問は疑念となって、時折期待も入り交じってしまって、もうそろそろ胸の内に秘めておくには限界が近かった。だって私が中学でよく接していた男子たちは、ごくごく限られていたんだもの。思考の一部が、中途半端で荒削りな恋の切っ先に引っかかっているようだ。どこに吐き出せばいいのかは、とうの昔から分かってはいるのに。
灰原先輩、たった一度きりで構いません。あなたに会いたいです。今、どこで何をしていますか?大好きなお米を毎日たくさん食べて、元気に過ごしていますか?皆勤賞だった先輩が風邪を引くところは、正直想像出来ません。炒飯にピラフ、パエリア、炊き込みご飯、リゾット――お米を使った料理は今では得意料理になりました。残念ながら披露する機会はありませんでしたが。
先輩が笑うと、私や部員の皆もつられて笑顔になります。両腕を広げて皆を抱き締めるみたいなあなたの笑顔に、私は何度も勇気付けられました。挫けそうになりながらも部活から逃げなかったのは、先輩のお陰なんです。平等に配られていた筈の優しさや笑顔を、いつしか私にだけ向けて欲しいと思うようになっていました。私は、先輩が大好きでした。いえ、今も、心の中にずっと、忘れ形見のように先輩への想いが灯ったまま、消える気配が無いんです。だからどうか、あなたの手で消して終わらせてくれませんか。ふぅ、と一つ息を吹き掛けてくれれば良いんです。蝋燭の火を吹き消すみたいに。…いつかどこかで、再会出来る日を心待ちにしています。
手紙にしたためたところで届かないから、こうして心の中でしたためておくしかない。気持ちの整理というのは、一体どうしたら上手く出来るのだろうか。恋というものは――特に片思いは、そうそう解けることのない強力なまじないのようでもあった。
「ここの和訳を……そうね、」
教壇に立つ、キリリとした先生の声に意識を戻すと、すぐ名指しで名前を呼ばれる。一呼吸置いて設問の答えを口にすると、私が話を聞いておらず上の空だと思っていたのか、先生は僅かに驚いてから「正解です」と口にしたのだった。
・・・
休みの日によく行くカフェへと向かう途中にリサイクルショップがある。いつもは素通りするのに、見えない何かに引き寄せられるようにして、入ってみようか、という気になった。
入口の自動ドアを抜けて見えたのは、山積みになっていて大小も色もデザインも異なる様々な洋服たち、映画のDVDや音楽バンドのCDが大量に入ったラック、テーブル、本棚、ソファに冷蔵庫や洗濯機と言った家具家電類、ブランド物の財布やバッグなどなどだ。リサイクルショップ全体の空気からは、何となく気配が沢山感じられる気がする。人が使った後だからだろうか。
店内をあてどもなく歩き回る。用途の分からないものも陳列されているし、お世辞にも趣味が良いとは言えないものも置いてある。別に欲しいものがあるわけでもないのに、どうして入ろうと思ったのか。先程から背筋が気持ち悪くてたまらない。どこに向かっているのだろう、自分の意思とは裏腹に歩みは止まらなかった。嫌な予感がするから出た方が良さそうだ、と踵を返そうとして、ぐっと足に力を入れる。だが、その予感は的中してしまう。流した視線の先で、私をここに引き入れたであろうと思われる物と目が合ってしまったのだ。
「(これは、やばい……! とにかく外に、っ、)」
髪の長さが左右で違うその人形の背後から、この世のありとあらゆる怨嗟を集めたような顔の数々が飛び出していた。霊的なものを見るという経験は初めてだった。だからか体があまりの恐怖に震えてしまい、その場から逃げ去ることが出来ない。急激に寒気が襲ってきて歯がガチガチと音を立てる。喉のあたりを鷲掴みされているかのように、息が全く吸えない。こひゅ、と喉が鳴って酸素を懸命に取り込もうにもやはり鼻も口も機能しなかった。顔の群れが近付いてくる。なぜか周りには誰もいないし、助けを求める事も不可能だ。『死』というものを初めて肌で感じた瞬間だった。
「ちょっと待ったあああ‼」
この場にそぐわない明るい声が聞こえてきて、暗闇が光によって祓われていく。その声、言葉だけでも祓ってしまえそうな大きくて快活な声は、中学生の時にほぼ毎日聞いていた声だった。だから忘れるはずもないし、間違えるわけもない。
「怪我とかしてない!?」
浄化、と言えば良いのか、おどろおどろしい存在は綺麗に消えて、その場の空気さえも澄んだような心地だった。泥水が清水へと生まれ変わったみたいに。胸に手を当てつつ、久方ぶりの灰原先輩を視界へ入れる。何か声を掛けたいのに胸は苦しいままで、呼吸の仕方を忘れたかのようで。寒気も圧迫感も無くなったというのに、私の体はまだ恐怖から解放されてはいないらしい。どうすれば、いいの。胸元の服を握り締めて必死に呼吸を取り戻そうとしていると、私の拳はあたたかくて優しい手のひらに包まれた。
