退屈な日々からの脱却を望んでいたわけではないけれど、彼と一緒だとそれとは無縁になった。
 心がこんなにたくさんの感情を宿すものなんだと、私は知らなかった。
 
 保湿は時間との勝負だ。お風呂から上がってすぐ、乾燥気味な肌の救世主になってくれることを期待して買った保湿クリームの蓋を開ける。べたつくのがあまり好きではないから、塗ったあとはサラサラだという謳い文句につられた。
 湯気で鏡が曇っているのを見るたびに、曇り止めを塗らないといけないなとは思うものの、数秒後には他のこと――例えば鏡についた指紋とか――に気を取られて忘れてしまう。その繰り返しだ。
 クリームを腕に乗せようとしたところで、脱衣所のドア越しに彼から名前を呼ばれる。少し急いているような声だ。何か問題でも起こったのだろうか。
「ちょっと待ってね」
 付き合って数か月経つけれど、さすがに全裸のままは恥ずかしいのでティーシャツを手早く羽織った。丈が長いので下も隠れるし、とりあえずこれでいいだろう。
 ドアを開けると彼の顔が首筋に近づいてきて、スン、と鼻を鳴らした。顔を離したあとも、首筋を確認するように手の甲で撫でられる。くすぐったくて肩を竦めれば、彼の表情からふにゃりと力が抜けた。
「良かった! クリームまだ塗ってなかった」
「どうしたの?」
 後先考えずに来ました、という表情をして彼は口ごもる。『良かった』と安心している理由を思い浮かべては消し、握っているチューブを眺めてみた。裏の内容成分はカタカナばかりで、目がつるつる滑る。表に返し、ほんのりラベンダーの香り、という表記に目が留まった。
「もしかしてこういう匂いが苦手だった?」
「匂いは大丈夫。その……引かない?」
「引かないよ」
「ほんとに? 引かれたらオレ泣くかも」
「そこまで言われたら逆に気になっちゃうから言ってほしい」
 たっぷりと三十秒ほど間を取った彼は、糊でくっついたのを無理やり剥がすみたいにして口を開いた。
「えーと……クリームって、ほらその、ね?」
 匂いが平気なら何がダメなのだろう。彼は歯切れの悪い言い方をしながら手で顎を触ったり、咳払いをするように手を口に当てたりしている。首に触れてきたことも謎解きのヒントとして加味すれば、あとは連想ゲームのようにどんどん答えへと近づいていく。
 そうして、ゴール一歩手前まできた。ときとぎ、最中に彼が顔をしかめている理由。それと見事に結びついてしまって、私はにんまりしそうになるのをこらえた。
「……舐めたら苦いから首とかにちゅー出来ないってこと?」
「うわっ! 秒でバレたし……いや、まあ、仰るとおりなんですけども……つーか言わせてごめん」
「こういう『察して』ならかわいいからいいよ。もっと早くから言ってくれればよかったのに」
「だって気に入って使ってるやつだったし。乾燥すんのいやでしょ。塗らないでとは言えないじゃん」
「うん」
「……つって、今日は塗る前に阻止しにきちゃったけど」
「あはは! 素直でかわいい。あ、よろしい」
 幾度となく女の子の言う『かわいい』の意味を伝えてきたからか、字面通り受け取らなくなって、伝えれば「あっそ」と満更でもない風に下唇を尖らせるようになった。
 ドアを開けたときの勢いをすっかりなくして眉を八の字に下げている彼へ、怒ってないよ。めんどくさくないよ。リョーちゃんはかっこいい。と言いながら両手で頬を包み込む。バスケットボールを持たせてもらったことを思い出して笑うと、あー! と唸りながら抱き着いてくる。私も背中へ腕を回して彼の背中をよしよしと撫でた。
「口に入れても平気で、苦くなくてあまりべたつかないクリーム探してみるね」
「そんなんあるの?」
「わかんないけど、探せば一個くらいはありそう」
「じゃあオレも探す。そんでプレゼントさせて」
 私自身のための努力は、いつしか彼のためでもあるようになった。
 触れてもらうなら自分がいちばん納得できる自分がいい。ピカピカに磨かれたダイヤモンドほどでなくてもいい。本音を言えばそれくらい光り輝きたいけれど。
 でも、そのまばゆさに躊躇ってしまうよりは、ラムネのビー玉みたいに透かした景色ごとに色を変える柔らかな綺麗さと、すっと溶けるような優しい丸みに触れて、懐かしさや安寧を覚えてもらえるほうがずっといい。
 これから先も私は、彼にとって心がいちばん休まる場所でありたい。
 もうすぐ注文していたピザがくるかな、と呟いたら私のお腹が鳴って、次にインターホンが鳴った。一瞬の間のあと笑い転げた彼は「腹いてー」と言いながらピザを受け取りに行った。