秘めたるは至上、だなんて思っちゃいない。ただ、業務に支障が出ないようにと判断した結果だった。
これだけ大きな組織であれば、一定数彼女の実力を嫉み、今まで培ってきた努力を無かったことにする輩が湧く。傘下組織にだって下卑た言葉を浴びせてくる奴もいる。布のように薄っぺらくて中身の無いことしか云わないその口を裂いてしまいたいと、どれほど歯を食い縛ったことか。俺の恋人だと知れ渡れば、特別扱いでもされているのだろうと更に酷くなる可能性を慮った。
俺だって後ろ暗い感情を向けられるのは例外じゃない。だが、彼女に関しては別だ。彼女は異能力者じゃない。俺が最も恐れているのは、自分のせいで彼女に謂れの無い怨恨をぶつけられることだった。
それに、俺自身も冷やかされるのは御免被りたいところではあるし、性格上仕事仲間に対して関係をオープンにするのも面映ゆい。だから秘密を施した。彼女に相談すれば、「中也がそうしたいならわたしは構わないよ」と忌憚なく、初夏の風のように涼やかに笑って承諾してくれた。
暫くはそれで良かった。心が騒ぐこともなく、ひとつひとつ積み木のように毎日を積み上げていた。乱れ始めたのは、いつぞやの首領と彼女の会話を聞いたときからだった。
首領からの呼び出しに応じ馳せ参じたが、今日は珍しく扉の前に見張りが立っていなかった。疑問に思いつつも扉へ近付けば、中から微かに首領と彼女の声が聞こえる。何を話しているのか、盗み聞きは善くないとは思いながらも、俺の耳は会話を拾うために神経を研ぎ澄ませていた。
「ナマエ君ならなれると思うんだけどなあ」
「首領、ご冗談を」
「その年齢でこの才覚、手腕、それに申し分のない美しさも兼ね備えている」
「わたしは守備範囲外では?」
「其れと此れとは別だよ。だがナマエ君なら私もやぶさかではないけれどね」
「あまり調子の良いことを仰っていると、手を噛まれてしまうかも。それにエリスちゃんから怒られますよ?」
「其れは怖いな」
「わたしでは身に余ります。猛反対にあうのは必至です」
「今度の会議で皆に話す予定ではあるが、反対はされるだろうね。だがそこは私の腕の見せ処だ」
一体何について話しているのか見当がつかなかった。ナマエならなれる? 何に? 守備範囲外ってなんだ。やぶさかではないってどういうことだ。首領は幼女趣味の筈だろう。
さして意味のない軽口の応酬だと思ったが、会議で話すと云っていることからも、それは絵空事ではなく現実としての出来事だということになる。会話をふるいにかけて、情報を選別すればする程混乱する。残ったそれらを繋ぎ合わせて出来上がった結論に、頭を鈍器で殴られたような心地がした。
「それでは失礼します」
彼女がこちらに来る。
扉の前で立っていれば、盗み聞きしていたのがもろバレる。扉からさっと距離を取り、部屋から出てきた彼女に今到着した風を装いながら声を掛けた。
「よォ、お疲れさん」
「お疲れ様。中也も首領に呼ばれてたの?」
「おう」
「そっか。丁度今話が終わったとこだよ。また後でね」
「嗚呼、後でな」
俺の様子に微塵も疑問を感じなかった彼女の背中に、心の中で自分の演技力を褒め称え乍ら拳を握る。
改めて扉に向き直った。却説、ここからが本番だ。首領には何が何でもこの動揺を気取られるわけにはいかない。
§
最近彼女は首領と行動を共にすることが増えた。随従するようにと言われた傘下組織の会合にも俺だけじゃなく彼女も連れて行くようになった。彼女はあまり気乗りしない様子ではあったが、首領命令とあらば従わざるを得ない。
対営業用の笑顔を浮かべて各企業の社長らと談話に勤しんでいる。不審な動きをしている奴がいないかと目を光らせていると首領から手招きをされた。俺のことを紹介するのだろう。今度傘下に入ったばかりの企業だ。己の利益が最優先の奴らの手綱を握るには最初が肝心である。
嘘臭い笑顔を浮かべていると顔の筋肉が攣りそうだ。この所業をわけなく数時間も続けられる彼女には、例え仕事だろうといたく感心する。
頃合いを見計らい輪から外れて壁際へ移動すれば、困ったような表情の彼女が目に入る。仮初の柔和さが取れ、相手のしつこさに剣が滲んできている。
少し目を離した隙に令息たちを次々に紹介されていた。糞が。人の女を口説くんじゃねぇ。今すぐ首根っこを掴んで捻じ伏せたい。喉から出かかる言葉と凶暴性を抑え込む。この関係に錠をかけたのは俺自身だ。だから、彼女の薬指を飾る物が無いことを今更後悔しても仕方がない。彼女がこの場を捌き切るのを見ているのが正解だろう。
だが、体はもう理性を振り切って動いていた。
「ご歓談中、失礼します」
