わたしの安住の地が消えた。
足繁く通っているとある喫茶店のドアを開けた瞬間夏油傑と目が合い、わたしは絶望した。
古めかしい木のドアが軋んだのと、彼がわたしに声を掛けたのは同時だった。「やあ」じゃないんだわ先輩。
カララン、とドアについたベルの音が虚しくわたしの頭上に落ちてくる。右手をあげて朗らかな笑顔を向けてきた夏油の挨拶を黙殺してわたしはカウンターに腰掛けた。
しかもよりによって、彼が座っている席はいつもわたしが座っているところだ。
「なんでここにいるんですか」
「君が教えてくれたんじゃないか」
「お店の名前も場所も教えてないんですけど。それなんて言うか知ってます? ストーカーって言うんですよ」
ひと息にまくし立てると、夏油の笑顔がにわかに曇ったので慌てて閉口する。困惑した表情の店主にアイスティーを注文し、わたしは改めて夏油の方へ胡乱な視線を向けた。
三人いる先輩たちの中でも特に夏油傑という男が苦手だった。灰原は夏油のことを尊敬していると言う。
優しくて強くて気が利いて頼りになる先輩。それはその通りかもしれない。でもこの人はタガが外れると一番やばいタイプではないかとわたしの本能は告げている。
「猿が」と昏く吐き捨てていた彼を見たことがある。地を這うような声というものを初めて聞いた。それ以来さらに苦手意識に拍車がかかった。わざわざわたしに関わろうとしてくるのも解せない。
「ここ、情報屋も兼ねているだろ?」
「……知り合いに教えてもらったんです。高専も把握してますよここのこと。店主も元々高専関係者だそうです」
週に三回は通っているからどこかのタイミングで後を付けられたのだろう。確かに彼の言うとおり、わたしが教えたことになる。気配に気づかず尾行を許した時点で自分の負けだ。
高専生が来ることはほぼないと聞いていたのもあってか、この喫茶店を知っていることに対して優越感を覚えていた。
学生の自分が大人に混じってひととき一人前の術師気分を味わえ、なおかつ同じ高専生のいない気の置けない特別な場所。飲み物も軽食も美味しいし、ジャズが流れていてリラックスできるこの空間にいると肩の力が抜ける。
やはり夏油は切れ者だ。ほかの客と店主のやり取りから見抜いたのかもしれない。
「またここに来てもいいかい?」
「わたしの許可なんていりません。会員制でもないですし、お好きにどうぞ」
「言い方を変えよう。私は君と仲良くなりたいんだ」
来ないでくださいと小憎たらしく言えるほど、上下関係を軽んじられれば良かった。挨拶は思わず黙殺してしまったけれど。
露骨に見せかけた遠回し。潜む意図に捕縛されるのは嫌だ。
スッと重力を感じさせない動きで夏油は立ち上がる。あの体格だからそれなりに重さはあるだろうが、彼の所作はいつも軽やかである。
反射的に動きそうになった足へと、根を張るつもりで力を込める。入口付近のカウンターに座っていたこともあり、動くのはあからさまかと思った。
「そうやって逃げられると追いたくなる」
「じゃあわたしがしつこく先輩を追えば、引いてくれるってことですか」
「そんなことはない、大歓迎だよ」
どっちに転んでもわたしは夏油と関わらねばならないらしい。だったら塩対応を貫いた方がまだマシに思えてくる。最低限の先輩後輩の間柄を保っていればいいではないか。
「君は私の本質を見抜いているね」
「……買い被りすぎじゃないですか?」
「本質を見抜く力を見込んでいるんだよ」
もはや夏油の中でそれは事実になっている。薄い紙のような笑みが剥がれる。
その下から表れた顔は、どことなく疲労を滲ませていた。長考してどうでもよくなってを繰り返したあとに似ている。
「君の前では、無理に笑わなくても良さそうだから」
てっきり怖いくらいの真顔で、無理難題でも投げつけてくるかと予想していたが大きく外れた。最強と謳われる人でも、悩みのひとつやふたつはあるらしい。
「カツアゲでもされると思った?」
「わたしにとっては時間のカツアゲと言いますか……」
「ひどいな」
苦笑している夏油はそのままわたしの隣へ腰を下ろす。わたしと同じものを注文している朗らかな笑顔を見ながら、苦手意識は根強いと感じる。
ただ、わたしに近づく意図を今のようにきちんと明示してくれるなら、避けない努力はしようと思う。人は理解の及ばないものに恐怖を抱いてしまうから。
八方塞がりになる前に解決するといいですね、と慰め程度に心の中で呟いておいた。