鳴り響いたブザーは勝利の福音ではなかった。悲喜こもごもの中、無名の挑戦者たちによって歴史を塗り替えられた音だった。
きっと誰もが予想していなかった。いや、後半はもう歴史が変わる瞬間を望む人々の声が聞こえていた。私は一ミリだってその瞬間を望んではいなかった。みんなで初戦を突破して、今年も玉座に座るのだと信じていた。
熱気の中にわずかにひやりとしたものが混じる。
夏の終わりはあまりにも唐突だった。
忘れ物がないかを入念にチェックし、支度を済ませた私たちマネージャーは選手たちより一足早く会場を出て、近くで待機していた。日が陰りだして空を見上げると、入道雲が太陽を飲み込むように大きく口を開けているところだった。
まだ体に声援の地響きとボールが駆け回る音が残っている。急速に冷却された思考は上手く現実を消化できていない。マネージャーである自分がこれだけ悔しいのだ。選手たちの心中を思うと、口にのぼらせる言葉すべてが紙のように薄っぺらく思えてしまう。
どんなときも率先して声掛けする同級生の彼女も、いつもきゃらきゃらと明るい後輩も、彼らが合流するまでの間、私と同じように口を噤んだままだった。
「お疲れ」
「お疲れ様です!」
意気消沈している私たちの背にかけられた声に振り向けば、泰然とした彼らの姿があった。
もう乗り越え切り替えてしまったのか、この短い時間で。並みの精神力ではない、と知っていたけれど目の当たりにするとやはり圧巻だ。完全ではないにしたって、それを悟らせない。
「監督は?」
「向こうで他校の監督さんとお話されてます」
私が河田くんの問いに答えると、彼は深津くんの方を見た。アイコンタクトが終了したのだろう、ここにいる全員が深津くんの指示を待つべく意識を集中させる。
「ミョウジさん、落とし物してきたからちょっと見てきてほしいピョン」
「……落とし物?」
「大きいからすぐ分かると思うピョン」
落とし物を代わりに回収してきてほしいという深津くんの言葉に首を傾げたのは私だけだったようで、そのほかのメンバーはみな一様にそれがいいと頷いている。
すぐ分かるなら深津くんが行った方がいいんじゃないか、という意見を言わせてもらえないまま、私は全員から圧のある笑顔を受けて送り出された。
釈然としないながらも体育館までの道順を辿って、見落とさないよう丁寧に辺りを見回す。大きい落とし物ってなんだろう。どんな形状なのかを聞いても、見れば分かるで押し通されてしまい、私はひたすらに頭をひねっていた。
そうして通路に差し掛かったとき、その『大きい落とし物』は真っ先に視界へ飛び込んできた。
深津くんが私を指名したのと、あの場の全員の妙にそろった反応の意味もよく分かった。
「沢北くん」
「ナマエさん!」
坊主頭とくりくりした瞳が私の方を向いた。壁にもたれてしゃがみ込み、天を仰いでいた沢北くんの反応速度に驚いて肩が跳ねる。私が近付いていくと彼は立ち上がって、ふにゃりと目尻を柔らかくした。
「戻ろう、みんなが待ってるよ」
「拾ってこいって言われたんでしょ」
「……迎えにきたの」
「いいよ、分かってる。さっき『後で回収要員を派遣する』って言われたから」
最初から仕組まれていて、沢北くんは私を待っていたようだ。回収要員なんてよく言う。深津くんはゲームメイクが得意だけあってメンバーの性格も熟知している。
よく見ると彼の目元が少し赤くなっていた。一人だけここに残っていた理由を瞬時に推量できてしまう。
「深津くんの狙い通りってわけね」
「オレがナマエさん大好きなの知ってるからね」
大好きだと言われるたびにどう反応していいか分からずじまいだった。河田くんに技をかけられ泣いているのを見兼ねてフォローするようになってから話すことが増えた。
褒めて! もっとこっち見て! 大好き! 言葉だけじゃなくて表情をみるだけでも分かる彼の感情が私の中にあたたかく差し込んで、私の自信の無さを溶かすように心のところどころを照らしていた。
