チョークの折れる音がした。相当な圧力がかかってひしゃげるみたいな音だった。ノートから視線を上げると先生が私の方――正しくは私の後ろの席の流川くんを睨みつけていた。私は清く正しく学校生活を送っているだけなのに、どうして怒られている気分を味わわなければならないのだろう。
授業初日から居眠りをかました流川くんが、教師から問題児のレッテルを貼られたのは当然のことと言える。顔と名前を覚えるのにはそれなりに労力を使うが、流川くんに至っては使わなくて済んだ。私だけじゃなく、クラス全員そうかもしれない。
彼の健やかな寝息を聞いていると学校にいるという緊張感が抜けて、家にでもいるような感覚になる。職員室であれだけ叱責を受けているのに意にも介さない。自分の欲求には素直すぎて感嘆する。バスケは相当体力を消耗するのだろうし、そりゃあ静まり返った授業中に先生が一定のスピードで話す声は子守歌のように聞こえるだろう。
先生が教科書を丸めて流川くんの頭をぽこんと叩いた。部活に精を出すことを咎めているんじゃない、というせめてもの気遣いが感じられる叩き方だった。身じろぐも彼は起きない。
いよいよ腹に据えかねた先生が教科書の使い方を変える。角が流川くんのつむじにめり込んだ。
「いい加減に起きんかァ!」
「って……」
強制的に叩き起こされた流川くんの目はなおも眠そうだ。今にも瞼がおりそうで私の方がはらはらする。
上手いフォローの仕方が思いつかないほど流川くんの居眠りっぷりは清々しいので、結局私は追撃を受けたつむじの心配をするしかなかった。
授業のほとんどを、冬眠中の熊よろしく眠りについている彼の動いている姿を見てみたくて体育館へ足を運んだことがある。ドリブルのダムダムという音が体育館の外まで響いていた。入口には女子生徒が数名おり、流川くんの名前を思い切り叫んでいた。
お手本のように綺麗な放物線を描いて放たれたシュート、ボールを自分の手足のように自在に操る姿、貪欲に勝ちを掴みに行くキレのある動き。
それらを見てしまったら、知らない頃に戻れない。恋愛小説の一説みたいな台詞が頭の中を埋め尽くした。本当にその通りだと思った。
高頻度で流川くんは居眠りをしているので、最初のころはお知らせや課題のプリントを回すとき困っていた。流川くんが机で寝ると余白がなくなり、プリントを置くことが出来ないからだ。机と腕の間に挟んでみようかとも思ったが、彼が動けば下に落ちそうだし、ととりあえず私が持っていることにした。
休み時間も寝続けていることがあるため、放課後にまとめて渡すようにしたらすっかりそれが定着してしまった。配られるたび一応は振り返って確認しているが、十中八九寝ている。
知らないうちに私は『流川くん係』を拝命しており、彼に渡さなければならない物を他の人から預かることもあった。
「はい、今日の分のプリント」
「おう」
「あ、待って! こっちと取りかえて!」
「なんで」
「こ、こっちの方が綺麗だよ」
「これか」
焦っている理由をあっさりと見破られる。ほんの出来心で描いた落書きに目を留めた流川くんは、「うめぇな」と言ってプリントをバッグに仕舞った。
「え、あの、返して……」
「別にいい」
よくないですけど? という顔をしたが流川くんは飄々としている。国民的キャラクターとかならまだしも、いやそれでも恥ずかしいことに変わりはないが、よりによってバスケットボールの落書きを見られるなんて。
ちゃんと確認したつもりだった。無意識にしていた落書きに自分の気持ちが透けて見える気がして落ち着かない。今やそれは自分の手を離れて流川くんのところにある。
用は済んだとばかりに部活へ向かう彼の大きな背中へ、どうか『バスケが好きなんだな』くらいの浅い認識であってほしい、と願った。
§
お昼ご飯のあとの授業はさすがに眠くて仕方なかった。陽光が教室の空気をあたためて昼寝に最適な空間を作っている。意識を保つ方法を教えてほしい。流川くんのように堂々と眠れたらさぞかし気持ちがいいのだろうなと思う。幸いなことに急遽自習になったため、寝ても怒られることはない。
課題のプリントが配られて、私はいつもの確認作業のために振り返った。
「わっ……!」
「む」
「起きてたんだね……びっくりした……」
「俺も、やるときはやる」
「それ先生に聞かせてあげて。というか自習のときに起きてても説得力ないよ」