「うん、大丈夫。もう大丈夫だからね。ゆっくりでいいよ。僕と一緒に深呼吸しよう」
細められた目元と私の強ばった呼吸をほぐすような声音は、そよぐ風によってさらさらと揺れる草原を思わせた。初めて見る笑みだった。陽気だとか快活だとか、そう言った印象の強い笑顔ばかり見てきたから、尚更驚いた。肺に酸素を満遍なく行き渡らせるように、彼と一緒に呼吸を繰り返す。灰原先輩の手によって包まれている自分の拳から力を抜いて開くと、息を吸うタイミングで私は彼の手を軽く握った。困惑した様子もなく、彼も同じように握り返してくれたのを感じながら、二酸化炭素をゆっくりと吐き出していく。
あの頃よりもいくらか体付きが逞しくなった気がする。顔立ちもそう、男の子から男性のそれへとなりつつあって、細められたその瞳と見つめ合っていると途端に顔が熱くなりだした。心の中でずっと鮮明に描いていた人が今、目の前にいる。卒業式の日に自分へと課した、ずるい言い訳の裏に潜んだ目標を叶える絶好の機会だ。今後も『次』があるとは限らない。
「はい、ばら……せんぱい」
「ちょっとは落ち着いた? まさか君とこんなところで再会するとは思わなかったよ。でも無事で本当に良かった!」
私に襲いかかってきたあれは何なのか、どうして彼はあれを消してしまえたのか、彼は一体何者なのか。先輩が進学した先に答えがあるのだろうか。さっき見た山積みになっていた古着のように他にも聞きたいことは山ほどあったけれど、私の中での優先順位はポケットに忍び込んでいた『これ』の持ち主とその真意を確かめることだった。繋がった右手はそのままに、まだ少し拍動が乱れている心臓を宥めようと、左手を胸元に軽くそえる。答えが不正解だったらどうしよう、という恐れよりも、中途半端なこの気持ちを抱え続けている方がきつい。区切りを付けて、いい加減私は私の人生の一歩を踏み出したい。
「これ、は……先輩のもの、ですか……?」
怖々と声帯を震わせて、ブレザーのポケットに入っているものを取り出すと彼へ見せる。私のポケットに忍び込んでいたのは、いつぞやの学ランのボタンだった。卒業式が終わり、灰原先輩が中学校を後にする少し前に、私は彼に「お元気で」と言葉を贈った。周りに人が沢山いたのもあり、告白する勇気は最後まで出なかった。だからこうしてズルズルと引き摺っているわけなのだが。その日に私が会話した男子は彼と同じクラスの二人だけ。その二人とは委員会の連絡事項のやり取りのみだったし、気付かれないよう私のポケットにボタンを入れる事は無理だった。
灰原先輩の黒い瞳が弾けてしまいそうなほど見開かれている。何も期待するなと何度も繰り返す。卒業式の日にボタン、と言えばやはり思い浮かぶのは『第二ボタン』だ。友人たちもこぞって、気になっている人や好きな人、恋人の元へと、意気込んでもらいに行っていた記憶がある。私は特に興味が無かったので笑って見送るだけだった。それがどうだ。魔法のように第二ボタンと思しきものが入り込んでいたのだから、びっくりどころではない。繋がっている彼の手がぴくりと動いた。
「……違うよ」
象られた言葉は否定であるのに、その響きは断言するのを躊躇っているという矛盾に満ちていた。俯いてしまった彼を追求したくとも出来ない。他の男子の可能性も無いわけではなかった。私の気が逸れている内に忍び込ませたのかもしれないからだ。
好きだと伝える前に振られたような心持ちになったけれど、第一に私が灰原先輩を好きだということに気付いているのかが率直な疑問だった。立ち止まった足を再び前に動かすために必要な工程は明白である。
「期待しないようにって、自分に言い聞かせていたんですけど、これが第二ボタンで、灰原先輩のだったらいいなと思ってしまいました」
開いていた手のひらを閉じてボタンをポケットへと入れる。繋がっている手に今更ながら照れくさくなってきて、解こうと手から力を抜いたのに灰原先輩の手が私の手から離れる気配はない。内側でくすぶっている熱を逃がしながら、どこに視線を固定していいものか、と右や左へ彷徨わせる。好きなものや苦手なもの、やりたいこと、やりたくないこと。感情の境目がはっきりとしていて、表現するときだって無邪気な子供のような彼。中学の時はそうだった。だが今の、何かを迷うような彼は知らない。それぞれが己の道を行く間の変化を、互いが知ることは出来ない。私も彼から見るとどこか変わったと感じる箇所があるのだろうか。遠くで人の話し声が聞こえる。彼以外にも誰か来ているようだ。
「……ごめん、嘘ついた。そのボタン……本当は僕のなんだ」
「へ……?」
「好きな女の子を特別扱いも出来ないで、でも自分の気持ちは知っていてほしい、なんて自分勝手で都合の良い理由で、君のポケットにボタンを入れたんだよ。君は勘が良いからきっと気付いてくれるだろうなって」
