蒸し焼きにでもされている――そう思う程の暑い日々に辟易していたけれど、いつの間にかそんな蒸し焼きだとか鍋だとかの温かい食べ物が美味しい季節へと様変わりしていた。
 季節の微細な移ろいを感じるいとまも、私のような等級の低い呪術師には与えられていない。加えてまだ呪術高専の学生だ。毎日が地獄で戦争で陰鬱で、必死に"生"へと手を伸ばして掴んでは一時の安堵に身を投じている。
 昼食を何にするか、鼻歌まじりに色々あげつらいながら隣を歩いている先生程の実力であれば、余裕もあるのだろうが。
 彼は、親の仇うちのためだけに呼吸をしていた私へと、羽のように軽々しい態度と言葉でもって道を示してくれた。おおよそその軽々しさとはかけ離れた修羅の道を。
 幼い頃からずっと傍に、呪術があったにも関わらず、それが何なのかも知らなかった。そんな私に、淡々とだけれど分かりやすく教えてくれる目の前の人物は、嘘を顔面に貼り付け、ごますりしながらにじり寄ってくる奴らなんかより、よほど信じられると思った。
 彼はいつだって、私の良いところも悪いところもちゃんと見ていてくれるし、飲み下せない悔しさで消化不良を起こして拗ねていれば叱ってもくれる。けれど、彼が"先生"だという実感が未だに湧かない。私の意識の中で小さな疑問となって燻っているままだ。その燻りは別段、心を縛るものではなかったのだけど、聞くなら今がちょうど良いかと思ったのだ。休みの日はなにをしてる?と至極普通じみた装いで、私は先生へと疑問をぶつけた。
「何で五条先生は先生してるの?」
「唐突だね」
「全然先生っぽくないから」
「そうだなあ」
 ふむ、と顎に手を当て、空いた方の手で握っている鍵をくるくると長い指で弄びながら、形の良い唇が象った音は、詩でも謳っているみたいだった。
「夢が、あるんだよね」
 目元が布で隠れているため実際には分からないが、そっと目を伏せたような気がした。先生の言う"夢"に込められた膨大な思いが、堰を切ってしまわぬよう蓋をするみたいに。
「ふーん、そうなんだ」
「うん」
「……」
「え、それだけ? どんな夢とか聞かないの?」
「軽薄先生がそう言うくらいだから、並々ならぬ思いがあるんだなあ、とは思うけど、長くなりそうだし別にいいかな」
「どさくさに紛れて失礼なこと言ってるの気付いてる、君? あ、ビンタしとく?」
「やめて首がもげる」
 これもついでに買っとこうか? 的なノリで放たれた物騒極まりない台詞を回避して、若干距離を取った。聞いてほしそうな空気を読むことはあえてしない。もうすでに十分答えはもらっている。それよりも私はすこぶる空腹だった。今は任務を無事に遂行できたご褒美として、食事に連れて行ってもらう途中である。
 空腹に耐えかねた私の表情に気付いた先生は、くすりと妖艶に微笑んだ。目は口ほどに物を言う、という使い古された慣用句は間違いなくこの場を表現するのに適している。口元だけでこの色気なのだ。先生が目隠ししていて良かったと心底思った。
「聞いてくれたら、ご飯のランク上げるよ」 
「どんな夢なんですか?」
「あからさまだね〜まあ、いいけど」
 取った距離を私はまた 呆気なく詰める。あはは、と軽快に笑って私の無礼を許してくれた先生が語った夢は、本当に失礼だけれども彼にしてはまともなもので正直驚いてしまった。普段飄々としていて、いい加減そうに見えるのに、その実しっかり考えている。私たち若人のことを。
「腐ったミカン……」
「ぴったりの表現でしょ」
 長くてしなやかな人差し指の周りを鍵がくるくると踊っている。
  先生とこういった話をするのは初めてだったし、何より先生自身のことについてたずねたのもこれが初めてだった。
 私は学ぶべきことがあまりにも多い。皆よりも一歩とは言わず百歩くらい遅れているんじゃないか。だから、呪いについて呪術についてを貪り食うように学んできたのだ。そして目の前の人に教えを乞うてきた。
 私には忌むべき因習だとか、お家事情だとか、その背景にある踏襲してきた過去の産物だとか、そういったことはよく分からない。分からないけれど、先生が語って聞かせてくれた時に、何となく、そうか、と腑に落ちた。この人が底なしに軽々しくて飄々としていて自由に振舞おうとしている訳を。
「五条先生は、囚われていたくないんだね」
「ん〜?」
「ごさんけ? とか、しがらみってやつに。だからほら、先生って普段からそんなんじゃん?」
「君さあ、もっと言い方ってもんがあるでしょ」
「え、あ、ごめんね! 私日本語下手くそだから! 他意はないよ! そういうつもりで言ったんじゃなくて、先生はいつでもどこへでも羽が生えてるみたいに飛んでいくなあって」
 生まれながらに流れているその血潮からは完全に逃れる術はなくて、体に刻み込まれた術式は否応なく彼を孤高にする。加えてその六眼だ。幼少期より降り掛かってきた数多の重圧、殺意、無粋な興味を一心に受け止めていたら、ひとたまりもない。
 心を守る、じゃないが、彼にとっては周りのおべっかばかりでかしずく連中なんて心底どうでも良かっただけかもしれないけれど。これは私の勝手な憶測だ。