元気づけているつもりが、それはいつしか逆転していた。それでも言い訳すべてを取り払って素直になり切れないのは、彼が渡米することに起因している。
戻るために手を引いてもいいものかと思ったが、子ども扱いしすぎだろうかと躊躇した。そのまま歩き出そうとした私の人差し指を沢北くんが軽く引く。
「……試合終わってからも泣いたのに、ナマエさんの顔見たらまた泣けてきちゃった。好きな人の前ですら泣いちゃってかっこつけらんないの、情けないよね……」
柔らかく下がる目尻に力が入ってゆがむ。掴まれた人差し指をつつむ熱が震えている。
神様に願い事をしたのだと言う。自分に必要な物をもらった、と彼は彼なりに納得し、なんとか飲み下そうとしていた。でも感情と理解がごちゃ混ぜになって、通せんぼをするのだと。
独白のように語られる胸中にひたすら耳を傾ける。小さなガラス玉みたいな涙が幾重にも筋を作りながら流れ落ちて無慈悲に弾けて消える。ひとつぶだけでも私が掬いたかった。繋がれていない手を彼の頬へ伸ばして新たに流れてきた涙を受け止める。
私が何も言わなくても伝わったのは初めてだったかもしれない。私の左肩に沢北くんの額が優しく着地する。
どれだけ十全に対策していても、勝負事に絶対はない。負け知らずの彼に神様が与えたものはとても重い。だがその重さをも彼は背負って軽やかに飛翔するのだろう。
大きな背中が震えている。内包している激流と上手く折り合いをつけられればいい。大丈夫。情けなくない。悔しいと思うことが、どうして情けないなんて言えようか。両者一歩も譲らなかったあの試合、山王のみんなだけでなく、湘北の人達にも敬意を抱いたくらいだ。
でも、言葉にしたって今は薄っぺらな慰めにしか聞こえない。どうすれば私の心は過不足なく、伝わるだろう。
沢北くんの両肩に手を添える。泣いて彼の心が落ち着くなら見守っていたいと思うのと同時、泣かないでほしいとも思う。それらが交差したとき、私の目の前には驚きで声を失う彼の顔があった。
「へ、」
瞬きの間に起こった、互いに呆けてしまうに至った出来事を思い出そうとしても一向に私の頭は回転しない。
代弁するように唇の残熱がじわじわと真っ白な思考に浸透していく。
「あ……う、うそ、ごめん……! ほんと、あの、」
相手の同意なく衝動的にとんでもないことをしてしまった。理性はどこに行った。ことごとく順番を省いて現れた奥底にある気持ちが露呈する。
伝えるべきは勇姿に心打たれたことだったはずだ。言い訳も無意味だと悟った私は脱兎のごとくその場を去ろうとするも、後ろから強い力で抱き込まれる。
「謝らないで! ……あと、」
腕が、背中が、彼の体全部が、強い意志で私を覆う。「オレから逃げないで」と縋るようにそう言われて私は完全に逃亡を諦めた。
「……ナマエさんからキスしてくれるとか、嬉しすぎてオレ死んじゃいそうなんだけど」
「……」
「ねえ、オレからもしていい?」
「い、いや」
「嫌⁉ せめてダメって言って!」
オレたち両思いなんだよね⁉ と二人の間に漂いかけた雰囲気を木っ端みじんにした彼の必死な姿がなんだか可笑しくて、つい笑ってしまった。手違いのように伝えてしまった私の気持ちを、涙の引っ込んだ沢北くんは嬉しそうに反芻している。
体育館の方からときおり歓声が聞こえてくる。次の試合が始まっているのだろう。
私たちしかいない通路は歓声がやめば互いの呼吸音しか聞こえない。私の心臓のすぐ傍に彼の心臓もある。この速い心音がどちらのものなのか分からなかった。
ぎゅうぎゅうと痛くないくらいに抱き締められながらまるでぬいぐるみにでもなった気分だ、と思っていると一瞬彼が息を止めて口を開いた。
「深津さんから、ナマエさんが英語の勉強してるって聞きました」
唐突に核心に切り込まれた心臓がひときわ大きな音を立てて軋む。
つとめて平静を装う沢北くんの静かな声音の中に、どうして言ってくれなかったんだ、という不貞腐れじみた感情を見て取る。