珍しく起きていた流川くんとの距離が思いのほか近かった。授業中にいきなり名指しで問題を解かされるより驚いた。微妙に挙げられている手はきっとプリントを掴もうと準備していたのだろう。
欠伸を噛み殺しながら、流川くんは素早く問題文へ目を走らせる。シャーペンを持つかと思いきや、顔を上げてこちらをじっと見つめてきた。
「ミョウジ、ここ教えてくれ」
「流川くんが私の名前覚えてる……! 自己紹介のとき寝てたのに」
「この間もらったやつに書いてあった」
「え! 私落書きだけじゃなくて名前も書いてた⁉」
「ここ」
「ほんとだ! じゃなくて気づいたなら書き直して……! ってこれ今日中に提出だよ⁉ 全然やってないじゃん。ほらもうこの時間に一緒にやっちゃおう」
指摘された箇所には雑に自分の名前が書いてあった。間違えないようにと名前まで書いたのに無駄骨だったようだ。この落書きとまた顔を合わせることになるとは。まっさらの解答欄を見ながら、恥ずかしさを打ち消すように捲し立てた。
一つの机だと狭い。しかし前後なので行ったり来たりも面倒だ、と悩んでいると流川くんの隣席の子が私と交代しないかと提案してくれた。その子と仲が良い子が私の隣席だからということだった。
「よし! 早く終わらせよ!」
彼はこくんと素直に頷きシャーペンを握る。授業中に寝ているだけはあるなぁと妙に納得しながら、当てはめる公式を教えていく。こちらが問うとたまに出る珍回答はなかなかのものだ。あまり開いた形跡のない綺麗な教科書が、ようやく役目をもらえて喜んでいる気がした。流川くんが教科書と睨めっこしながら問題を解いている間に私は自分の分を進めていく。
もっと質問攻めに合うかと思っていたがやけに静かだ。さっきから動いていない手元を注視する。熟考しているのかと様子を窺えば案の定船を漕いでいた。額と机の距離がだんだんと縮まってきている。思いついた起こし方は果たして効果があるだろうか。
「……む。なんで押す」
「だって寝てるから。痛い?」
「少し」
「そっかあ。あのときの先生の怒りがまだつむじに……」
教科書を持ち上げてわざとらしく角を見ていると、流川くんが焦ったように姿勢を正した。白紙で提出したらきっと教科書の角どころじゃない。全部埋められなくても頑張ったことが分かれば、先生の態度も多少は軟化するかもしれない。それに珍しくやる気を出していた理由もきっとバスケ関連だろうと察しが付いた。学生の本分をおろそかにすればつけが回ってくる。
眠気と戦う流川くんを鼓舞し、チャイムが鳴り響く前になんとか課題の大半を埋めることが出来た。
「無事終わったね。お疲れ様」
「うす」
一仕事終えた気分で自席に戻り、次の授業の準備をしていると、毛先にごく軽く触れられたような感触があった。まるでシャボン玉を割らないよう触れるみたいに、本当に軽く。迷ったのち流川くんを肩越しに見る。
「な、なに」
「馬のしっぽって言うんだろ、これ」
「ポニーテールって言って……」
「いつも揺れてるから、掴みたくなる」
いつも、ってどういう意味。部活以外はほぼ寝ている人なのに。でも背中に目があるわけじゃないから確認しようがない。
猫じゃらしみたいに思われているんだ、きっと。そこに特別な思いは込められていない。流川くんの靡かなさも、気まぐれに頼ってくるところも、惜しむことをしないあっさりとした部分も見てきたじゃないか。
淡々とした声で告げられた『いつも』の意味を考えたいのに、思考は勝手に保険をかけて期待の芽を潰そうとする。
「いきなり引っ張らないでね。女の子の髪に無断で触るのもダメ」
「聞いてからなら、いいのか」
「うん。その人がいいよ、って言ってくれたんだったら」
「触ってもいいか」
「……え! ダメ!」
「ダメ……」
断られる想定をしていなかったのか、流川くんの切れ長の目が猫のようにまあるくなっている。まさか私も彼から聞かれるとは思っていなかったので反射的に拒絶してしまった。だってポニーテールをしている女の子なら、私じゃなくてもいいんだと思ったから。
「……触ったら好きになっちゃうよ」
「? わかった」
馬のしっぽを……? わからん……。とか思ってるんだろうな。
疑問符を顔いっぱいに貼り付けた彼へ挑むような視線を向ける。掛けた保険のことは、とりあえず隅に置いておくことにした。
知らないよ、もう。流川くんが許したんだよ。好きになっていいって。