私が選任されたのはどうしてなのか。
瓦礫と爆散した木の残骸、抉れている地面。風によって土埃が薄く地面を舐めていく。建物の傍には憔悴しきったQが横たわっている。戦闘の形跡が色濃く残る場所でしばし立ち尽くした。
太宰さんから『中也置いてきちゃったからよろしく〜。Qはとりあえず生きてるよ』という連絡を受けて、指定された場所へ向かうと地面に大の字で寝ている彼がいた。私に彼とQを抱えられるだけの腕力と体力があればおぶって帰るのだが、土台無理なので落ちていた外套と帽子を回収し、瓦礫を避けつつ彼の方へ歩いていく。
「お疲れ様です、中原さん」
届かない労いの言葉は、豪快な寝息とともに満身創痍の彼の口の中に吸い込まれていく。鼻の下と唇の端には血が乾燥してこびり付いていた。いつもは外さない手袋も取られていて、その手にも擦り傷がある。念のため救護セットを持参してよかったと思いながら、爆睡している彼の傍へ膝をつく。
見た目に反して外傷はそこまでない。口元の血を見るに、内傷の方が酷そうだ。傷のある箇所を消毒する。消毒液のツンと刺す匂いと土の湿った匂いが混ざる。月明りに照らされた彼の顔は青白い。寝息が元気だから血相は変えなかったけれど、静かだったら彼の口元に手をあてて確認していただろう。
剥き出しの地面では痛いだろうと、彼の頭をそっと持ち上げて膝の上に乗せた。髪を梳けば土がパラパラと落ちる。顔にかかっている髪を避け、ついている血と土を丁寧に拭いていく。途中、むにゃむにゃと口を動かしたが起きることは無かった。この状態で起きたら頭突きでもかまされそうだ。もし目が覚めて、そういう素振りを見せたら全力で避けるしかない。
周りから一目置かれている近寄りがたい上司が、まるで猫のように気持ちよさそうに眠っている。これに陽光と縁側があれば完璧な昼寝の図が出来上がる。傷だらけの彼を見れば、平和を絵に描いたような想像もすぐに霧散してしまうけれど。
「中原さん」
試しに呼んでみるもやはり反応はなかった。しかし、こうしてずっと外で寝かせているわけにもいかない。なぜか太宰さんからは応援は呼ぶなと念を押されたため、一人で対処するしかないのである。
袂を分かった太宰さんの言うことを私が聞く義理はないのだが、どうしてか従ってしまうところは太宰さんの凄さかもしれない。
何か良い案は、と相変わらず寝息を立てている彼のあどけない寝顔を見ながら思巡らせるも、彼に自力で歩いてもらうしか方法が思いつかない。
なんとなく先ほどより、彼の呼吸が深い気がした。私の膝枕は意外と寝心地がいいのかもしれない。疎んでいた太ももの贅肉も、たまには役に立つようだ。
つい無意識に、彼の頭を撫でてしまった。ふっと緩んだ彼の眉間の皺を見て、胸の奥でことりとなにかが揺れる。頬を優しくさすると、顔を私の手に添わせてくる。無礼千万な行動だと判っているのに、私はすぐにやめることが出来なかった。
マフィアという組織はこの街のあらゆる影を牛耳る。幹部である彼の仕事は危険度が段違いだ。随従する私も当然危険な目に遭ってきた。大怪我を負ったこともあるが致命傷にはなり得なかった、というのを数回経験している。彼の部下になって三年は経つけれど、寝顔を見たのもこうして無防備に傍を許されたのも初めてだった。髪や顔に触れたのもそういえば初めてだった、とはたと思い至って漸く撫でる手を止めた。
悪意や害意で満ちている殺伐とした世界に身を浸していると、こうした穏やかさとの温度差に戸惑う。
ポケットから、持って行ったほうがいい≠ニいう勘に従い持ってきた手袋のスペアを取り出す。普段着けているところしか見たことがないため、なんとなく寒々しいなと思い、力なく投げ出されている彼の手を取った。
右に嵌め終わり、左手の指を入れていると急にぐっと手を握られた。夢でも見ているんだろうか、と見下ろすと「何してやがる……」と不機嫌そうに云う彼と目が合ってしまい、心臓に杭でも打たれたような衝撃が走る。あどけない寝顔と顰めっ面のギャップが激しい。
「あ、……
「……何で手前がここにいる?」
「太宰さんから連絡を受けまして」
「糞太宰! やっぱり俺を放置していきやがったな!」
太宰さんの名前を聞いてすべてを理解したらしい彼が、中天の月に向かって吠える。それからすぐ「ん?」と疑問符を発した彼は先刻の私の台詞を巻き戻して、新たな疑問を口にした。
