「圭ちゃんみてみてー!」
「あ? んだその汚ねぇやつ」
わたしの世界を変革させたもの。彼の運命を決定づけたもの。
漫画の世界からいきなり引きあげられた彼は、わたしの手元を見るなり目を眇めた。楽しんでいるところを邪魔するつもりは毛頭なかったけれど、実家にて片づけ中に出てきたそれを一秒でも早く見せたかった。
疑問符を顔いっぱいに貼り付けた彼は、どうやらピンと来ていないようだった。記憶から答えを探そうと粘る様子も見せず、爪で畳のささくれをいじりながらチラチラと漫画の方に視線を向けている。汚いと称したこれは、彼自身がわたしに寄越したものであるのに。
「宝の地図に見えなくもないけど……」
「一○○パー見えねぇよ。『お知らせ』って書いてあんだろが。年季入りすぎだろその紙切れ。なんでそんなもんずっと取ってんだ?」
「えー、ほんとにわかんない? ほらよく見てよー」
漫画の世界に戻るのは一旦待ってほしい。あとでいくらでも読む時間はある。夜通し読んだって構わない。別に実家でなくたって持って帰ればいいのだから。
なんとか彼の興味の端っこを握りつつ、自力で思い出してほしくて少し粘ってみる。
「小学校んときの……?」
「そう! まだ圭ちゃんがわたしに対してつっけんどんな態度取ってた時代!」
「うるせぇなこの口はさっきから」
無遠慮な手がわたしの口を挟み込む。頬の肉が中央に寄って口がタコのようになる。『可愛い』から遠ざかっているに違いない。その所業を片手でやってのけた彼はわたしの不満気な顔を見て多少は胸がすいたのか、そんでと続きを促した。
「授業参観がどうしたってんだよ」
「仕方ない……鈍い圭介くんのためにスペシャルヒント!」
文字列から読み取った情報は、彼の中で意味を成さなかったらしい。思い出すにはまだ決定的な何かが足りないようだ。
本人は『お知らせ』どころじゃなかったんだろうな、というのが容易に想像できたので覚えていないのも仕方ないだろう。これ以上引き延ばすと彼は完全に匙を投げてしまう。
ヒントというよりまるっきり答え――『お知らせ』をひらりと裏返すと彼は漫画を放り出して、わたしの手から猫に負けずとも劣らない速さで紙をひったくった。
「おまっ、これ、ウソだろ⁈ なんで持ってんだよ‼」
「捨てたら圭ちゃんからの当たりが強くなりそうだと思って」
当時の記憶がなだれ込んできたのか、彼の表情が一人芝居でもしているかのように次々と変わっていく。
「ぜってぇ なかせてやる≠ネんて物騒だよね! わたしの分のお知らせは圭ちゃん家に届けたし、それお母さんに見せるときどうしようかと思ったんだから。見せないわけにはいかないしさぁ」
先生から配られたばかりのお知らせの裏に『果たし状』と書き、筒状に丸めたそれをわたしに渡してきたのだ。靴を履き替え下校する直前の出来事だった。わたしが受け取ったのを確認すると彼はものすごい早さでその場を後にした。わたしの制止の声も聞かず。なんせ彼の靴箱には靴が残ったままだったのである。帰宅した彼の頭の上にたんこぶが出来ないといいけれど、と塩ひとつまみ程度の心配をしていたら、やっぱりげんこつが落ちてきたらしい。
「『状』の点の位置が間違ってて、つくりが太になってるところ気に入ってるんだ」
「馬鹿にしてんだろ!」
くしゃくしゃにしてゴミ箱に放りこまれるならまだいいが、燃やされてなかったことにされそうな勢いだったため、すぐさま彼の手から取り返す。片やゴミ、片や宝物。もらったのはわたしなのだから所有権はわたしにある。そそくさと段ボールへ仕舞おうとするのを、なんとも言えない表情で見守っている彼が意外だった。
「……泣かすっつったのは、そういう意味じゃねぇから」
「知ってる。お母さんが教えてくれた」
「は⁉ なんでおばさんが知ってんだよ」
「嬉し泣きさせてやるって意味だったんでしょ? お母さんがお義母さんから、ってなんかややこしいな。涼子さんから、圭ちゃんがドラマで女優さんが嬉し泣きしてるシーンを見て『幸せなのに泣くのか?』って質問してきたことがあるっていう話を聞いたらしいよ」
意訳「オレがオマエを泣くほど幸せにする」。そう結論付けた母親たちはおおいに盛り上がったそうだ。さぞや酒の肴になったことだろう。なかなか素直になれない彼の気持ちにわたしが気づいたのは、だいぶ後のことだったけれど。
「圭ちゃんの勝ちだね。わたしプロポーズされた瞬間泣いちゃったし」
「……勝ち負けなんて最初からねぇ」
二人の辿ってきた軌跡を思うと、彼の方がけっこう頑張ってくれたのではないかと思う。
よくある恋愛三ヵ月周期や、三年周期の定説を彼は「くだらねぇ」と一蹴した。永遠がないことは知っている。始まりがあれば終わりもある。命の終わりではなく、関係が断ち切れ修復不能になってしまうことを恐れていたわたしに、自信満々で言い切った彼の言葉はいつまでたっても錆びつかず、褪せることもない。
「更新? んなもん毎日してるっつうの。片思い歴舐めんな」
ひたむきに与えられる幸福は、落ちる砂がとだえない砂時計のようだ。それはわたしの中へ静かに降り積もり息衝いている。時を経るごとに二人の関係も強く深くなっていくんだろう。たまには溢れてしまうかもしれないが、受け止める器もきっと大きくなっていく。
開けたダンボールを閉じながら、またしばらく眠るだろう果たし状の文字をゆっくり目でなぞる。初心は大事だと思い出させてもらった気分だ。
「ミミズよりはだいぶ進化したよね」
「んっとにオマエはぁ……!」
不貞寝を決め込んでいた怒れる彼の犬歯から逃げ切れるわけもなく、とうとう口を塞がれてしまった。