どよめく面々の横っ面を殴るように言葉にドスを効かせる。
「彼女には婚約者がおりますので、大変申し訳ありませんが、その手のお話はお受け出来兼ねます」
この日一番の笑顔が牽制になるとは思わなかった。冷水のような殺気を浴びた男共はヒッと息を呑み、厭な汗を拭き取りながら蜘蛛の子を散らすように去っていく。これしきで引き下がるくらいならば最初から声を掛けるな。度胸も胆力もない。ビジネスのみで成り立つこの美味しい関係に、自ら亀裂を入れて破滅したくはないだろう。
「随分大胆だね」
「手前がさっさと蹴散らさねぇからだろ」
「心配? やきもち?」
「……彼女をゴマすりに利用しようなんざ巫山戯すぎだ。殺したくなる」
「どっちもかあ。ふふ、ありがと。でも良かったの?」
「何が?」
「だってあれだと、自分が婚約者ですって云ってるようなものだったし」
「ただ口で云っただけだろ。ちったァ睨んだかもしれねぇが」
「じゃあ、わたしの腰に腕回して引き寄せたの無意識だったんだ」
「……は?」
「そのまま頬ずりでもされるかと思った」
「嘘だろ?」
「さっきの人たちに聞いたら判るんじゃない?」
ニコニコと上機嫌の彼女とは対照的に、俺の顔面は蒼白になっていく。やっちまった。首領の耳に届くのも時間の問題だろう。いずれ伝えるつもりではいたが、こんな形で露見するのは本意じゃない。何よりもまずちゃんとプロポーズをしていないのだ。あの場はとりあえず『婚約者がいる』というカードを切れば善いと思ったからこその台詞だった。真逆、行動に本音が表れていたとは。
しくじって漸く理解した。掛けた錠を自ら破壊するくらい心が限界を迎えつつあることを。
首領が彼女に懸想している疑惑、そして群がる意地汚い蛆虫共。
俺の所為で、と思った。けれど若し彼女が他の誰かのものになってしまったら全て意味が無い。
危機が迫るなら、糸一本さえ通さない鉄壁の守りで固めたらいい。自由を奪いたくなかった。だが。
奥底で昏く揺れる独占欲が顔を上げる。
誰にも彼女を渡したくないと。
§
「虫除けを買いに行く。空いてる日あるか?」
「蚊の季節でもないのに?」
執務机に肘をついて、手を組みながら藪から棒にそう云った俺の言葉に、彼女がまともに返してくる。これは恐らく真意には気付いていない。
彼女が目を通している書類を抜き取って、宙を泳ぐ左手を導くようにそっと握った。
「……気が気じゃねぇ。俺から言ったのに、勝手だよな」
たったそれだけで彼女は『虫除け』の謎を解読してしまった。我ながら子供じみている。拗ねたように絡む俺の手を、彼女は抱き締めるように優しく握り返してくれる。
触れたそこから気持ちが溢れて、積み上げていた平静という名の積み木が崩壊していく。
「中也はどうして秘密にしようって言ったの?」
「……」
「わたしの為、って言うのは判る。でも何をそんなに怖がってるのかなって」
硝子に小さな傷一つさえ付けないような静謐な声だった。俺が是と思うものに彼女は異を唱えない。でも今は、俺自身が覆そうとしている。云いたい。云わない方がいいかもしれない。俺の中で荒れ狂う感情の行く先を案じてくれているようだった。
「俺の所為で危険な目に遭わせたくない。それに贔屓っつー色眼鏡でお前を見て欲しくない」
言葉にすれば何とも陳腐な響きだった。自分本位で笑ってしまう。
そうだ、俺は彼女の気持ちも聞かずに決めてしまったのだ。これが最善の手だと疑いもせずに。
「わたしにも異能があれば善かったんだけど、こればっかりは欲しがっても手に入らないしね。中也にとって『非異能力者』であることが足枷にならないようにって思ってる」
「それは、」
「ううん、この世界では実際力が無いとどうしようもない。だけどわたしにはこの頭があるし、暗器の使い方は銀さんから習ってるし、銃火器全般と体術は父から叩き込んでもらったし。あとこれは云わないでおこうと思ったんだけど」
一つずつ丁寧に俺にこびり付いた不安を取り払いながら、彼女は普段からは想像も出来ない妖美な笑みを口元に乗せた。
「わたしのこと、陰で色々云って態と足を引っ張るような行為をした人たちは、今頃泣きながら仕事してるんじゃないかな」
そいつらにとっては最悪の手段を以てして、自分の実力を判らせたということだろう。おおよそマフィアらしさの無い彼女の影の部分を見て俺は面食らった。
「何で云わなかった」
「ただでさえ中也は考えなくちゃいけないことが多いし、これしきのことで心配掛けたくなかったの。でも、逆に心配させちゃってたね。ごめんなさい」
一緒に居ても互いの真意は完全には読めない。依存しすぎも考え物だが、自立しすぎも中々どうしてもの寂しさがある。