「待て……手前、何時太宰に連絡先教えた?」
「教えてません」
「は?」
教えていないのに太宰さんから連絡が来たし、画面に『太宰(キューピッド)』と表示されていた。いつ登録されていたのかも謎である。携帯を開いて通話履歴を見せると、板チョコを割るがごとく真っ二つに折られてしまった。どうして太宰さんがキューピッドなのか、意味を聞こうと思ったが、怒髪天を衝く形相の彼を見て、火に油を注ぐだけだと口を閉じる。
体を起こそうとするも、力が入らないのか上げた頭が私の太ももに再着地した。怒りからか彼の顔が赤くなっている。耳まで赤いのが珍しくて、もしかして怒りじゃなくて熱でもあるのかと耳に触れると、彼の体がびくりと震えた。
「な、なんだよ!」
「赤かったので、熱でもあるのかと思って」
「そんなんじゃねぇからほっとけ!」
手負いの獣のように――実際に手負いなわけだが――ギャンとひときわ強く吠えた彼は、横に置いていた帽子を掴んで自身の顔を隠すように乗せた。
「……悪ィな、こんなことさせちまって。体がまだ思うように動かねぇんだ。もう少し我慢してくれ」
「私が好きでこうしたので、中原さんは気にしないでください。むしろ、私なんかの膝枕で申し訳ないくらいです」
「だ、誰もんなことたァ言ってねぇだろ!」
彼が話す度に帽子がもごもごと動く。なんだか帽子と会話しているみたいだな、と可笑しくなった。
「そういえば、太宰さんが不思議なことを仰ってました」
「あんだよ?」
「『中也は警戒心が強いから、誰かが近付けば飛び起きると思うよ』と」
「……あんの野郎、今度会ったら縊り殺してやる」
「よほどお疲れだったんですね。私がお顔や髪に触れても全然起きませんでしたし」
帽子――否、彼が気絶でもしたのか、と思う程ビタッと綺麗に動きを止めた。撫でたことは云っていないし、顔や髪に触れたのも手当ての一環だ。それでも意識のないときに触れられるのは、不快だったかもしれない。
土下座で首が繋がるだろうか。言い訳を工面していると、唸り声のようなものが聞こえた。瞬時に喉笛を噛み切られるイメージが浮かぶ。あ、これは私終わったかもしれない。
だが、顔から帽子をのけた彼の顔に怒りは浮かんでいなかった。
「もうアイツに会うな」
「太宰さん、神出鬼没ですよ」
「出くわしたら全力で逃げろ。俺の許可なく連絡なんて取るんじゃねぇ」
「携帯はもうお陀仏なので、その心配はないかと」
「携帯があったら連絡取るのかよ」
妙に揚げ足取りをしてくる彼の物云いが不貞腐れた子どものようになる。死ぬほど嫌いだと公言している太宰さんからの命で参じたことが気に食わないのは当たり前で、だったらどうしてこんなに拗ねているのか。どうして私の行動を制限するようなことを言うのか。太宰さんの起こす行動は予測不能だと判っていて無茶を云う。
「嫉妬、ですか?」
「ちっ、」
「すみません、今のは失言でし」
「違わねぇ、つったら、どうすんだよ」
関連付けられないと思っていた行動や言動は、思わず口をついて出た言葉によって辻褄が合ってしまった。
そんなことあるわけない、ふざけるなと声を大にして否定されると思った。今度こそ不敬な態度だと罰されると思ったのに。
「ど、どうしよう……」
「俺に聞くな!」
「えっと、……月が綺麗ですね……?」
「は、」
「中原さんとの会話で困ったときはそう云えって太宰さんが」
「あ゙ー! っんとに、質の悪ぃキューピッドだぜ……余計な入れ知恵しやがって。絶対楽しんでやがる」
ずっと下を向いていたからか、耳にかけていた髪が重力に負けてこぼれ、視界を狭める。手袋を嵌めた彼の指が私の髪に触れた。
「こんなんじゃ締まらねぇな……今度は俺から云う。だから、」
鋭利な眼光が私を串刺しにする。荒くれ者を統率している彼が、部下に向ける目にしては威圧感に欠ける。じゃあ、彼はいつもどんな目をして私を見ていたっけ。
異能を使った彼が歩いた地面が割れて砕けるみたいに、均衡が音もなく崩れていく。
果実でも絞るように心臓を追い詰められて染みだした甘い水のような感情の正体も、その言葉がただ月を褒め讃えているものでないことも。
もう、判ってしまった。
「その意味を、ちゃんと考えとけよ」