だいたいいつも私がもてなす側であり、面倒を見ているのだけれど、今日ばかりは面倒を見てほしいし、甘えさせてほしいと切に願いながら、自宅のドアを開けた。電気は点いているが、やけに静かである。まず第一に、気まぐれなあの人のことだから、家にいるとは限らない、とは思ったけれど、靴があるからやっぱりいるのだろう。
たまに窓から入ってくるという荒技を使うため、靴が無いのに部屋で寛いでいることがままある。ちなみに私の住むここは三階である。最初こそ驚いたが、言っても止めてくれないので早々に諦めた。それに、人には慣れという便利な機能が備わっている。
乱雑に散らばった彼の靴を並べて隅に寄せ、靴棚上の木製トレイに鍵を置いた。そのすぐ隣にある観葉植物は、この前彼と買い物に出かけた際に買ってきたものだ。部屋にも同じ物を置いている。
一応は「ただいま」と声を掛けたものの応答はなく、靴を脱いで部屋に上がる。そのまま廊下とも言えない、冬の空気によって冷やされた短さのそこを通り扉を開けた。
すると、暖房によってあたためられた空気が、トナカイよろしく赤くなっているであろう、私の鼻先に当たって、そこを起点としてじんわりと暖気が体を包み込んでいく。
部屋の中心には、おそらく競馬関連の書籍だろう――に熱心に目を通している真っ黒な人がひとり。
「甚爾さん、いた」
「ん? よォ、邪魔して、」
彼がいると分かった途端、張り詰めていた糸が断ち切れてしまった。私はその場にバッグを取り落とすと、なりふり構わず彼の胸目掛けて飛び込んでいく。落ちたバッグから、持ち帰りの書類が床へ無造作に散らばった。
私が突進するように抱き着いても、壁のように動かない分厚い胸板にぐりぐりと額を押し付けながら、不明瞭になっていく視界に、下唇を思い切り噛み締める。
家に着くまでは、絶対に泣かないと決めていた。彼がいてもいなくても、きっと私は愚痴を叫びながら泣き喚いていたけれど、心が痛んで仕方の無い夜は、他の誰でもない彼の体温にくるまれたかった。
「おい……どうした」
「上司がした大きなミス、私のせいにされた……」
普段の自分からは想像すら出来ないこの行動に、私の異変を察知した彼の探るような声が静かに降りてきた。
今までも、嫌がらせのように仕事を振られたことが幾度もある。私の何かが気に食わないのか、やたらと態度も刺々しい。それでも耐えてきたのは、今の仕事が好きだからだ。そういう人に限って、都合が悪くなると他の人たちに気付かれないよう、巧妙になすり付けてくる。
私が違うと声を上げても覆すことが出来ないのは、その上司が社長の親族だからでもあった。周囲の人たちもそれを分かっているから迂闊に発言出来ない。
しかしながら、今日のことは相当堪えた。社長にも頭を下げ、取引先にも謝罪に行った。私が少しずつ構築していた信頼も、努力も粉々に破壊された気がした。
彼の服が濡れてしまうとは思いながら、どうしても涙が止まらない。滲んでは鮮明になり、また滲んでは悔しさが目の表面を覆っていく。明日が休みで良かったと心底思う。
大きな背に腕を回してしがみつくようにしていると、ぽんぽんと宥めるみたいにして、彼の手が私の背を優しく叩いた。
「オマエが仕事辞めたら誰が俺を養うんだよ?」
「清々しいまでのヒモ」
「ハッ! 今更だろ」
軽口を叩きながらも、そこには辞めるな、という意図は全く含まれていないし、どちらかと言えば、辞めたいのか? という問いかけめいた響きの方が強い。
嫌がらせされる度に辞職しようと数え切れないくらいに思った。誰かに相談することも出来ず、上司の理不尽に愚痴を零しては、結局我慢するしかない、と結論の決まっている話題を挨拶のように繰り返す日々。
彼はいい加減に見えて、意外と私のことをよく見ている。私がこの仕事に誇りを持っていることを知っているから、問うているのだ。
「がんばる……」
「俺のために稼げよな」
「うん……だから、今日は甘えてもいい……?」
問いかけの答えは決まっていて、弱気になる度自分で自分に発破をかけてきた。けれど今日はさすがに心が折れてへたりこんでしまっていたから、彼の素直じゃない励ましの言葉と、何だかんだで沈んだ感情を上向きにしてくれる体温に、助けられたのだった。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、彼を見上げる。今日はもう料理も、お皿洗いも、ちょっとした部屋の片付けも、お風呂にお湯を張るのも何もかもしたくない。全てを放り出して、目の前の大好きな人のぬくもりに思い切り身を委ねたい。
