部活が終わり片づけをしていると部室から叫び声が聞こえて、ナマエは磨いていたボールから顔を上げた。ドタバタと暴れているような音もする。
 また、野太い叫び声が上がった。一体何をしているのだろう。沢北が河田に絞められているのだろうか、とも思ったが普段はここまで騒がしくはないし、河田は堂本と一緒に体育館を後にしていたのを思い出して候補から除外する。
 取っ組み合いの喧嘩の線もなくはない。もし喧嘩なら自分が行ったところで止められるかは怪しいが、勢いを削ぐくらいは出来るかもしれないと思い、ナマエはボールをカゴへ入れて立ち上がった。
「喧嘩ですか?」
 騒がしい室内に負けないよう、強めにドアをノックしてみる。耳をそばだてても罵り合いの声や、殴っているような音はしない。要領を得ない叫び声が聞こえるだけだ。
 あとは鬼ごっこでもしているかのように複数人の足音が右へ左へと移動している。
「あのー!」
「ナマエちゃん助けて! おふっ、」
 もう一度ノックしてみようと振り上げた手は、いきなり開いたドアにより空振りに終わって、出てきた沢北の胸に直撃した。大仰に胸を押さえておよよと泣くフリをする沢北を無視する。筋肉武装しているくせにこのくらいの打撃が痛いはずはない。
 そのまま部室へ踏み込めば、大きな男たちが顔に恐怖を貼り付けて立っていた。シュールな光景だなと思いながらもう一歩進めば、さらに彼らの顔が引きつる。
「どうしたんですか? そんなハムスターみたいに隅っこに逃げて」
「……セミがいるピョン」
「セミ? どこですか?」
「う、上だよ! ほらナマエちゃん、ギャー! なんでこっちくんの! 無理だって!」
 ミーンミーン、と室内ではやけに響く鳴き声をまき散らしながら彼らを恐怖に陥れている主は部屋を飛び回る。阿鼻叫喚の中、ナマエだけは冷静にセミの動向を観察していた。
 とりあえず喧嘩じゃなくてよかった。それにしても大の男たちがそろいもそろってセミに歯が立たないとは。河田あたりなら、ハエのようにたたき落としそうなものだけれど。
 確かにセミはよくよく見るとグロテスクだし、まあまあ大きいし怖いのも分かる。クラスの女子たちも虫が教室へ入ってくれば悲鳴を上げて逃げ惑う。蜂とか毒を持っている虫じゃない限り、ナマエは割と平気な方だった。蚊には並々ならぬ殺意を持って対処するが。
「いや、なんかさセミの声が聞こえて、夏だね〜なんて話してたんだけど、やけに近くない? って思ったら深津さんの背中にくっついててもうパニックんなっちゃって」
 滅多に取り乱さない深津もさすがにセミには動揺したようだ。表情こそ変わらないが、セミを追っている目には鬼気迫るものを感じる。
 セミにとっても彼らは恐怖の対象だろう。そこらへんの人間より大きいのだ。窓を開けて外に逃がすのが早そうだと算段をつけて、部屋の電気を消し窓を開けに行く。これだけ暴れまわっているからもしかすると死期が近いのかもしれない。熱湯をかければ即死だが、それは気の毒な気がしてやめた。
 ブーン、とセミが旋回する。そのまま外へ行ってくれ、とみんなが固唾をのんで見守る中、セミは急遽向きを変えて一番近くにいた一之倉へと突進した。
「う、……」
「一之倉さん、こんなときにまで我慢しなくていいですから!」
 セミは一之倉の坊主頭を一時的な休息地と決めたのか「ミンミンミンミンイ゛イ゛イ゛」とけたたましく鳴きだす。頭を振るなりして追い払えばいいものを、ナマエが声を掛けても一之倉は持ち前の忍耐力を発揮して地蔵のようにじっとしている。ただ単に怖くて動けないだけかもしれないが。これならもう捕まえた方がいいだろう。
「一之倉さん、出来るだけゆっくり腰を落としてください。そう、もう少し。はい、……それくらいで。じっとしててくださいね。今捕まえますので」
 家にセミが侵入して大騒動になったことがあったなあ、と二年前の夏を思いだした。セミを捕まえるときに大事なことは心得ている。完全に気配を断つことと思い切りが良いこと。少しでも躊躇すれば失敗する確率が上がる。
 外から他のセミの声がする。風に葉っぱが揺られて室内に落ちた影も同じように大きく揺れる。鳴くのに疲れたのかセミが沈黙した。フリースローを打つ前みたいにしんとした静寂が満ちている。あんなに騒がしかったのが嘘のようだ。呼吸の音さえ聞こえないように薄く細く息を吸う。
 そしてナマエ渾身の素早さでセミへ手を伸ばした。
「取れました……一之倉さん、大丈夫ですか?」
「な、なんとか……ありがとう」
「もお……まじでナマエちゃんかっこよすぎ!」
 無事確保して、窓の外へ放つ。安心したかのように夏の風物詩は暑さの中を切り裂いて飛んでいった。
「うち、夏になるとたまに家にセミが入ってくることがあって慣れてるんです。セミ、というか虫全般をいち早くどうにかした人に報酬が出る仕様なのも大きいですね」
「報酬⁉」
「両親が虫苦手で、私たち兄弟に退治させるんですよ。ちゃんと見返りがあるからやるんですけど」
 脅威が去ったためか、男たちは最初から何もなかったかのように着替えを始めた。女子がいるのになぜ着替える。まだたぶん動揺が残っているんだろう。
 ナマエの肩に腕を回してくっついてくる沢北を気にせず好きにさせていると、顔を覗き込まれた。
「ナマエちゃんてほんと動じないよね。なんで? オレ男なんだけど」
「沢北さんは、なんか、他の女子にもこういうことしてそう……」
「え! ちょっと待って、ナマエちゃんにしかしないし、オレそんな軽い男じゃないよ!」
「深津さんとか河田さんにされたらさすがにびっくりするかもですけど」
「ねぇ無視するのやめて! 泣く!」
 デオドラントスプレーの匂いがする。部活の直後によく抱き着けるなあと思ったが、腕もサラサラだ。シートでしっかり拭いたのだろう。シャツも着替えているためか汗臭さは感じなかった。
 磨き途中のボールを終わらせて自分も帰ろうと、離れる気配のない沢北の腕を剥がしにかかる。ふと視線を感じて顔を上げると、深津がナマエを見ていた。
「……」
「無言で腕広げるのやめてください深津さん」
「……」
「だ、だから無言で、わー! こっち来ないで! セミより深津さんが怖い!」
「失礼だピョン」
 沢北の腕から逃れて背中に回って盾にする。わざとらしく肩を落としている深津と着替えが終わったらしい一之倉に「失礼します」と声を掛けて部室を後にした。
 黙々とボール磨きに精を出していたら、屈強な彼らがセミを怖がっていた光景が後からじわじわと思いだされて、笑いが止まらなくなってしまった。
 一人で笑っているところを見られていたらしく、気が触れたと思われたのか、後日ナマエは彼らから憐憫のまなざしとともに駄菓子の詰め合わせをもらった。
 また部室にセミが入ってきても、絶対助けてなんかあげない。