ずっと心に凝っていた期待混じりの疑念が晴れて、消えていく音がした。
「ごめん。ずっと大事に持っていてくれたんだね。記念に、くらいの軽い気持ちのつもりだったのに、僕が中途半端なことしたせいで」
「いいえ、私も勇気を出せなかったからおあいこです」
私が勇気を出せなかった理由と、灰原先輩が勇気を出せなかった理由は全く質が異なっているということは、先ほどの恐ろしい体験を経て何となく分かってしまった。私が『死』を予感したあの存在を彼は簡単に消し去っていたけれど、それは彼が今まで積み上げてきたものがあるからだ。私が彼に対して抱いた変化の印象が物語っている。そして彼はきっと、彼自身の命を懸けて戦わねばならない場面があるのだろうことも薄々感じていた。
「その、色々と説明したいんだけど、言えないことも多くて」
「はい」
「約束が出来ないんだ。いや、出来るんだけど、守れないことが多いと思うし、何より……」
「……はい」
「……永遠に会えなくなる、可能性もある」
こういうところははっきりしている。一番伝えにくいところを彼は絶対に隠さない。その事実が悲しくても辛くても。
「好きな子には、幸せでいてほしいから」
顔を上げた灰原先輩の苦し気に歪んだ目と目が合った。不謹慎だ。こんな場面で嬉しいと感じてしまうなんて。それでも、卒業してからもずっと、私と同じように彼もまた私のことを思い続けていてくれた事が嬉しかった。すっかり萎びていると思っていた甘酸っぱさが、どこからともなく湧き出てきて、全身にじんわり広がっていくようだ。
「今、先輩の気持ちを知れた私は、もう既に幸せですよ」
「あっ、」
「私が知らないまま……先輩が、っ……無いとは思ってますけど、いなく、なるのはいやです……二度目の勝手は許容出来ません」
「そっか…う〜ん、……なんかかっこ悪いな僕」
「ふふ」
苦く笑いながら両手で頭を抱えている彼に笑みが零れた。彼がいない未来なんて私はいらない。
成就しえなかった思いが実った奇蹟を、新たな始まりの関係を紡ぎたいという願いを、どうか終わらせないでいて。
今までの日常を改変させるとまではいかなくとも、平和を享受しきった私の考え方は変えねばならないだろう。灰原先輩のことを理解し、寄り添えるように。今は言えないことも、いつかきっと伝えてくれるはずだ。
「恋人同士を望んでいない、と言ったら嘘になります」
「……うん」
「守れなくても、ただ約束できるだけで私は嬉しいんです。だって今日会うことがなかったら、私はずっと拗らせたままでしたから」
「こんな自分勝手で情けない僕と、約束してくれるの?」
停滞からようやく抜け出したこの恋を、大切にあたためて育んでいきたい。望む形になれるかは分からないけれど、今はまだお互いに気持ちの整理をする時間が必要だろう。互いが影響し合って心の形を変えていく。それがぴったりとはまればいいなと思う。私の幸せと彼の幸せが、イコールであれば尚更嬉しいけれど。
「最初の約束は何にしましょうか」
「う、えっと……こういうの初めてだから、……あ〜〜! やっぱかっこ悪いな僕! 七海だったらこういう時なんて言うんだろ」
「七海さん……?」
「僕の同期! とっても頼りになるんだ!」
百面相をしている彼を観察していると、遠くで聞こえていた声が近くで聞こえた。「灰原!」と低いけれど重くはない、背筋がしゃんと伸びるような声が彼の名を呼ぶ。
「うわっ、やばい! 七海に怒られる……!」
「ごめんなさい! お仕事? の最中でしたよね…」
「いいよ、謝らなくて! 君と再会出来たのが嬉しくて、ついつい話し込んじゃった。あとの事は補助監督の人にお願いしておくから!」
仕事という認識で合っているのか分からないが、特に訂正されないところを見るとそうなのだろう。まだやることが残っているらしい。彼も私もタイミングを合わせたかのように携帯を取り出すと、連絡先を交換した。
「ごめんね! 絶対連絡するから! それと約束の内容も考える! だから待ってて!」
私が一つ頷きを返すと、彼は安心したように笑って、声の主――七海さんの元へと駆けて行った。頼りになる同期。どんな人なのか、七海さんは私の知らない灰原先輩を知っているのだと思うと、羨ましいという感情が胸中に広がっていく。
自分の心が止まったまま、日々だけが消化されていくことがたまらなく虚しかった。秘め続けていた思いが溶けてなくなった今、少しは快晴の青を堪能する余裕が出来るといい。ポケットに仕舞った彼の第二ボタンが、より一層特別な物となる。体の震えもピタリと止まっている。
絶対連絡する、と言った彼は気付いているだろうか。これが初めての約束だと言うことに。