奇しくも三年間同じクラスで部活でも関わる深津くんは、私が一年のころから英語の勉強に力を入れていたことを知っている。学年の隔たりと張り合っても仕方がないとは思うけれど、沢北くん的にはもやっとするのだろう。
「海外旅行、とか留学もすごく興味あるし、いつか海外で仕事してみたいなって思ってるの」
『興味あること』から『将来の夢』へちゃんと昇華させなければ言っては駄目だと自分で釘を刺した。彼を追いかけるために夢を叶えるわけじゃない。これは沢北くんを好きになる前から私の中にぼんやりとではあったけれど存在していた。私が自分の足でしっかり立ってその上で彼を心から応援したかったし、彼の気持ちにも応えたかった。
だから、一番強い願いに錘を付けて心の底へ沈めていた。全部が好意からのものであると帰結してしまいそうになるから。もし挫折するようなことがあったとして、それを誰かのせいにしたくなかったから。
「……オレのためって言ってくれるかもって、正直少し、いやだいぶ期待してました」
「もちろん沢北くんにも会いたいって思ってるよ」
「勝手なことばっか言ってすみません。向こうでも会えるかもしれないって思ったら嬉しくて。けど、ナマエさんの好きな人がオレだってわかったし今はそれで十分っす」
「……私に好きな人がいるって誰が言ったの?」
「深津さんです」
「もう、あの人はほんとに……」
「あ、仲良さそうな言い方しないで! 深津さんの話やめましょ!」
それなのに、まるで最初から錘なんてつけていなかったみたいにまだ粗削りで夢にも満たないそれを披瀝してしまった。期待のこもった沢北くんの声音は、砂の城を崩すみたいにやすやすと固持していたものを崩壊させる。
私を抱き締める力を緩めて、彼は声を一段低くする。なだらかになった心音が背中から伝わる。
「もっともっとバスケがしたいし、強い人とも戦いたい。オレ自身強くなりたいからどうしたってバスケで頭がいっぱいになっちゃうけどさ」
「うん」
「ナマエさんのことめちゃくちゃ大事だから。バスケも大事だけど、ナマエさんは別腹? みたいな感じ。それだけは絶対忘れないで」
「別腹ってなにそれ、ふふ……わかった」
一番大事にするって言わないところが沢北くんらしい。二番目って言わないところも。
「応援してます」と言われて、私は張りつめていたものがほどけるのを感じていた。ちゃんとしなきゃ、と繰り返し言い聞かせていた。彼が私の夢を知ってくれたことで、ひとりよがりになって潰れて、気持ちを伝えることが出来ないままの未来もあったかもしれないと、初めてその可能性を思った。こうやって真っ直ぐ夢を応援してもらいながら頑張る方が、案外近道かもしれない。
彼の体がゆっくりと離れていく。私が来た通路の方から足音が聞こえてくる。誰かにこの場面を目撃されたくない、と距離を取った。直後にこちらへやってくる人物の姿が目に入って、今更ながら羞恥で汗がどっと噴き出してくる。
目の前まで来たその人の目に怒りはないが、時間がかかりすぎだと、言外に告げていた。
「ナマエさん実はオレと離れる気、なかったでしょ?」
「まーたチョーシ乗ってるべ沢北」
「ま、まって、ぐるじ、」
しびれを切らして迎えに来た第二の回収要員――河田くんは、茶目っ気たっぷりに笑いながら私に耳打ちしてくる沢北くんにヘッドロックをかけている。この感じだと河田くんも一枚かんでいるかもしれない。
もういいや。バレてるならみんなで応援してください、と白旗をあげた。
留学でしばらく会えなくなる沢北くんの坊主頭の感触を覚えていたくて撫でる。
バスケットゴールに迷いなく向かっていく彼のように、私も私を見失わないでいたい。遠距離さえも味方につけて寂しさだって糧にして、熾火みたいに静かに燃えているこの気持ちを絶やさないようにしたい。
盛夏のように眩しく笑う彼の目尻からこぼれる光が幸せなものでありますように。
私は、夢も好きな人の傍にいることも、諦めたくないのだ。