さっき買った揚げたてのコロッケの香ばしい匂いが、たびたび長考の隙間に入り込んでくる。
思い切って入った紳士服コーナーで二種類のネクタイを矯めつ眇めつすること三十分。優柔不断さも相まってどちらが良いか決めきれずにいた。定番のストライプにするか、ビジネスでもドレスシーンにも使える小紋柄にするか。二つとも買ってしまえば良いのだろうが、生憎とお財布の中が寂しい。
「さっきから何してるピョン」
「ピョン!」
「……真似しないでほしいピョン」
独特の接尾語が聞こえて顔を向ければ、なんとも言えない顔をした深津くんが立っていた。ピョンの人、と私や友達の間では認識されているため、名前を呼んだつもりが口をついて出たのは接尾語だった。
実際、高校生男子が臆面もなく言う接尾語の方が強烈である。
彼の背後にあるスポーツ用品店の看板を見れば、バスケの何かしらを買いに来たのだろうと予想がついた。店を出たらブツブツと独り言を言う私の姿が目に入った、というところまではほぼ正解だろう。声を掛けてくれるとは想定外だったが。
友達がバスケ部のマネージャーをしているため、時間があるときはついていって練習を見ていた。
みんな背が大きくて、動きは豪快なのに俊敏だ。近くで見ると分厚い壁のようで圧倒されてしまう。最初はなかなか近づけないでいたが、だんだん慣れてきて今は変におびえることもない。深津くんに至っては両手をかぎ爪の形にして「捕食するピョン」なんて言いながらからかってくるくらいだ。
ごめん、と謝ってから手に持っていたネクタイを彼の前に掲げて見せる。
「ねえ、深津くんならどっちが好き?」
「なんでオレに聞くピョン」
「男の人の好みってよく分からなくて」
いつ見ても同じ表情でいる彼の眉のあたりがぴくりと動いた。珍しいなと思い、動いたそこに視線を集中させるももう動くことは無かった。深津くんはネクタイを交互に見やると神妙に口を開く。
「……父の日のプレゼントかピョン?」
「惜しい! 従兄弟のお兄ちゃんの就職祝い」
「何も惜しくないピョン」
「お願い! 私じゃ決めきれないから一緒に選んで!」
興味が失せて体の向きを変えてしまった深津くんの前に回り込んで両手を合わせる。
「まごころ肉屋の揚げたてコロッケでどうでしょう」
「乗ったピョン」
食べ盛りの高校生男子の胃袋を掴んで離さない人気コロッケにかかれば落ちない人はいない。かくいう私も胃袋をがっちり掴まれている。取引成立の証として、袋からまだほんのりとあたたかいコロッケを取り出し深津くんへ渡す。
気を取り直してネクタイへ視線を向ける。こうして見ているだけではどうにもイメージが湧きにくい。
再び唸っていると店員さんが「試着もできます」と言い置いて去って行った。私服の深津くんは高校生には見えないため、彼のネクタイを選んでいると思われたのかもしれない。
「あの」
「ちょうどシャツだし、いいピョン」
「何も言ってないのによく分かったね」
「この流れで分からないやつは相当鈍いピョン」
ネクタイを構えると深津くんは私が言うより早く身を屈めてくれた。そのままではとてもじゃないが手が届かない。
「新婚さんてこんな感じかな」
「……」
「気持ち悪いこと言ってすみませんでした」
じと、とした視線で一刀両断される。思ったことを口にしただけだったが、軽はずみなことを言うものではない。
「それじゃあ失礼して」
しゅる、と彼の首にネクタイを回す。自分の家とは違う洗剤の匂いが鼻先を掠めた。
首や肩ががっしりしているのが服越しでも分かる。位置的に視界に入った喉ぼとけを見ながら、こんなに出ているものなんだと驚いた。触ったらさすがに怒られそう。
「……」
私の覚束ない手元を疑いのまなざしで見ているだろう深津くんの視線を感じ、ちらりと目を上げる。
平熱です、と言わんばかりに凪いでいる彼の目が私を見ていた。悲鳴じみたものを飲み込んだらくぐもった声が出てしまう。てっきり手元を見ているものだと思っていた。
ネクタイから手を離し飛びすさりそうになったけれど、視線を逸らすにとどまる。
気のせいで片づけるには難しい、見守るような穏やかな目をしていて、私の心臓は叫ぶように拍動を早めた。
「お、お父さんのネクタイ結んだことあるから大丈夫だよ」
「いつ」
「えーと……確か小学一、二年のとき、だったかな」
「今何年生ピョン?」
「高校生です……」
あまりにもブランクがある事実を突きつけられる。朧気な記憶の中の私は『そこまで難しくない』と感じていた。それを覚えていたからいけるだろうと思ったが、残念ながら私の手は結び方を忘れてしまったようで、手があてどもなくさ迷っている。
「下手くそピョン」
流れるような自然な動作で、見かねた深津くんが私の手からネクタイを取った。
「こうやるピョン」
テキパキと綺麗に結ばれていくネクタイに釘付けになる。頑張って結んだ過去の記憶が少しだけ蘇った。
最後にきゅっと絞めて出来上がったネクタイは、彼の首元でキリリと凛々しさを放っていた。高校生らしさが今だけは消える。
「すごい! 深津くんなんでもできるね」
「今のうちにたくさん練習しておくピョン。必要になるかもしれないピョン」
「そりゃあいつかは結婚して旦那さんのネクタイ結んだりするかもしれないけど、まだ早くない?」
彼の言うことも一理あるが、私はまだ恋すらしたことがない。将来の夢のために励む姿はなんとなく思い描けるけれど、自分の隣に誰かがいることはちっとも思い描けない。
深津くんは結んだばかりのネクタイをほどき、悩んでいたもう一つの柄の方を手に取って私へ渡した。実践編と言うことらしい。彼が見せてくれた結び方を思い返しながら慎重に手を動かしてみる。
深津くんのようには綺麗に結べなかったけれど、なかなか様になっていると思う。近くにあった鏡でチェックしてもらうと、彼はやや不格好な結び目を撫でながら及第点をくれた。
「やっぱり誰かに取られるのは嫌ベシ……ピョン」
「ん? ……うん? えと、なにが?」
「自分で考えるピョン」
「ええ」
「そのうち分かるピョン」
ベシ、と謎の接尾語の方が気になって、着けてもらったネクタイをどちらにするか決めきれない。深津くんに従兄弟の顔を重ねて着用した姿を想像しようにも上手くいかない。
「オレはこっちがいいと思うピョン」
「そ、っか。じゃあこっちにしようかな」
私がまた悩む気配を感じ取った彼が指さした方を持って急いでレジへ向かう。
プレゼント用に包装してもらっている間、深津くんはスーツを着ているマネキンを見ていた。
びっくりした。ネクタイひとつで、スポーツ少年から大人の男の人に様変わりした。
おかしいな。従兄弟へのお祝いを買いに来たはずなのに、私の頭はスーツを来て、ネクタイを締めている彼の姿ばかりを思い浮かべている。
会計が終わって深津くんの元へ戻ると、当たり前のように「送るピョン」と言いながら歩き出した。送ってもらったことは今日が初めてじゃないのに。
深津くんの表情も態度も変わらない。
心臓が生み出す熱を持て余している。今この瞬間、どうかしているのは、私だ。