ふっと口の端をゆるく上げて笑う彼の顔が、ゆっくりと近付いてくる。暖房の効いた部屋にいたからだろう、いつもはひんやりとした唇がとてもぬくい。ほんの少し離れてから、今度は下唇を優しく食まれ、触れる程度にまたキスを落とされる。私が噛み締めていたそこを、まるで労るみたいに。
こんなの、反則じゃないか。心臓の拍動が、耳元で太鼓を打ち鳴らされているみたいに響き渡っているし、体の内側が沸騰でもしてしまいそうだった。
彼の親指が私の目元をなぞって、涙を拭う。そのまま指を自身の口に入れると「塩っぺぇな」と呟いた。
「そいつ男か?」
「ううん、女の人」
ふーん、と自分から聞いておいて気のない返事をする。特に意味はないのだろう。
しょげて萎れていた心が、彼から与えられた優しさによって少しだけ回復した気がする。でも、まだまだ足りない。私は彼の首に腕を回すと、羞恥を隅に追いやって、再び顔を近付けていく。重なり合う直前、彼が「あ」と間の抜けた声を出した。
「そういやぁ、あれ、花が咲いてたぞ」
「え、うそ⁉ わあ、本当だ咲いてる!」
彼の指が指し示した先にある、丸くて肉厚の葉っぱを持つ可愛らしい、玄関にも置いてあるものと同じ観葉植物。観葉植物のコーナーでどれにするかを選んでいると、彼が持って来たのがそれだったのを思い出した。
彼にぴったりだと得心したその植物の名は「金のなる木」である。花が咲きやすい方がいいだろうと、桜花月という品種を選んだ。
ここ最近は特に仕事で疲れきっていたため、花の様子を見る余裕もなく、玄関に置いてある方はまだ咲いてはいなかったなあと記憶を辿る。
彼に絡めていた腕をほどいて、観葉植物の傍へと移動した。淡いピンク色の、小さな星型の花がとても可愛らしい。やっぱり植物は癒される、とつぶさに観察していれば、後ろから彼に抱き込まれる。途中で水を差したのは自分であるのに、彼から意識を移動させたことに対して大層ご不満なようだ。
「俺から離れろとは言ってねぇ」
「ふふ、甚爾さんてたまに可愛いこと言うよね」
花から視線を逸らさずそう言うと、彼の大きな手が私の顎にかかって、斜め上を向かされる。ぶう、という文字が貼り付けられているその表情に、私の疲れも悔しさも悲しさも一切合切が吹き飛んでしまった。
先程より僅かばかりの烈しさを秘めた唇に、私も応じるように目を閉じたのだった。
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休み明け早々事件である。
「と、甚爾さん!」
「お、なんだ今日はやけに早いな」
「聞いてよ! プライドがエベレスト級にくそ高い上司が、皆の前で私に謝ってきたの! 何か悪いことでも起こる前兆⁉」
そうなのだ。出社して自分のデスクに座っていると、上司がつかつかと近寄ってきたため身構えたのたが、なんと絵に書いたような直角のお辞儀で私に謝罪してきたのである。
口があんぐりというのはこのことかと妙に納得してしまった。
その後は社長室にも呼ばれ、社長直々に謝罪を受け、取引先にもそれとなく弁明してくれた上に、慰謝料と称して金一封まで無理やり持たされた。だって、受け取らないと退勤を認めないとまで言われたんだもの。
見せてみろ、と手を出した彼に金一封を渡すと嬉々として中身を取り出し、扇状にお札を広げている。
「お! 一攫千金とまではいかねぇが、上々だな」
含みのある笑いの意味も、意味深な言葉の意味も私には全くもって分からなかったが、これから思う存分仕事に打ち込めるのなら、それに越したことはない。
「あれのお陰だろ」
ぽかんとしている私に、彼は立てた親指で金のなる木を指し示す。ああなるほど、花言葉の通りというわけか。何となく作為的なものを感じたが、まさかね、と考えを打ち消す。
「オマエ自身も案外、"金のなる木"だったりするんじゃねぇか?」
「どこまでもヒモ根性見せてくるじゃん」
「金がねぇと幸運だって寄ってこねぇの知ってんだろ?」
「うん知ってる! 甚爾さんも寄ってこないしね!」
「調子乗んな」
頭を軽く小突かれながらも、不敵に笑う彼の胸に飛び込んだ。そうして彼の顎が私の頭に着地する。たったそれだけのことも、私にとってはとても幸せなことなのだ。見えていないだろうから、と私は満面の笑みで彼の胸元に顔を埋めた。
出社する度、社長や上司からしばらくは腫れ物にでも触るかのような態度を取られた理由は、今でも謎に包まれている。
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