恋愛と仕事の両立は思っていたよりも難しかった。こと俺はそんなに器用じゃないのだ。見てくれだけ整えても今のようにひずんで、矛盾が生じる。恋慕に滴下してしまった昏さがこれ以上広がらなければいい。蔦のように絡まっていつか彼女を雁字搦めにしてしまいそうだ。
「怖がらなくていいよ。中也が思ってるよりもずっとわたし逞しいから」
独占欲は依然顔を上げたままだけれど、そこから侵食しようとはしてこない。安心させるように彼女が俺の頭を抱き込んだ。帽子がずれて、膝に落ちる。彼女は俺が思っていた以上に水面下を優雅に泳ぎ回っていた。見縊っていたのは俺の方か。
「この前、首領の部屋から出てきて俺と鉢合わせた日あったろ。てっきり首領が……お前に求婚でもしたのかと」
「なんて?」
「二度は云わねぇ!」
「ごめんごめん! そっか、やっぱりあのとき中也にも聞こえてたんだね」
「その、聞くつもりは無かったんだが……仕方ねぇだろ。お前の声がしたんだ」
「中也くんはわたしのこと大好きだもんね?」
「五月蠅ェ! お前もそうだろ!」
「うん!」
「だ――っ! ……で、結局首領とは何の話してたんだよ?」
「コンシリエーレにならないかって言われた」
「マジか⁉ ……てっきりあの人かと思ってたぜ」
「私も若しなるなら父かなとは思ってたんだけど。首領と付き合い長いし、気心知れた仲だしね。父に打診したら、何故かわたしの名を挙げたらしくて。自分はもう引退間近だし、先見の明はわたしの方があるって。買い被りすぎだと思わない?」
「首領は冗談でもその役職名を出したりはしねぇよ。ナマエの実力を認めてるってことだ。俺は鼻が高ぇけどな」
彼女の父は準幹部の一人だが、その実力は五大幹部に匹敵する。その幹部の娘であることは、首領と俺しか知らないことだった。だから名字だけは仮名を名乗っている。親の七光りだと誹りを受けたり、拐かされたりするのを避ける為でもあった。
「受ける、受けないはお前の自由だ」
「うん、まあ、ポートマフィアを崩壊させたくないし。やっぱり父が適任だと思うんだよね。実力、実績、信頼、年齢的にも。まだまだ引退は先延ばしにしてもらわないと」
指を順番に折り込みながら彼女はこともなげに打診を蹴ると言い切った。
俺の中でふと『引退』という言葉が引っ掛かった。彼女が云うように、まだ引退するには早い気がするからだ。
「一寸思ったんだけどよ」
「うん」
「親父さん、ひょっとすると引退してナマエに異能力譲る気だったんじゃねぇか?」
「おお……その可能性は考えて無かった。でも、一理ある。というよりその線が濃厚かも」
普段は凡百ケースを想定する明晰な頭脳にも穴はあるようだ。自分が持ったことのないもの。それを手に出来る未来は永遠に無いと思っていた筈だ。だからこそ『異能を譲られる』ことは想定外すぎて考えが及ばなかったのかもしれない。
喉から手が出るほどに欲したこともあるだろう。だが今の自分が出来ることを常に考え、強さを更新しながら、彼女は己と向き合い続けてきた。
ふむ、と顎に手を宛てていたかと思えば、両手をパンッと一回打ち鳴らす。
「婚約の承諾を得に行かないとだし、ついでにそれも聞いてみようかな」
「軽っ! んな世間話しに行くんじゃねぇんだぞ? あー……付き合うけど秘匿するっつー報告だけであんなに緊張したってのに。自分勝手すぎるって怒られそうだな……」
「大丈夫! きっと全部丸く収まるよ。それにうちの父親、中也のこと大好きだもの」
俺の膝に落ちている帽子を取った彼女は自分の頭に被せて、能天気に言い放つ。何を根拠に、と思ったが鉛を飲んだみたいに重かった気持ちが、体感半分くらいにはなった。
俺の目を鏡代わりにでもしようと顔を近付ける彼女に「好く似合ってる」と返せば、嬉しそうに笑う。そして、珍しく彼女の方から接吻をしてきた。
不意を突かれて間抜け顔を晒す俺に、彼女の笑みが更に深まる。
大事なことを伝えていなかったな。一生を縛る、鮮烈で苛烈な唯一無二の契約。
彼女の左手を取り、薬指に口付ける。
「俺と」
「喜んで!」
「早ぇよ! まだ云い切ってねぇだろ!」
「わたしも中也のこと全力で倖せにするね」
「ふっ、俺の婚約者様は頼もしいな」
次の休みのために山積している仕事を早急に片付けなければならない。その日だけは緊急要請が無い限り、追加の仕事は絶対受けないと、部下に云い含めておかなくては。
莟が綻ぶみたいに笑う彼女に手を伸ばし、頬に触れる。
夜闇が支配する世界に凛と咲く日向のあたたかさを、心へ刻むように。
この眩しさに身を灼かれるのも存外悪くない。