 その重たく暗い鎖はズブズブの沼地に身を潜めながら彼を雁字搦めにしようと、常に機会を窺っているようにも思えた。
「初めて言われたかも、そんなこと」
「先生は確かに最強だけどさ、それって孤独ってことでもあるよね。次元が違うから誰も先生に追いつけないし、寄り添えないし、理解できない」
「言うねえ」
「せっかくの機会なので先生について語ってみようかと」
「そんなに僕のこと好きなんだ?」
「ウン! ワタシセンセイダイスキ!」
「こら」
 寄り添いたいと思っても、それはきっと難しい。彼の望む言葉をかけられる人はほんのひと握りだろうし、第一私には無理な芸当だ。
 本当の意味で理解し合うというのも――先生に限らず、それは家族であっても、友達であっても――なかなかできる事じゃないとも思う。
 それでも人は人を求めてしまう性に突き動かされている。
 "最強"という名のもとにだけじゃない、一緒に過ごしていくうちに分かってくる破天荒な性格も結局は憎めないから、信用も信頼も集って彼の周りは何だかんだと賑やかだ。
「僕は別にそこまで求めてないよ。君たちを立派な呪師に育て上げて、腐ったミカンの掃除して、呪霊もちゃちゃっと払っちゃって、それでさ」
「うん」
「皆が笑顔で生きていればいいかなって。若人の青春を守るのも僕の使命だしね」
 こういう仕事だから笑顔でって言うのはちょっと違うかもしれないけど、と言葉を付け足した先生は、自分で吐露した気持ちを噛み締めるみたいに口元を閉じた。
「寂しくないんですか?」
「これが僕の普通だし、最強を冠するなら大したことじゃない。それとも何、寂しいって言ったら慰めてくれるの?」
「ハグして背中ぽんぽんくらいはしてあげてもいいですよ。うろ覚えですけど、小さい頃母がよくそうして元気づけてくれましたから」
「じゃあ今してよ」
「は⁉」
「ほらほら早く」
 長身も長身なその人は至極愉快そうに、腕を広げて見せる。からかっているとしか思えない。こんな街のど真ん中でする訳がないだろう。実際にするとしても、顔面偏差値が高すぎる上、照れまくりで絶対に無理だ。
 冗談を本気に作り変えて遊ぶのが好きな性格はどうにかした方がいいと思う。至近距離で拝んだら死んでしまう気がする。
 きっと先生は、私のことを拾ってきた子猫か何かだと思っている。あながち間違ってはいないけれど。
 自分以外は敵だと認識していたあの頃の私にも信頼できる友人ができ、一応恩人である彼にも懐いているわけだから、成長が垣間見られて嬉しい、といったところだろうか。
 痺れを切らしたように腕を広げたまま、先生が近づいてくるものだから、思わず飛び退ってしまう。傷付くな〜、と言っている口と愉しげな表情がまるで釣り合っていないし、飛び退った筈が目の前には先生の大きな体があった。
 先生の左手が私の後頭部に回ったかと思えば、胸の辺りに軽く寄せられ、右手は私の背中に回される。
 情報過多を起こした脳内は、状況把握するので精一杯だ。
 視界が暗い理由も、雑踏のさなかにいたはずの私から音を奪い去ったことも、悔しいかな先生からはとても良い香りがすることも、その他もろもろ含めて。
「ナマエはさ、まだ甘えるのが下手だよね」
「……そんなの、上手い下手関係あります?」
「あるよ、ナマエは高専に来てからずっと頑張ってるし、たまには甘やかしてあげたくなる」
 先生本人がそう思っているのか、教師だからそう言ってくれているのか、私には検討もつかない。
 どちらにしろ、先生が私のことを気にかけているという事実は変わらないから、本当に十分だと思っているのに、彼はいつもそれ以上を与えようとするから困る。
 大人の優しさに触れたことのなかった私には、まだまだ戸惑いの方が大きいのだ。
「僕がナマエをたまに甘やかすから、ナマエは僕を励ましてよ」
「彼女の一人や二人、……百人くらいいるでしょうに……その人たちから慰めてもらえばいいのでは?」
「……七海みたいな言い方しないでくれる? それに、僕のこと何だと思ってるわけ? いないに決まってんじゃん」
「え⁉ なんでいないの……? あ! 分かった性格悪いからだ!」
「よし! 今日はこのまま高専戻ろっか!」
「え、ご飯は⁉ ねぇ、ご飯は?! グッドルッキングガイ五条悟先生ー⁉」
 深く知るつもりのなかった先生の優しい思惑を知り、生意気にもちょっと励ましてあげようかな、なんて思った時点で、私の負けだった。逆に私が励まされた気がするし、甘やかすという言葉に含蓄された意味――いつでも君たちを見守っている――を感じ取り、すっかり安心してしまっている。上手も上手だ。
 それに、孤高も孤独も飼い慣らしている人だから、最強の名はあなたによく馴染むのかもね。尊敬、羨望、畏怖が入り交じっている孤独は決して冷たくなんかなくて、もしかしたら陽だまりみたいにあたたかいのかもしれないと思った。
 私の言葉にすっかりへそを曲げた先生は、雑踏の中を難なくすり抜けていく。
 長身だから見失うことはない。太陽の光を受けて柔らかみを増した色素の薄い白が、ひょこひょこと揺れている。おいで、おいでと手招きしているみたいに。